ナチスはユダヤを迫害したが当時ユダヤを保護しナチスに反対したのは世界で唯一大日本帝国だけ。

137

    • 2ななし2019/10/15(Tue) 16:29:56ID:k0NDE1MDU(2/15)NG報告

      樋口季一郎の功績。
      樋口は日独防共協定を締結したばかりの同盟国ナチス・ドイツの反ユダヤ政策を「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判。そうした状況下、1938年3月、ユダヤ人18人がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、季一郎は南満州鉄道総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[。その後ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、記録によると、ドイツから満州里経由で満州へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている。ただし1941年の記録がなく累計2万に到達したかは不明。
      「ヒグチ・ルート」で救われたユダヤ人の数は、総数は最大で2-3万人であった可能性があるが、1941年以降の記録はない。

      この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相からの抗議文書が届いた。樋口は植田謙吉大将に自らの考えを述べた手紙を送り東条英機中将と面会した際には「ヒトラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされこの言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした。東条の判断と、その決定を植田も支持したことから独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ。」とした。

レス投稿

画像をタップで並べ替え / 『×』で選択解除