歴史は事実を正確に知り、客観化することが必要だ。私たちが麗蒙(元蒙)連合軍の「日本征伐」と呼ぶ戦争を中国は「元日戦争」と言い、日本は「文永の役」「弘安の役」と呼ぶ。天皇の年号で表現する日本的な自意識と勝者の余裕が感じられる。
1274年陰暦10月5日から10月20日まで、高麗軍1万4700人、モンゴル・漢軍2万5000人、900余隻の戦力が動員されて日本軍と戦争を行った。引き続き1281年陰暦5月21日から7月7日までモンゴル軍3万人、高麗軍2万7000人、江南軍10万人など4000余隻の多国籍軍が日本を攻撃したが失敗した。
私たちは麗蒙連合軍が日本を占領しようとしたが、海岸で神風にまきこまれてほとんどの船が沈没し、軍人は全滅したが、高麗の船は丈夫で被害は少しだったと知っている。奇形的な国際戦の実状はどのようで、主体はどの国だったのだろうか?また、高麗の役割は何で、兵士と国民の被害はどれほどだっただろうか?
フビライ・ハンは、1280年8月に日本を再度攻撃することを命令した。元朝の政策と積極的な参加で入場を変えたフビライの娘婿である忠烈王の協力で、最終的には、連合軍が編成された。同だなは、軍事2万人、盗撮・船員など1万7000人で構成された高麗軍とモンゴル軍1万人に組織され、電線は900隻であった。南宋の敗残兵が多数含まれている江南軍は10万人に3500隻の電線が参加した。
1281年旧暦5月3日呂蒙連合軍は再び合浦を出発した。
狭いだけで固定させた連合軍の4000隻の船は、衝突して浸水しお手上げに沈ん、漂流した。なんと2000隻が沈没した。阿鼻叫喚だった。江南軍は戦線3500隻の軍事10万人で参戦したがちょうど台風に会って、すべて溺死し、体が捕球に流れ込み詰まったと記録した。主に江南軍人捕虜はほとんど消され、ごく少数だけが奴隷になった。幸いなことに高麗軍は被害が最も少なかったが、1万7029人のうち7592人が帰還していなかった。予想外の敗北を喫した隊員のフビライは3次遠征を計画したが、最終的には1294年80歳で歴史の中で退場し、自然に日本遠征は中止された。
https://www.hankyung.com/life/article/202008097328g
麗蒙連合軍の日本征伐(元寇)の神風ごときでは、高麗軍の船にはかすり傷しか負わせることはできなかった
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