1.<삼국지> ‘위서·동이전 진한조
진한은 마한의 동쪽에 있다. 진한의 노인들이 전하는 말이 있다. 옛날 진나라에서 있었던
노역을 피해 한국(진한) 땅으로 왔다.(辰韓在馬韓之東 其耆老傳世 自言古之亡人避秦役來適韓國)”,
2.기원전 20년(박혁거세 38년), 예전에 중국인들이 진(秦)의 난리를 괴로워하여 동쪽으로 온 자들이 많았다. 이들 가운데 마한 동쪽에 자리잡고 진한(辰韓)과 뒤섞여 산 경우가 많았다.”(<삼국사기> ‘신라본기· 박혁거세조’)
3.진서> ‘동이전’ “진한 사람들은 스스로 진나라 유민들이며, 진나라 언어와 비슷하다.(自言秦之亡人避役入韓…言語有類秦人)” . <북사> ‘신라전’은 아예 “신라의 선조는 진한의 종자”라 규정
진시황시대 만리장성노역을피해 중국인들이 지금의 경상도지역으로 이주한거같다
마한인들이 언어도다르고 다른민족인 이들에게 반도동쪽 땅(경상도)을내주고 거주를 허락한 이유는 무엇이었을까요?
『삼국지』 「동이전」 진한에 대해 ‘其言語不與馬韓同(그 언어가 마한과 같지 않다)’>>18 그때 중국이라는 나라는 없었어 중원에 다양한 종족이 있었을 뿐이지
>>24
일본인으로 동화하기 이전이니 일본인은 아니지요
제생각입니다
동북이면 승문인과 관련있는 사란일까요?馬韓は、帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓、南方は倭に接していた。
辰韓は、帯方郡の南、日本海に接し、その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。
弁韓は、馬韓の東、辰韓の南、日本海に接し、その境は、辰韓と接しており、入り組んでいた。
これらの記述から想像すると、朝鮮半島の南海岸一帯は「倭国」だった
朝鮮半島はこんな感じだった
↓
帯 方 郡
百済 辰韓
弁韓
倭 国>>33
×百済
〇馬韓
朝鮮半島はこんな感じだった
↓
帯 方 郡
馬韓 辰韓
弁韓
倭 国>>34 중국기록에 마한은 진한과 다르게 말을 타지도 못하고 말도 없다고 나와 있을텐데
깐죽 대면서 가져와 보시오 하겠지만신라가 수립되기 전에 존재했던 진한辰韓의 선주민先住民의 연원에 대해서 대략 다음과 같은 세 가지 서로 다른 주장이 전해지고 있다.
첫 번째는 『후한서』와 『삼국지』「위서동이전 한전」의 기록으로, 여기에서는 진한辰韓의 노인들이 자신들을 진秦나라에서 망명한 사람들로서 노역勞役을 피하여 한국韓國(馬韓)에 오자 마한이 그들의 동쪽 지역을 분할하여 주었다고 기록되어 있다.
두 번째는 고운孤雲 최치원 선생의 주장으로서, 진한은 원래 연燕나라 사람이 피난해 와 있던 곳이며 그 때문에 연나라의 강 이름을 따서 그들이 사는 읍과 마을을 사돌, 점돌이라고 불렀다는 기록이 그것이다.
세 번째는 『삼국사기』「신라 본기」의 기록으로, 여기에서는 조선의 유민(遺民 ; 망하여 없어진 나라의 백성)이 산과 계곡에 나누어 살면서 6촌을 이루었다고 기록되어 있다.『삼국지』 「위서 동이전」 「한전」에는 마한에 대해 다음과 같이 기록하고 있다.
“부락마다 우두머리가 있는데, 그 중에 큰 자는 스스로 신지라고 하고 부르고 그 다음은 읍차라고 한다. 이들은 높은 산과 너른 바다 사이에 흩어져 살았으며 성곽이 없다. 여기에는 ‘백제국伯濟國’, ‘고리국古離國’, ‘월지국月支國’ ‘비미국卑彌國’ 등등 50여 나라가 있으며, 진왕辰王은 월지국을 다스린다. ...사는 집은 풀로 지붕을 이고 흙으로 방을 만들어 그 모양이 마치 무덤과 같으며, 입구는 위쪽에 있다. ... 소나 말을 타고 다닐 줄은 모르고, 죽은 사람을 안장할 때만 사용했다. 구슬을 귀하게 여겨 옷에 꿰매어 장식하기도 하고, 목이나 귀에 달기도 하지만, 금은이나 비단 같은 것은 보배로 여기지 않는다. ... 나라에 일이 발생하여 관의 명령으로 성곽을 쌓을 때는 젊은이들 가운데서도 용맹하고 씩씩한 자들은 모두 등의 가죽을 뚫고, 큰 밧줄로 그곳에 한 장쯤 되는 나무에 붙들어 매고 날마다 소리를 지르면서 기력을 단련시킨다この時代の国や民族の定義は当時の中国が決めたものだから辰韓といっても辰韓人ではなくて
各集落にいろいろな民族(周、秦、燕などの亡命者)で構成されていたと思う。
もちろん同時期に日本列島にも来ているはず。
ちなみに「弓月君」については韓国側はどういう解釈をしていますか?
「弓月君」のことがもっとわかれば繋がりがわかりやすいと思うのですが・・。>>39
意味がわからなくてググってみたが、チッタとか、チナダとか、チンハダとか出てきた
訳は濃いだったwww
やっぱりわからん>>46
名乗ったのではなく、そう呼ばれた(書かれた)のです。
もともとは、倭国同様に多くの国邑(小規模部族国家)が存在する地域なので、言語体系や生活習慣の違いによって、中国の人たちから勝手に分類されただけだと思います。今の地図のように辰韓=新羅・弁韓=伽耶・馬韓=百済という単純な地図ではなく、複雑に入り混じっていたという説が有力。
日本や中国では、山西省北部から華北省南部にあった古代の韓から来てるという説が多いようですが、推測する史料も皆無なのでわかりません。古朝鮮の位置と関係してるのかもしれません(古代朝鮮は、現在の朝鮮半島ではない)。
また、辰韓(早期新羅)や弁韓は、ローマ・ペルシャ・北インドなどとの交易も実証されているので、中華文化圏とは異なる独自の文化があったのではと推測されています。倭国の東400キロ、大和国じゃん。
一千里を400kmとするとするのも異説があってだな。
魏志倭人伝で帯方郡から九州北端まで1万里(約800km)としているから
400kmじゃなくて80kmかもな。
昔のいいかげんさを含めて一千里の解釈は難しいなぁ。>>50
帯方郡から邪馬台国まで1万余4里
邪馬台国九州説、邪馬台国畿内説、等いろいろある>>54
「 >>1 」の「辰韓の興り」の記述は、老人の伝承を記述したものだ。
その老人とは、「秦」と中原の覇権を争う様な地に居た部族の末裔で、聴き手との間での会話が可能な程度の言語を話せたのであろう。そうでなければ、漢字による筆談が可能な程の文明人だったことに成る。
秦は中原の地を争う勢力を一掃し、最初の中華帝国を築き、僅かな期間で滅び逝き、その後は歴史の舞台に登場することは無い。そうなると、その頃の末裔が半島に到達し何かを生業とし棲息していたと論理上は言えよう。
そんな末裔が、その後どう言う運命を辿ったかは、殆ど記録が無いので正確な判断は不可能だが、その保有した文明は、半島の地に根付くこと無く滅び逝くことに成った。それが半島の地域史だ。>>47さん ありがとうございます。勉強になりました。
つか実際問題、邪馬台国ってどこにあったんですかね?俺は朝鮮半島南西部にものあった気がするけど。
朝鮮半島南西部が東京みたいな位置付けで、列島のどこかが京都的な感じ。てか三韓と関係ない話題ですいません
脱解尼師今よりも個人的に興味があるのが瓠公の方。
新羅王に4代に渡って仕え、新羅の王宮は元々彼の屋敷だった。
金氏の始祖も彼が発見したという、かなりの重要人物で流石にモデルが存在するのだろう。
瓢を腰に下げて海を渡ってきたといい、大国主と少彦名の神話を彷彿とさせる。
馬韓王と交渉していたり、「大輔」という様な高位につく人物がその様な風体で渡ってきたというのだから、倭国内の抗争に敗れた王族や豪族ではないかという気がする。どうでも良い事ですが、このスレ読んでて楽しいです。
>古代史ファン一同>>62
多婆那国を丹波に比定する説は名称の類似による類推でしかなく、有力説というわけではないです。
『三国史記』の日本語訳を担当した井上秀雄氏は、この部分に以下のような訳注を入れています。
ーーー
多婆那国 日本の但馬国説や、肥後国玉名郡説もあるが、元来「遣」の龍城国のような海神(水神)の国であった。新羅人の地理的知識の発展に伴って、『三国志』魏書の西域の一小国名、あるいは西域の楽神の乾(含)達婆(だっば)信仰に由来する国名に改めたものであろう。倭国のなも同様に後世の挿入であろう。
ーーー
実際、『三国遺事』では全く別名で登場しており、関係する説話の神話的色彩の強さから見ても、実際の地理に多婆那国を当てはめてみることにあまり意味はないと思います。
魏志倭人伝に登場する「裸国」や「黒歯国」に近い性質のものと考えて問題ないでしょう。>>1
古代においては現在の主権国家のような国家=国民という考え方がなかったため、恐らく辰韓への漢人移住について「土地を渡した」という感覚がなかったのではないでしょうか。
当時漢人は東アジアで最も進んだ文化と技術を持った人々であり、技術の導入や開発の面から彼らの移住は韓人の側からむしろ歓迎された可能性すらあります。
まさに似たような実例として、任那(加羅)や百済からの倭国への移住の例があります。倭王権は朝鮮半島からの移住民や捕囚民を近畿地方や関東地方に土地を与えて定住させています。これは支配者の視点では彼らに土地を譲ったわけではなく、地方開拓のための労働力として、また技術の伝搬に期待して、彼らを計画的に受け入れたものです。
同じような観点で、三韓各国の支配者達が漢人の移住を受け入れた可能性は十二分にあると考えます。>>68
脱解王と多婆那国にこだわる必要はないと思います。
しかし実際に朝鮮の歴史書には膨大な倭、倭人の記載、中国の歴史書に膨大な倭、倭人の記載があり、当時の日本はどんな国だったか、邪馬台国はどこにあったか?ロマンだけでなく歴史として面白く重要です。>>46 三韓 의 韓( han) 은 칭기스칸 과 같은 kan을 말하는것이다. 신라의 왕들도 麻立干 이라 불리웠다.
kan, han ,gahan 모두 같은 말이다. 중앙아시아 부터 몽골,만주, 중국북부,한반도에서 널리 쓰였다.
한반도에 존재했던삼한에대해서 관심있는분만
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