한국사 쉽게 외우는 법 좀 알려줘
朝鮮の仏教について教えて頂きたい
高麗の時代には準貴族扱いでしたが李氏時代には高麗の否定と儒教の国教化の為徹底弾圧され世宗の時には36の寺院を残すのみ、僧侶は賎民まで落とされ首都へ入るのは禁止されていたのは知っています
李氏朝鮮では仏像は首を落とし、経典は燃やすだけでしたが日本でなら高く売れるとの事で庶民が大量に密輸したし、賎民に落とされるのを嫌った仏僧が日本に逃げる時に持ち込んだので高麗時代以前の仏像や経典が日本に残っているのですが何故韓国では日本が盗んだことになってるのでしょうか?
いくら調べても妄想を記述した記事しか見当たらないのでここらを詳しく教えて頂きたく…조선 역사 암안걸리는법좀
韓国の皆さんにとって、ネット上での「史料」の検索サイトは、どの様なものが在りますか?
以下、必要している理由です。上手く機械翻訳されなかったら、下の記載は無視して頂いても構いません。
歴史学は、「史料」に基づき、それから導き出される「史実」を探求する学問あり、今生きている論者の個人的な願望や価値観が時空を超越するかの如く、過去の時系列に投影した独自の「パラレル・ワールド」を形成し、共に吠え合うものでありません。
しかし、日本人も含め、自分の一方的な意見や感情を記載しただけで、その根拠なる「史料」を示すことが少ない様に思います。日韓での歴史上の解釈の違いは、同一の「史料」を基にした議論が為されいないことも、大きな一因と、日頃から感じています。
それで、当方としては、史実に関係するレスを投稿する場合は可能な限り、史料を検索し、そのURLとその頁の画像を付ける様にしています。しかし、それでは、日本の「国語」の範囲の文章で書かれており、今の「韓国人」には視ても判らないのでしょう。
もし、韓国内でも、日本並に「史料」を公開しているサイトが在るなら、それを併記する手も在りかな?と思ってます。
日本側には、幸いにも半島の古代史から日韓併合後迄の歴史的文献が揃っており、それは、日本の「国立国会図書館」に納本義務と言う形で明治以来蓄積され続けています。それが、ネット上でも、著作権上の問題が解決したものから随時公開されています。そこで、日本語で「朝鮮総督府」と「調査資料」のキーワードで検索すると、根幹になる文献の大半がリスト出来、その中の出典「史料」を漁れば、概ね史料に忠実な解釈が可能になります。
http://dl.ndl.go.jp/
Googleの書籍検索でも同様に著作権切れの書籍が閲覧出来はしますが、日本語または漢字で検索したものは、今の「韓国人」には、漢字が読めなければ意味がないでしょう。韓国語に翻訳後のものは、余計な解釈が加わり、当を得た議論にならないのかもしれませんが、伝わらないよりは、まだ、マシなのかもしれません。そういう趣旨ですので、どうか宜しくお願いします。>>1
Google君の翻訳がかなり怪しいので、機械翻訳でチェックしながら得た、意訳の和訳文です。タイトルは言語判定が、中国語に成る様です。文頭はハングルで始めた方が、韓国語としての認識確率は上がる様ですよ。
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Title「韓国史(但し、近現代史を除く)に関連した質問を受けます」
知りたかったことあれば、コメントを残してくれ。私の知る限りでなら、可能な限り回答してあげるよ。
#############################################################################################日本では、古代の朝鮮半島南部は、倭国の支配範囲だったと分かっています。
歴史研究は、実証主義に基づいています。過去の文献や発掘の研究を基礎としています。
韓国では、半島の古代史で、このような文献や研究成果は知られていますか?
朝鮮では新羅の首都である慶州の王冠に、日本固有の勾玉がいっぱいぶら下がっている。
半島南部には、日本式の前方後円墳の古墳があり、それが倭国の支配を実証しているとされています。
宋書倭国伝・・・・・・・・・・・・朝鮮半島は倭の支配が及んでるとも書いてる
満州にある広開土王碑・・・倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。
三国史記「新羅本記」・・・・慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。
新羅は何回も王子を人質に差し出している。
百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。
日本書紀・・・・・・・・・・391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。
宋書・・・・・・・・・・・・倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。
随書・・・・・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。
百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。ところが、日本の豪族の物部氏も秦氏も蘇我氏も天皇家も、百済民族なのである。
日本の建国神話は百済の歴史の一部なのである。
故郷である朝鮮半島制圧のために
何度も日本は出兵してるのである。
日本人も朝鮮人も天皇の臣民なのである。>>12
君の頭の中ではそうだろうwお前ら喧嘩っ早いのな
もうちょっと空気読むとか出来ないのかよ>>4
논란이 되었던 浮石寺 觀音菩薩坐像같은 경우, 文明大 敎授에 의해 倭寇가 약탈한 것이라는 說이 提起된 바 있지만, "그럴 蓋然性은 있지만, 日本에 건너간 理由, 背景, 經路 等을 說明해주는 史料가 없기 때문에 斷定짓기 어렵다"라는 것이 韓國 學界의 立場이다. 다만 寄進한 人物의 背景과 時期가 分明한 鍋島 報效會 所藏 金字妙法蓮華經이나 多久頭魂神社의 靑銅製 飯子는 倭寇에 의한 약탈로 日本에 搬入되었을 可能性이 상당히 濃厚하다.
>>7
黑笠은 朝鮮 成宗 代에 定着된 朝鮮의 代表的인 笠子다. 주된 材料는 馬尾, 대나무, 布, 紗였다. 階層에 따라 크기, 섬세함, 材料가 달랐고, 材料에 따라 名稱도 多樣했다.
朝鮮時代 男子 笠制의 變遷(姜榮煥, 「문학과 예술」 『신편한국사』 31, 2002 pp. 610에서 발췌함)>>10
韓國 學者들은 倭가 韓半島 南部에서 軍事的 活動을 벌인 것은 否定하지 않지만, 倭의 韓半島 南部 經略을 認定하진 않는다. 前方後圓墳은 榮山江 流域과 같은 全南 西部一帶에서만 發見되고 있고, 時期도 6世紀 前半 頃에 限定되어있다. 倭系 官僚說이 그나마 蓋然性 있다.
冊封은 名目 官職에 不過하므로 實效性은 없다. 宋書에 나타나는 六國諸軍事도 倭5王이 要請했고, 倭보다 官位가 높은 百濟는 항상 倭王에게 除授하는 官爵에서 除外되었다.
廣開土王陵碑의 解釋은 學者들마다 다르다.
新羅가 倭에 人質을 보낸 건 實聖麻立干 때의 訥祗가 唯一하고, 이것도 實聖麻立干 本人의 政治的인 意圖가 多分했다. 百濟가 王子를 持續的으로 日本에 質로 보낸건 여러 解釋들이 있지만, 低姿勢 外交를 취한 건 맞다.
日本書紀는... 말할 것도 없지?
隋書 本文에서 言及되듯이 해당 敍述은 600年에 高祖가 倭의 風俗을 묻자 여기에 대한 倭使의 答辯에 依據한 것이므로, 客觀性이 있다고 할 수 없다.>>8
http://db.itkc.or.kr/itkcdb/mainIndexIframe.jsp <- 韓國古典綜合DB
http://sillok.history.go.kr/main/main.do <-朝鮮王朝實錄
http://db.history.go.kr/ <-國史編纂委員會 韓國史데이터베이스
http://terms.naver.com/list.nhn?cid=49401&categoryId=49401 <- 네이버에서 제공하는 歷史記錄物 國譯 서비스>>10
아래 지도는 넷 상에 많이 퍼져있는 前方後圓墳 分布圖인데, 잘못된 부분들이 있다. 景山里 1號墳(H), 雲谷里 1號墳(I)은 倭色(특히 北九州)이 짙은 橫穴式 石室墳이고, 松鶴洞1號墳(A)은 前方後圓墳과 類似하다는 指摘을 받았지만 사실은 大小形 古墳 3基 以上이 重複되어 있었다(東亞大學校博物館,「固城 松鶴洞古墳群 시굴조사 현장설명회자료」, 2000). 羨道, 墓道 內部가 붉게 塗裝되고 石室에 木材旋盤과 揮帳用 철 못이 設置되어 있는 점, 분구 바깥의 가장자리 부분에 設置된 周溝 속에 配置된 적갈색 圓筒形土器는 松鶴洞1號墳에 九州, 全南 地方에서 原流를 찾을 수 있는 外來的 要所가 강하게 작용되어 있음을 보여준다(沈奉謹, 「固城 松鶴洞 第1號墳 築造手法과 內部構造」 『石堂論叢』 35, 2005).>>15
ありがとうございました。
馬のしっぽは日本人からすると面白い素材です。日本は筆に使うくらいでしょうか。
しっぽで作るから大きな笠が作れるのですね。>>22
書き忘れましたが、百済の王子の人質の記述は、過去何度も繰り返されています。
そのまま素直な解釈が正しいと思います。>>1 伝統は大切です
せっかくなのでひとつ。
金元龍先生の本来の専門分野はいつの時代なのか
三国時代、原三国時代、青銅器時代、新石器時代、旧石器時代
学史の最初の方に必ず居て何かしら重要なことをやってる
美術史の本にまで現れて李朝の美術について書いていて驚いた
釈迦の掌の上にある孫悟空の心境である
また、韓国の歴史学者/考古学者はこうして広い時代を通史的に研究するのが一般的なのか
それとも金元龍先生が凄いのか>>30
貴方が疑問に思うのは貴方の自由です。韓国にはいい話がない
答辯이 늦어져서 죄송합니다만, 個人 事情 때문에 저녁 쯤에나 다시 올 수 있을 것 같습니다. 그럼 나는 잠시...
高麗、李氏朝鮮時代の税制について聞きたいです。
農村からの徴収は分かりますが農業生産の乏しい場所で従事している人々はどのような形で税をとったのでしょうか?
あなたは知っているかもしれませんが日本では中世まで「散所」と呼ばれる農業収入の見込めない場所の住民は
税を免除されておりその代わりに軍役や労務が課せられました。
朝鮮においても「散所」に近い場所はあったでしょうからどの様な形で徴収していたのか気になります。そしてその5000年の歴史の結果がこれか↓w
YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=xex8lRjUmJ4
まともな国民なら知的好奇心から色々調べるのだけど、そういう国民性でも無いらしい
>>36
漢字使ってる半島の人はエリートだぞ
ハングル愚民と一緒に扱っちゃ駄目
結構意外な事や深い事教えて貰う事も多いいちいち相手をあざ笑うような書き込みをするのは何とかなりませんかね・・。
>>21
2006年에 全南 高興郡 吉頭里 雁洞古墳에서 出土된 甲胄 遺物을 百濟歷史文化館에서 復元한 것이다. 金銅冠, 金銅신발, 連弧紋境, 環頭刀 等의 威勢品들이 多量으로 出土되어, 被葬者는 상당한 有力者였던 걸로 推定된다.
關聯 記事들
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000319168
http://www.newsdigm.com/sub_read.html?uid=2940
>>22
>>26
난 碑文 僞造說을 肯定한 적이 없는데? 韓國에서도 專門家들 앞에서 이런 주장하면 비웃음당한다. 辛卯年條의 解釋과 관련해서 學者들의 見解가 엇갈린다는 것뿐.
>>29
當時 韓國에는 未知의 分野였던 考古學, 美術史를 開拓한 사람이 金元龍 先生. 그의 「韓國考古學槪說」(1973), 「韓國美術史」(1968)같은 著書들은 韓國考古學, 美術史의 바이블이라고 해도 過言이 아니다. 武寧王陵 發掘 때의 일로 크게 非難받고 있긴 하지만.
>>31
추가: http://gsm.nricp.go.kr/_third/user/frame.jsp?View=search&No=3&SearchGubun=key
<- 韓國金石文綜合映像情報시스템>>37
豊凶의 程度에 따라 減稅해주는 制度는 있었다. 高麗 末부터 施行된 踏驗損實法은 土地의 作況 等級을 10分으로 나누고 最高 30斗에서 最低 3斗까지의 收稅量을 정하여 災損에 따라 減稅했다(損 8分이면 租를 全額 減免했다). 그러나 踏驗官의 恣意性과 中間 不精과 같은 弊端때문에 廢止되고, 世宗때부터 貢法이 實施되어 郡縣(나중에는 邑, 面으로 바꿨다)을 單位로 豊凶에 따라 上上年 20斗 ~下下年 4斗에 이르는 年分을 정하는 年分九等法이 導入되었다. 같은 年分에서 發生하는 陳田, 災傷田는 別途의 節次를 걸쳐 免稅되었다. 그러나 鄕吏, 書員이 踏驗에 關與하면서 여러 弊端이 發生했고, 陳田, 災傷田의 把握 또한 제대로 이루어지지 않았다. 16世紀부터는 下中年의 6斗 乃至 下下年의 4斗로 固定되었고, 仁祖 때부터 이를 永定法으로 法制化했다. 英祖 때는 戶曹에서 年分事目을 各道에 보내면 守令들의 踏檢, 觀察使의 考覈과 報告, 敬差官의 審査를 거친 후 各道에서 올라오는 年分文書를 토대로 收稅하는 比總法이 實施되었다.
>>39
그래도 인터넷에 떠도는 근거없는 雜知識보다는 제대로된 學術書로 공부한 사람한테 배우는 것이 더 낫지 않겠어? 아님 말고....
>>43
그렇게까지 치켜세워주면 부담스럽잖아... ㅠ
>>44
後期 倭寇라면 모를까, 前期 倭寇까지 韓半島, 大陸 勢力들의 加擔을 旣定事實化할 수 있는지 疑問. 日本 學者들이 "根據史料"로 提示한 것도 양이 너무 적고, 그나마도 誇大解釋과 論理的인 飛躍이 亂舞하다.>>50
金元龍先生の「韓国考古学概説」の第三版が出ていることを今知りました。出版してくれたらよかったのに。
確認した限りでは多分日本語訳は出ていないと思います。
画像の物が六興出版の1984年版、
その前の版のものが72年に「韓国考古学概論」として日本語訳が出てるのは見たことがありますが……
日本語版の出版元の六興出版が92年に倒産しちゃったせいだと思います。
このせいでかなりの数の人文系の重要な学術書が手に入りづらくなったことが
あるらしいと聞きました。>>22
「例えば、満州にある広開土王碑の銘文は既に結論が付いています。」
ん? 広開土王碑の内容について、偽造説によって間違った内容を元に「國漢文混用蟲」さんが説明していると思っておられますか? それは貴方の勘違いだと思いますよ。
当方は、「國漢文混用蟲」さんが「廣開土王陵碑の解釈は学者ごとに異なっている」と但し書きで書いている、以下の部分はの解釈は、韓国内で流布している、民族主義的な解釈とは全く違い、極めて公平な書き方ではないでしょうか?
「新羅が倭に人質を送ったのは實聖麻立干時の訥祗が唯一で、これも實聖麻立干本人の政治的な意圖が多分した。」
「百済が王子を持続的に日本に質に送った件について、複数解釈がありますが、低姿勢外交を取ったのは正しい。」
韓国の民族主義的な、とんでもない説として、「百済は、日本を支配しており、日本は韓国から追い出された劣等民族の末裔である!」というようなとんでもない内容があります。ですが、「國漢文混用蟲」さんが書いている内容は、すなわち以下です。
「百済は日本に低姿勢外交を行い、何度も人質を出していた。」
「新羅も、一度だけ人質を送った記録があるが、いろいろな意見がある」
新羅について、韓国側から言及されるのは、とても新鮮でした。 もちろんその一度の記録だけなので、当時の日本と新羅の外交戦の中で色々な解釈があります。当方が読む限り、「広開土王碑」の内容を忠実に解釈して、かなり公平な解説ではないでしょうか?
>>52
自己フォローします。
誤
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当方が読む限り、「広開土王碑」の内容を忠実に解釈して、かなり公平な解説ではないでしょうか?
--------
[広開土王碑]には、そこまでの内容が無いので、少し修正します。
正
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[広開土王碑]の内容と、そのほかの学説を、かなり公平な解説ではないでしょうか?
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ちなみに、[広開土王碑]で、日本が朝鮮を一時的に占領したように解釈される部位があります。
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百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡●破百殘、●●新羅、以爲臣民
--------
上記は、文字が崩れて読めない「●」が色々解釈できるので、この部分は、色々な学説があるというのが「國漢文混用蟲」さんの書いていた事ですね?
それ以外の資料をもって、以下のを補完して説明されたのだと考えます。
「百済は日本に低姿勢外交を行い、何度も人質を出していた。」
「新羅も、一度だけ人質を送った記録があるが、いろいろな意見がある」
以上、自己フォローでした。>>10
[日本では、古代の朝鮮半島南部は、倭国の支配範囲だったと分かっています。]
古代といっても、時期的にはかなり限られた期間であれば、支配地域だった可能性が結構あります。ただし「支配地域」の定義にもよります。
例えば、「李氏朝鮮」を「明」や「清」の支配地域と定義するならば、朝鮮半島の「百済」等の勢力は「日本」の支配地域だったかもしれません。
いくつかの文献では、主に百済が倭に人質を差し出している事は、明白で、文化交流も盛んであったため、日本から朝鮮半島南部への文化的な流入は、あったと思います。
少し前までの韓国の歴史学会は、「朝鮮→日本」への文化の流れがあることが正しいとして、「日本→朝鮮」の文化が流れる事は、「あってはならない」タブー扱いでした。しかし、ちゃんとした学会では、ある程度は許容しているようです。「日本→朝鮮」の文化が流れる事は、大衆迎合的な民族主義的歴史家が、非常に拒否感をもって全力で否定している事ばかり、話題になる為、まともな実証主義的な歴史家が、時々売国奴のように罵られる事について、私は彼らに対しては同情的です。朝鮮半島の銃について教えてください。
朝鮮半島では鳥銃と呼ばれていた、従来の銃より命中精度が高いマスケット銃ですが、サルフの戦い(薩爾滸之戰)頃は、戦国時代に日本で大量に生産されて余った銃を、輸入して使用していたようです。ただ、命中精度が悪いものであれば、かなり早期から銃そのものはあったようですが、兵器の時系列的な存在については、整理できません。
命中精度の高い鳥銃も、ある時期から朝鮮半島内の京工匠や外工匠によって、生産できるようになったような事を聞きました。ただ、李氏朝鮮末期の社会的混乱で、以前作れていたもが、李氏朝鮮末期には姿を消すパターンも多かったようで、時系列の整理が非常に困難です。
特に鳥銃については、歴史的な戦争にいろいろ出てくるので、それらを、時系列的にまとまった資料があれば、ありがたいです。
また、どの時代のどの頃まで、こういう兵器があったという情報でよいので、ある程度まとめた状態の情報もあれば、それも興味があります。特に火薬兵器は、中国の影響で非常に多様であったのは知っていますが、時系列がバラバラなので、それをまとめた情報があれば、うれしいです。
よろしくお願いします。
>>47
有難うございます
記事と併せて読むと5世紀前半の全羅南道高興郡の出土のようですね。
副葬品の内容から見て被葬者は当地域でかなりの権力を持っていた者であると。
ところで、関連記事を見ていましたが同時期同地域の高興野幕古墳でも副葬品として三角板革綴短甲と三角板革綴衝角付冑が出土しているようですね。>>46
下記の件ですが...
「朝鮮出兵のスレで意図的に事実関係の混同を狙って来たり、拡大解釈やってるあたりまあ本質的にはそういう人なのね…」
悪意のある「混同」や、「拡大解釈」をしていたのならば、その混同や解釈の広げすぎを指摘して、何が違うの部分を、明確にすればよいかと思います。もちろん、民族主義的な歴史家が韓国に多く、それに対して影響を受けた内容もあるかと思います。しかし、それを埋め合わせる努力せずに、相手の人間性を疑うような書き込みは、良くないと思います。
もし、そういう拡大解釈や、混同があれば、この場でその部分に対して、質問して訂正してはいかがですか? 少なくとも、このスレである、近代史を除く韓国の歴史は、「朝鮮出兵」も一つの関連する歴史だと思います。 まずは、そこに参加するところから始めましょうよ。>>58
下記の件ですが...
「劣化しているのではなく、今まで歴史に無関心だった層まで嫌韓が浸透していると見た方が適当だと思う。」
劣化という書き方は適当ではなかったと思います。すみません。貴方がおっしゃるとおり、歴史に無関心だった層まで嫌韓が浸透した為、内容の妥当性判断をせずに、一方的な冷笑を含んだ回答をする人に、嫌気をしていたのかもしれません。 少し冷静になりました。
>>48
やっぱり土地に農業収入があること前提の税制度なのか…。>>61
「政治思想を歴史に持ち込むことは科学的態度とは言えない、という事をせめて歴史版に来る人だけでも徹底して欲しい物だ」
貴方の考えに賛成いたします。>>55
壬亂 무렵
1589年에 對馬島主 宗義智가 孔雀과 함께 鳥銃 여러 자루를 바침. 朝鮮에 鳥銃이 公式的으로 導入된 건 이때가 最初다. 戰爭을 겪으면서 鳥銃의 製造에 觀心이 集中되어, 1593年에 訓鍊都監을 設置해 鳥銃의 學習과 捕手의 養成이 이루어졌다. 1594年부터는 訓鍊都監 內에 鳥銃과 火藥의 生産 體系가 갖추어졌다. 黃海道, 忠淸道에 있는 石炭, 鐵山地에는 都會를 設置해 鳥銃과 火藥을 大量으로 生産하게 했다. 이때의 鳥銃 製作은 降倭에게 技術을 傳受받거나, 倭銃을 見本으로 國內의 匠人들에게 製作하게 했으나 明과의 協定으로 鳥銃과 降倭는 明으로 보내져야 했고, 國內에서 製作한 鳥銃도 倭銃보다 品質이 떨어졌다.
17世紀 初中半
火器都監을 廢止하고 軍器寺 所屬의 軍器別造廳으로 代替. 그러나 여전히 國內 製作 鳥銃의 品質이 뒤떨어져 譯官들을 통해 倭銃을 輸入했다. 訓鍊都監에서 수많은 匠人들을 留置한 結果 鳥銃의 質과 生産量이 크게 向上되었고, 丁卯胡亂 以後 關西 地方에서 鳥銃 製作이 이루어져 鳥銃의 一般化가 이루어졌다. 月課軍器制의 施行 아래 民間에서의 鳥銃 私造가 이루어져, 國防에 대한 對策으로 鳥銃의 確保를 위해 民間에서 鳥銃을 國家에 바치면 減稅, 免役의 惠澤을 주는 制度가 實施되었다. 이때부터 鳥銃의 生産量은 上昇期에 접어든다.>>55
17世紀 後半~18世紀
"鳥銃 閭巷間 處處私造"라고 할 정도로 鳥銃의 民間 製作이 盛行하여 民間軍需業과 運送業이 發展되었고, 訓鍊都監의 鳥銃 生産量이 계속 增加하여 이에 따라 鳥銃의 價格도 引下되었다. 國防政策의 變化로 인해 軍門에 대한 財政的 支援이 大幅 削減되자 訓鍊都監과 같은 國家機關에서 軍器物을 賣買하기도 했다. 아울러 千步銃, 火車같은 新武器들의 開發도 이루어졌다.
19世紀
洪景來의 亂 以後 勢道政權 下에서 銃器의 私造·私賣가 禁止되고, 火器의 硏究, 開發도 中止되었다. 以後 朝鮮의 火器는 급격히 衰退한다.
參考 文獻
『朝鮮王朝實錄』
『備邊司謄錄』
盧永九, 「16~17세기 鳥銃의 도입과 조선의 軍事的 변화」 『韓國文化』 58, 2012
李旺茂, 「朝鮮後期 鳥銃製造에 關한 硏究 - 17ㆍ8세기를 중심으로」 『京畿史論』 2, 1998
김종수, 「훈련도감 설치 및 운영의 동아시아적 특성」 『장서각』 33, 2015
柳承宙, 「朝鮮後期 軍需鑛工業의 發展: 鳥銃 문제를 중심으로」 『史學志』 3, 1969韓国では楽浪郡や帯方郡の存在を教えないって本当なの?wwww
>>66
응???!!! 가르치는데? 어디서 들은 얘기야?>>64
非常に詳しい情報ありがとうございます。
私の知識の整理の為、当方の知識を加えて整理してみました。
朝鮮半島における鳥銃黎明期
1589年に對馬島主宗義智より、鳥銃複数を入手する。(公式資料)
1592年に文禄・慶長の役(壬辰倭乱)を通じて、鳥銃の製造技術について調査開始される。
1593年に訓練都監を設置を設置し鳥銃の学習と捕手の養成を行う。
1594年に訓練都監內に鳥銃と火薬の生産体系が整った。
降倭の武将より、技術伝授がなされるが、明にジャイアンされる?って事かな?
(金忠善?沙也可?サイカ(雑賀?)、鈴木善之?、)珍説含めれば色々あるが、
1600年中期
当方、以下初めてしりました。
「月課軍器制の施行下民間での鳥銃私造」
官庁所属の工匠制の内部ですべて鳥銃を製造していたと考えていた為、「鳥銃私造」は完全な初耳です。
むしろ、国防対策の為、税金や兵役に代えて、銃を納品する体制で兵器製造の増産体制を持っていたとすると、かなり私の認識の変更が必要。
1600年末期~1700年代
当方の認識は、以下の部分からです。途中で体制が変わったとの事ですね。
「國防政策の變化により、軍門の財政的支援が大幅削減されると訓鍊都監のような國家機關で軍器物を賣買」
上記は、官庁所属の工匠制の内部で製造するようになったとの認識でよさそうですね。
一時期であれ、民間で銃製造が隆盛したというのは、まったく知らなかった事です。
千步銃は、ドラマで知りました。朝鮮半島に射程1000mを超えるスナイパーライフルのような銃あるとは思ってなかったので、かなり嘘っぽいと思いました。時期的には、歴史上まだ国家に力があった1700年代で、この時期が兵器開発のピークと言う事で良いのかな?>>65
続きです。
1800年~1900年初頭
当方の李氏朝鮮の知識はここが始まりでしたが、兵器開発が禁止された具体的な発生事象が「洪景来の乱」であったのは、初めて知りました。この時期の反乱は、反乱軍側も銃を使用した反乱だったのでしょうか?
下記の内容を読むと、反乱時の火器使用を相当恐れていたように感じます。
「洪景來の亂以後勢道政權下で銃器の私造・私賣が禁止されて、火器の硏究、開發も中止された。以後朝鮮の火器は急激に衰退する。 」
1800年初頭には世界は植民地政策の真っ只中です。その中で「兵器開発も辞めました。」というのは、もう将棋で言えば、詰んでるとも言える状況かな...。
全体を通じて、1700年中ごろまでは、民間で銃製作ができるほどの、国全体としては国力があった訳で、当方の知識は李氏朝鮮の末期100年の悲惨な状況の情報に偏っており(日本の嫌韓の悪い部分)、このような情報は非常に少なくてありがたいです。
詳細な情報ありがとうございます。
勉強になりました。>>69
桂甲は元々高句麗等の北方系の甲冑
日本でもそれまでの短甲に加えて5世紀半ばから騎兵向けの装備として取り入れられるようになる
大鎧など後の甲冑は桂甲が元になったと考えられている罵りに来たのに何だこのスレ!
実に不快である
こんなマトモなスレに用は無い
帰る!>>73
パトロールは、別のスレで、お願いします。>>75
「半万年前の遺構があるのでしょうか?」
北朝鮮が捏造してました。ネタ振りありがとう。
檀君の生没年が5000年前であるという結果から、北朝鮮では平壌周辺にこれまでの世界四大文明に匹敵する古代文明が存在したと主張するようになり、これを『大同江文化(대동강문화)』と名付けた。
少なくとも、韓国人で、檀君の実在性を信じている人はさすがに居ませんが、韓国の歴史の教科書に書くものだから、歴史のテストで檀君を答えれないと、点数もらえないという珍現象があります。ただ、日本も古事記の記載されている神武天皇の神話を、学校のテストで答える時はありましたが....。
檀君にもどりまして、『三国遺事』を書いたお坊さんが作った神話ですが、少し詳しく書けば、中国の神話にでてくる『堯』という君主から朝鮮半島に遣わされたように書いている部分がありますが、『三国遺事』に記載されている檀君を、拡大解釈した「申采浩」と言う人物が非常に現在の朝鮮に繋がるたくさんのファンタジーを提供しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E9%87%87%E6%B5%A9
さすがに、韓国内の真っ当な学会でも、ほとんど否定されているのですが、大韓民国の建国時、かなり多くの民族主義的な思想から「申采浩」を称賛する人がいた為、あり得ない想定を「朝鮮正史」として認定してしまいました。その結果、紀元前2333年を元年とする檀君紀元(檀紀)を定め、1961年まで公的に西暦と併用していました。
これをもって、5000年の歴史でしたが、韓国内の実証主義的な歴史家の苦悩は、ここで始まったといえます。正史として扱われている民族主義的な歴史を、なるべく神話に戻そうとすると、民族主義的な人たちから総攻撃を受ける事があり、当方は韓国に居る実証主義的な歴史家を応援しています。
檀君から離れまして、少しまともな話をしますと、当時の朝鮮半島は「櫛目文土器時代」で、日本の縄文時代と同様、土器を使用した文化はありました。まぁ、土器文化としては、日本も韓国も似たようなものかな?
こんな感じでよろしいでしょうか?>>70
>>71
非夢似夢할 때 써서 글 내용이 좀 엉성하다. 특히 鳥銃의 導入에 따른 軍制 變化에 대한 記述이 빠졌으므로, 좀 더 補完하도록 하겠다.
壬亂 初에는 砲手의 重要性과 養成 問題가 浮刻되면서 새로운 軍事 制度 創設의 必要性이 擡頭되었는데, 이에 따라 中央에는 訓鍊都監이, 地方에는 束伍軍이 設置되었다. 訓鍊都監의 主力은 砲手, 殺手였고, 束伍軍 또한 1596年에 이르르면 砲手와 殺手의 比重이 52%에 달하여(아래 表 參考), 朝鮮의 地方軍 編成이 旣存의 射手 中心에서 새로운 兵種인 砲手와 殺手 中心으로 急激히 바뀌어 가고 있었음을 알 수 있다(日本에서도 壬亂 以後 鐵砲의 比重이 높아지고 弓이 消滅하고 있었음을 確認할 수 있다). 光海君 代에는 對女眞 防禦戰略으로 火器를 利用한 守城 戰術과 戰略이 採擇되어, 守城에 重要한 砲手의 養成과 多樣한 火砲의 製作이 이루어졌다. 또한 鳥銃의 5列 혹은 10列의 連續 射擊을 통해 鳥銃의 弱点이었던 낮은 發射 速度와 時間的 間隔을 없앨 수 있었고, 野戰의 決戰 可能性도 줄어들어 射手, 殺手의 比重이 낮아지고, 砲手의 比重이 커지게 되었다. 또한 日本으로부터의 輸入과 自體 製造 等을 통해 鳥銃 補給이 급속히 이루어졌다.
이러한 砲手 中心의 軍 編制는 丙子胡亂 以後에 加速化되었고, 孝宗 代에 들어 더욱 積極的으로 推進되었다. 또한 漂流한 네덜란드인들로부터 記述을 傳輸받아 새로운 體制의 鳥銃이 製作되어 旣存 火繩式 小銃의 性能이 크게 向上되었고, 砲手는 全體 軍事體制에서 主導的 兵種으로 定着하게 되었다.
『鎭管官兵編伍冊』 「都已上」 條에 나타나있는 1596年 寧邊, 安州, 龜城, 義州 鎭管의 束伍軍 編成
(盧永九, 「위의 論文」(2012) pp. 120에서 발췌함)>>79
ご説明ありがとう。面白く読ませてもらいました。
それにしても、韓国(韓国人)は面倒な国(人種)ですね>>77
真面目にこのキリスト像なんでこんな筋肉隆々にしたんだろう…。
製作者の意図が知りたい。>>84
ハングルの可読性良いかと思います。ただ、同音異義語が機械翻訳では、間違った翻訳が多く、その部分だけでも漢字にしてもらえると、それが日本人が機械翻訳を通して読んだ時に、とても読みやすいものになります。
漢字で書いていただけると、日本人にとっては感動しました。
機械での翻訳は、文脈判断で、日本語の漢字に割り当て直すのが、まだまだ難しいようです。>>84
補足。 ハングル自体は可読性が悪くないので、ハングルだけで良いという判断も当然ありますが...
貴方が漢字が読める知識人なので.... ほかの韓国人と、話をして資料を昔の新聞とか、漢字が混じった資料を使って話をすると、話が嚙み合わない。 半世紀前の出来事の情報も、特に20代ぐらいの人だと、まったく不通状態になってしまう。 かなりもどかしい。
>>81
詳細な情報ありがとうございます。
当方が思っていたよりかなり急速に、鉄砲隊(砲手)に変わっていったという事ですね。
「鳥銃の5列、あるいは10列の連續射擊を介して鳥銃の弱点であった、低發射速度と時間的間隔をなくす」
これは、日本で言う通称「三段撃ち」と同じ、連射射撃方法に見えます。1575年の織田信長(同盟関係の徳川家康を含む)と武田勝頼が戦った長篠合戦で、鉄砲隊は、「弾込」、「火付」、「射撃」の複数工程に分けて隊列をつくり、順番に打ったという伝説があります。(実際の運用で、三段撃ちが使用されたかは、議論されています。)
5段であったり、7段であったり、鉄砲の扱いの訓練度に合わせて、段数を調整て隊列を作った陣形が、それ以後の戦いでは一般的に使用されたようです。
文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の時に、朝鮮半島に残った鉄砲隊の人の影響があったのかな?
しかし、1596年時点で、90%近くが飛道具関連の武器になってるんですね...。 時代的には、確かに刀から、鉄砲だったのだろうけども。
下記の件ですが...
「漂流したオランダ人から記述を傳輸受け、新しい體制の鳥銃が製作されて旣存火繩式小銃の性能が大幅に向上され、砲手は全體軍事體制で主導的兵種に定着」
この時期頃から、朝鮮国内にて製造された鉄砲の精度が向上したのでしょうか? 丙子の役(丙子胡亂)なので、1636年~1637年以降頃ですね。
>>85
以下の二つは、漢字の意味でなんとなく分かりましたが...
---------
射手は弓兵、砲手は銃兵。
---------
以下は、歩兵のなにか、わかってませんでした。
---------
殺手は槍兵
---------
説明ありがとうございます。>>91
お早い回答ありがとうございます。>>93
너무 늦은 것 같지만... 原 소스로 추정되는 논문을 찾은 것 같다.
卞麟錫, 「七世紀中葉 白江口戰의 硏究史的 檢討」, 『釜山史叢』 2, 1986
위 논문에선 "國人相謂之曰 州柔降矣 事無奈何 百濟之名 絶于今日 丘墓之所 豈能復往"을 百濟係人의 歸巢的 意識을 보여주는 것이라고 해석했다. 다른 몇몇 논문에서도 같은 내용을 敍述한 부분에서 이 논문을 인용하고 있다.
동일한 著者의 또 다른 논문(「七世紀 中葉 白江口戰에 참가한 日本軍의 성격에 대하여―도래인 水軍의 歸巢性的행위를 중심으로―」, 『國史館論叢』 52, 1994)에서는 日本에서 파견된 백제 구원군의 성격을 百濟係 渡來人의 本鄕에로의 歸巢的 參戰이라고 規定하고 있다.>>96
良く見つけましたね。遅くなっても、追加情報として情報元を記載する事は、尊敬できる心がけだと思います。
他のスレッドでは、情報元がどこか不明な情報を、散々カットアンドペーストしているだけの状況を考えると、このスレッドは、異端だったかもしれないです。高麗王朝時代の武臣政権(武人政権ともいう)について教えていただきたい。
1170年(明宗元年)から1270年(元宗11年)の100年間、
高麗王朝は崔忠献のような軍事を担当する武臣が「教定別監」となって
実権を握り、国王を傀儡化していました。
だが、崔忠献などの武臣政権の最高権力者は、国王を好き勝手に廃立していた
にもかからわず、自ら国王になることはありませんでした。
武臣政権は、日本でいえば、征夷大将軍が最高権力者である
鎌倉幕府や室町幕府、江戸幕府などの幕府に似ているのではないか。
日本の征夷大将軍が天皇を廃立する力があったのに、形の上では天皇の臣下で
あったのと近いといえるでしょう。
武臣政権の最高権力者は、なぜ国王にならなかったのか。國漢文混用蟲さん
呼ばれてますよ。
おいでくださーい。
「高麗王朝時代」詳しい人、いませんか?>>1
아세아에서 유일한 미국 반식민지 국가!
한국 대통령보다 미국대통령을 더욱 존경하는 조선인들>>101
属国になっていたからだろう。
宗主国と事を構え、討伐を受ける可能性を考えると、王はそのままにしておいて、内部の権力闘争に勝利する事が重要だったのだろう。
今の韓国人の性質にも、影響が出ている話だと思う。>>96
そもそも、「韓国史」は70年しかない
それ以前を含むなら、朝鮮半島史だよねこんな良いスレもあったんだなあ。
韓國史(近現代史 除外) 關聯해서 質問받는다.
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