>>1
明治の終わりごろにあったよ。口減らしに子供が売られていた。なんでそんなものが知りたいのか解らない
糞ザイニチの話題そらしスレかな?大塩平八郎の乱くらいを大飢饉とゆうのか?
不作 飢饉 大飢饉の定義が必要。丁稚奉公
丁稚奉公は違うか…。
飢饉とするには異論があるかもしれないが、昭和の初めにも大凶作があった。(昭和農業恐慌)
当時政府は朝鮮に過大な投資を行っていたため、国内特に東北地方への投資が回らなかったことも原因のひとつに挙げられる。最近の飢饉と言えば、北朝鮮ぐらいじゃ無いかなぁ・・
李氏朝鮮が飢饉を把握してたと思いますか?
日本は寛永、享保、天明、天保の大飢饉ですし、飢饉に合わせて政治改革もされますよ
>>3
ばか?時代劇のせいで平和な江戸時代なイメージでも人骨に飢餓線があったりするんだよね。
天保の飢饉は人災の面が大きい
李氏朝鮮の例は知らないけどそもそも商業が発達してないから人災と自然災害っていう違いは有ったんじゃないの飢饉は、日本では人災要素があるにせよ基本的には天災だが、朝鮮では人災である上それが恒常化してたからな。
元在日で日本に帰化した金田さんのブログから
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若い同胞は知らないと思いますが「春窮、麦嶺越え難し」という言葉があります。
私たちの祖先は日本のような高い農業技術が育たず、それにも関わらず高い税率を掛けられていたので、大麦の収穫を待つ春と粟類の秋の年に2回は食料が不足してしまい、ちょっとした飢饉が起きればすぐに餓死者が出てしまうような、今の北朝鮮よりも酷い状態でした。
李朝はこの時にどうしたのかというと「中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、 むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。」 (『朝鮮事情』より)という状況だったのですね。それ故に、シャルル・ダレは「どこの道にも死体が転がっている」と書いたのです。
----->>1
ちなみに思い出したが、朝鮮には官災、士災って言葉があるらしいよ朝鮮はわからないけど、日本でも江戸時代は飢饉が頻発してた。今より地球全体が寒冷化してたらしいし。
例えば盛岡(南部)藩は江戸時代通して17回の不作、飢饉の記録があるそう。
日本全国では大小飢饉は120~130回くらいとか。
規模も、4大飢饉は物凄い。
1782年~の天明の大飢饉とか物凄い。
全国レベルの大飢饉。天候不順による冷害が原因ね。特に東北が酷い。
盛岡(南部)藩八戸でまとめられた『天明卯辰簗』
『夫を欺し打殺して是を喰 我子をも鎌にて一打にてうちころし 頭より足迄食し 夫より倒死の市外を見付是を食とし 又々墓々を掘返し死骸を掘出 夜々里に出でて人之子供を追候。』
南部遠野藩『動転愁記』
『「もう喰いたいと言わぬ故許せ」と泣き叫ぶ八歳の娘の頭に石を打ち下ろして殺し早瀬川に投げ込む』
とか、記録に残っているだけで本当に酷い。
弘前藩では一冬に数万人亡くなったという話もあり、全国で病の流行も合わせて数十万人が亡くなったそう(諸説あり)。
とにかく餓死者が続出し、餓えた人が人を殺して食べる、正しく餓鬼道地獄の現出だったらしい。
そうしなくては生きていけない状態だったので、事態の是非はともかく、餓えるって本当にきついのだとわかる。
なので、徐々に冷害に強い植物(さつまいも、かぼちゃetc)の植え付けが進んでいくわけで。
今の私達の食べ物はその出来事の積み重ねの上にあるわけだ。食べ物に感謝しよう。飢饉じゃないけど平成の初め、子供の頃に一時タイ米食ってたのを覚えてる
江戸時代の大飢饉は李氏朝鮮と比べてどうなのか
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