日本の歴史を好きな韓国人ですが翻訳機を回して日本語が変なのは理解お願いします。
1長州藩は関ヶ原で敗北して毛利輝元が120万石で36万石に改易されたが、どうやってお金を儲けてどんなお金で明治維新を成功させることが出来た?(例えば、西洋式兵器を買うたり)
2.薩摩藩の関ヶ原の戦い以前、以降のコメ生産量を知りたい
3.関ヶ原の戦いが終わって薩摩藩も長州藩のように改易されたの?
4.1質問と似て薩摩藩は100万石足らずの番だが、どうやってお金を儲けてどんなお金で明治維新を成功させることが出来た?(例えば、西洋式兵器を買うたり)
5.明治維新が成功して薩摩と長州藩の中でどの番の影響力がさらに強かった?。
6..西郷隆盛が起こした西南戦争のために薩摩出身者の力が弱くなった?じゃなければ西南戦争が起きても中央政府での薩摩出身の影響力はそのままだった?
7.、太平洋戦争の時, 本当に陸軍、長州藩//海軍が薩摩出身なので二人の仲が悪いの?
8.今日本政府も山口出身と鹿児島出身が掌握してる?(安倍首相が山口出身なのは知っている。)>>1
偉い!
君が明日の坂本龍馬だ。
韓国の青瓦台を打ち壊せるのは君だ。
韓国の夜明けは近いよ。薩摩は江戸から最も遠い、なので、これ以上改易のしようがない、
かりに薩摩が江戸に攻めようとしても、途中でいくらでも
撃退できる、薩摩だけじゃ、どうにもできません関が原の戦い(1600年)から明治維新まで、2世紀以上の間があるからなんとも。
ひとつ言えるのは、どちらの藩も石高という米主体の経済から早々に脱却したということ。
その意味では石高(米経済)に拘っている時点で、考える方向を間違えてると思うよ。
お金という部分で言えば、薩摩藩は琉球からの搾取、清との密貿易、
長州藩は蝋燭や塩で蓄えを増やしていったようだ。
もちろんお金も必要だけど、明治維新を成功させたのは結局は人。
両藩の人材育成や人材登用を調べてみると面白いと思う。
それから、一時は敵だった薩長が手を結んだのは何故か?と突き詰めていけば、
明治維新の本質が見えてくるんじゃないかな。>>1
8→山口県(中国地方)は保守思想が強く現政権の自民党の王国と言われる。
そのため山口県(中国地方)からは多くの総理大臣が誕生します。
日本は官僚主導の政治なので日本政府を山口県と鹿児島が掌握していることはないと思います。>>3西郷隆盛の西南戦争以前には薩摩の方がもっと強かった?。?
良し!
誠実に答えるが、記憶と伝聞だけだから、自分で調べて、裏付けを取ってくれ(^o^)
1.確か、三白(米、塩、紙)を売って儲けた。
あとは藩内の豪商から借金。
2.すまん、知らない(^_^;)
ただ、薩摩のかなりの部分がシラスと呼ばれる火山性の地質で、米作には向かない。
だから、江戸期でも郷士や下士は自作した薩摩芋や粟・稗などを炊き込んだ飯を食っていた(父方の祖父から聞いた話)
3.元々の領国である薩摩・大隅の2州はそのまま。
毛利さんは弾一発も撃たずに引き上げたが、島津勢は家康の本陣目掛け、真ん前に退却した。本陣寸前まで迫り、反転して伊賀街道から堺に抜けて船で薩摩へ落ちた。
勿論、多大な犠牲を払っての事で、300名の軍勢が80名しか残らなかった……とWikiにはあるが、たぶんこれは足軽・小者込みの人数。
俺が祖父から聞いた話では、物頭(高級将校)以上は20騎足らず。
主将・島津義弘の甥で養子でもある豊久は、義弘の深紅の陣羽織を身に纏い、「我こそは、島津入道維新斉なり!我が首級獲って、手柄にせよ!」と名乗り、徳川最精鋭部隊である井伊勢を足留めし、井伊直政に重傷を与えた。
彼と兵児(へこ。薩摩の戦士の意味)達の犠牲のお陰で、俺も娘達もこの世に存在している。
豊久さん、兵児達よ。ありがとうございます。
以下に、その戦法を挙げる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%A8%E3%81%A6%E5%A5%B84.
4.琉球経由の密貿易。奄美大島の砂糖。
5.やはり長州。
6.ほぼ無くなった。
7.どうかなあ。「薩の海軍」は薩摩人・山元権兵衛が断絶したらしいし。
8.歴代の日本の総理を、見てみろよ。長州人ばかりだぜ。しかし、安倍ちゃんは頑張ってるから、引き続きやってほしい。>>3 明治維新直後と西南戦争直前の時代は薩摩とチョシュの中でどの番がさらに強く、影響力がありましたか?
>>8明治維新直後と西南戦争直前の時代は薩摩とチョシュの中でどの番がさらに強く、影響力がありましたか?
>>1
江戸幕府は長崎の出島でオランダ&中国と貿易をしていた。年間の取引量は決まっていた。
オランダ船は、途中で積み荷が駄目になる事を見越して、多く持って来ていた。大体、2-3倍ぐらい。
積み荷には、将軍家への献上品の他に、御三家(徳川将軍家の分家。水戸・尾張・和歌山各徳川家)、御三卿(8代将軍吉宗が作った分家。田安・一橋・清水)。
老中・若年寄・世話をする役人にも珍しい物品を『お土産』として持って来ていた。
余った積み荷は『積み荷が多すぎて船が沈む』と言う理由で海上投棄してた・・・・と見せかけて、密かに売りさばいていた。
対価は金銀の他、海産物や絹、木綿、陶器、漆器、浮世絵などもあった。
長州、対馬、平戸、浜田藩なんかもその密貿易に関わっていた。
藩がしているのではなく、密輸承承認がやる密貿易を黙認して金を貰うという遣り方。
薩摩藩の場合は、琉球を武力で配下に置き、琉球を隠れ蓑に中国と密貿易をしていた。
こっちは藩ぐるみでやってたので、『密貿易をしているらしい』というのは判っても、証拠が無いので処罰できなかった。明治維新直後と西南戦争直前の時代は薩摩とチョシュの中でどの藩がさらに強く、影響力がありましたか?
すまん。
「捨てがまり」のリンクが間違ってた(^_^;)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%A8%E3%81%A6%E5%A5%B8>>1
1長州藩は関ヶ原で敗北して毛利輝元が120万石で36万石に改易されたが、どうやってお金を儲けてどんなお金で明治維新を成功させることが出来た?(例えば、西洋式兵器を買うたり)
長州藩の財政改革は村田清風が行いました
1838年頃の長州藩は、負債が銀8万貫(約1000億円)
を超えていた。十三代藩主毛利敬親は家督を継ぐと、天保9年
中級武士だった村田清風を抜擢し、藩政改革を命じた。
村田は四白政策で、紙、蝋、米、塩の生産強化を行い、天保
13年には早くも3万貫の負債を減らすことに成功した。
村田は天保14年、「三七ヵ年賦皆済仕法」なるものを出し
た。これは、藩債については、元金の3%を37カ年にわた
って返済すれば、皆済とする一方的な返済案だった。
元金の3%だけ返済して後は、払わない。踏み倒しです
また、藩士の借財についても、藩がいったん全部肩代わり
することとし、同様の条件での返済をすることにした。
村田は下関という場所の重要性にも着目した。この頃、下関海峡は西国諸大名にとって商業・交通の要衝であった。そこ
で白石正一郎ら地元の豪商を登用して、越荷方を設置した
。越荷方とは藩が下関で運営する金融兼倉庫業であった。
貸し付けたり、越荷を買っては委託販売をした。1基本的には開墾です。長州藩は開墾に熱心な藩で知られていました。36万石は移封当時の石高(表高、表向きの石高)であり(実石、実際の石高)は100万近くあったようです。
その他瀬戸内海を通じた交易、蝋燭、萩焼(陶器)などの工業製品の輸出によって財政を切り盛りしていました。
2.これは統計がないので分かりません。
石田三成が行った島津家の検地結果は57万石ですが、これは実測をしていない
(村の数などで適当に決めたと言われている)ため正確ではありません。
検地は田畑の面積によって決まりますが薩摩藩が支配した九州南部は火山灰性の土壌で米の生産性が低いため実際には35万石程度だったと言われています。
3.薩摩藩は改易されていません。毛利氏にくらべ島津氏は関ヶ原における役割が限定的だったことと
日本最南端の藩であり精強な薩摩兵を恐れたこと、中国との独自の交易網を持っていたため
中国との伝手を重視したなど様々な説があります。
4.薩摩藩の財政は火の車で商人からの借金で破たん寸前でしたが商人を脅して借金を無利子とし250年分割の返済(返済完了年は2085年になる)を行うことを了承させています。
商人へは代わりに密貿易を認めさせました。
また砂糖、茶、煙草その他特産品の換金作物の栽培による利益がありました。薩摩は土地がやせているため元々このような換金作物の生産が盛んでした。
ほかにも琉球を介した海外貿易、薩摩焼による利益などがあります。
5.これは難しい質問です。日本では明治維新に貢献した藩を「薩長土肥」と呼びますが薩摩と長州が二大巨頭で土佐藩ががその下、肥前藩は更にその下という評価です。
6.影響はあったかもしれませんがその後も薩摩閥が中央政府で形成されているのを見るにかなり限定的な影響であったはずです。
7.太平洋戦争のころには長州閥、薩摩閥といった区分はほぼ完全に消滅しています。
予算の取り合いで海軍、陸軍の仲が悪いのはどこの国でも同じ話で長州閥、薩摩閥といった区分の関係はほぼないと思います。
8.これはまったくありません。戦後の総理大臣排出者が多い県で最も多いのは山口県でも鹿児島県でもなく群馬県です。>>18
知らなかった(○_○)!!
群馬凄い!>>1
正確な文献に当たったわけでないので知っている範囲でお答えします。
1,2,4
石高はあくまで公称であり、実際は長州藩も薩摩藩も百万石程度と考えられている。
日本の江戸時代は封建制度なので各藩ごとに一定の自治権があるので、幕府への公式報告以上に開発が行われていました。今のアメリカ合衆国の州に近い。
加えて韓国人がよく勘違いしているけど、日本は江戸時代には既に単純な農業国ではなかった。貨幣経済が成立していたし、各藩が特産品を開発して農業収入以上に貨幣収入を得ていた。長州は萩焼き、薩摩は薩摩陶器など。
各藩による特産品による市場競争と貨幣経済が完成していたことは、日本が明治になって資本主義に柔軟に移行できた一つの理由と考えられている。また現在でも日本の地域性に豊富な特色がある根本的な理由。
加えて長州も薩摩も大陸との密貿易で収入を得ていたため経済的に豊かだった。
3,当時の幕府の力では関ヶ原の時点で改易は難しかった。ある程度の妥協をして、国内の安定を優先した。天皇家の権威で日本は常にある程度の一体感があるため、妥協が可能だった。
5,政治的には長州が一番。軍事的には海軍が薩摩、陸軍が長州。薩摩は琉球を支配していて元々海洋国家だった。
6,7 薩摩の影響力は西南戦争後も落ちてはいない。西郷と並ぶ実力者である大久保利通は薩摩出身。日本の官僚制度を作った個人的には明治維新で一番偉い人。西郷の弟は海軍大臣などを歴任、従兄弟は日露戦争で日本陸軍の総大将。薩摩、長州の主導権は中枢ではしばらく続いたが、中堅クラスでは早期に解消した。当時の日本は党派争いをしている余裕は無かったし、日本の上層部はそれをちゃんと理解出来ていた。贔屓目なしで当時の政治家は一流だったと思う。ちなみに維新で徳川軍として北海道まで逃げて抵抗した榎本武揚め明治政府で大臣になっている。日露戦争の秋山は徳川の親戚だった松山藩出身。満州事変の石原は最後まで徳川に味方した東北出身。
7,薩摩と長州の確執ではなく、単純に軍の主導権争い。仮想的をロシアにするのか、アメリカにするのか。
8,関係ない。多少の政治的人脈はあるかも知れないが山口出身の首相は戦後では安部だけじゃないかな。
山口も鹿児島もいい所だけど日本ではかなり田舎。薩摩出身も長州出身も地元への利益誘導や、出身地による優遇はしなかったという証拠だと考えている。興味があるので調べて見ました。
山口藩(長州藩)は関ヶ原で敗戦した後、縮小された領地(山口県)で土地を再度調べ直した。結果、54万石という数字が算出された。この結果を幕府に伝えると、幕府から「敗戦したのに50万石を名乗ることは許可しない。その約70%の36万石と名乗るようにしろ」と命令があった。このことから、解るように、一般的な石高は表高と呼ばれ、基準が曖昧なものであった。そして、この表高は、江戸幕府を通じて変わることはなかった。
明治2年(1872年)に山口藩が、明治政府に上申した石高は、98万石でした。この98万石には、単に米の生産量だけでなく、様々な生産物が米に換算されて計上されていると推測されます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98역시 일본史는 일본인에게 묻는 게 제일 좋은 것 같다.
우리나라 웹에서 물어보려 해도 웬 사이비 새끼들이 날뛰어서 당췌 믿을 수가 없음.>>22
全く不快感はないよ(笑)
少なくとも薩閥には、高級官僚たり得る人材不足を、旧幕臣からも採用する度量があったと考えているし、
戊辰・日清・日露と続けて酷い目に遭った祖先を、海軍志向にさせていただけた、近代海軍を建設して貰えたからね。
我が家系のみに限っても、江戸処払いされたお陰で関東大震災で、残り少ない家族に被害ゼロで済んだしwww
四代前の事まで恨むほど、自分自身が頑固でもないさ。>>1
2、薩摩
まず石高制を知る必要があります。
戦国時代には、1反(約1000㎡)で1石(約150キロ)の米が
取れ、1人の兵士の一年分のコメの消費量でした。
幕末は1反(約1000㎡)で1石半(約230キロ)の米が
取れました。農業技術の向上で収穫量が50%増えています。
つまり、100万石は幕末には150万石になっていました。戦後の総理大臣で群馬県出身者は福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三、福田康夫の四人。山口県出身者は岸信介、佐藤栄作、菅直人、安倍晋三の四人。
>>27
群馬トップで何も問題ないから、お願いだから、菅は外してくれないか。7は日本国内でももっと語られて然るべき。当時の陸軍と海軍は国が滅びるまで見栄の張り合いをやめなかった。
大本営発表‼︎>>1
おまえマジか~~~
つか、真面目か~~~
おまいら、できるだけ本当のことを教えてやれよ~>>1
旧幕臣(徳川家家臣)の末裔の立場で、祖父母やら曾祖母から聞いた話に、それなりに歴史好きな自分の解釈も加えて、お答えさせていただきますね。
1. 年始の藩主への挨拶で徳川家打倒を、250年以上に渡り続けられた粘り強さが、土佐の仲介で薩摩と同盟できたことで、土佐の資金援助により(後述する)薩摩が入手した近代兵器を購入可能となり、頭角を現した。
2. 他の人が書いている通り、米の生産には不適な領地だった。なので農業技術の進歩以外では、主食にサツマイモを加えるなどして、国力の低下を防いだ。
3. 一歩間違えれば、改易どころか廃易になる場面で、巧みな交渉術で生き延びた。
4. 天才的農政家だった徳川家康公のシステムの裏を巧みに利用して、密貿易により資金を貯められた。江戸時代末期には、密貿易により手に入れた外交術で、一度は戦火を交えた英国から、近代兵器を購入することに成功した。
5. 明治の新政府が、徳川家に成り代わった新幕府と、他の藩から取られないように、明治初期は、巧みに一般庶民には派閥争いを、目立たせないようにしていた。
6. 5の理由と、欧米の植民地化を避けるという、当時の日本にとり最大の命題を達成するために、一部反政府の騒ぎとして処理したために、薩摩派閥の影響力低下は、ほとんどなかった。(酷い内戦だと見なされると、欧米勢力の介入を招く)
7. ゼロではないと思うけれど、大日本帝国にとれば既に仇敵である、幕府側の藩出世の海軍大臣が誕生していたことなどから、ほとんど関係なかったと推測している。
8. 第二次大戦後は、ほとんどないと思う。ただし投票率などの地域差を考えると、ゼロではないと思う。>>33
隣の島根県民が、怒り狂いそうなwww>>29 부럽네요
>>24 ㄹㅇ
私は子供の頃山口県にすんでいましたが、そういえば、住んでいた場所は江戸時代に干拓して作られた土地でした。
家の近くには、昔は海のそばにあったという松林がありましたよ。
干拓した土地では塩を作っていて、国内2位の規模でした。塩田が史跡として残っています。1.大政奉還と鳥羽伏見の戦い当時の国力(経済力、軍事力)は薩摩とチョシュの中で誰がもっと多かった。
2.戊辰戦争でさらに活発に戦闘に参加して勝利したのは薩摩だ? チョシュヤ。 なければ薩摩藩チョシュ藩いっしょに同じ戦闘を参戦してこのようなのは意味のない質問かい.
3.明治維新後に二つの二人とも影響力が強かったが、西南戦争前まではわざわざ選べるとしたら、どの番がより多くの影響力が強かったんですか。>>16しかし、大久保利通は西南戦争が終わった後に暗殺されたと思いますがそして多くの薩摩武士が西南戦争に死んで影響力が弱体化したんじゃないか?
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読むとテンション上がる。高杉晋作の生き方かっこよすぎる。松下村塾生が熱い。あの時代の長州人の「狂」が明治維新を生み、今の日本につながっている…
6.西南戦争が発生する前は、
徳川幕府を倒した後、倒幕側の兵士達が待遇に不満で九州や長州辺りに帰って、彼らは小規模な反乱しては鎮圧されてた。
長州藩は、蛤御門の変辺りで、幕府と抗争してた時に主要人物が大量に死んでたから、薩摩ほど政治力ある人物がいなかった。それでも小規模反乱は発生して明治政府に鎮圧された。
土佐藩も、坂本龍馬や中岡慎太郎が暗殺されて政治的要人が少ない。
肥前の江藤新平は明治政府の司法整備担当してたが佐賀の乱が発生すると、解散を説得するつもりが逆に反乱のリーダーに担がれて鎮圧後に、速攻で処刑された(これは大久保による政敵排除の意味合いが強い)。
上記のような感じで、当初は明治政府の構成員は薩摩勢力が強かった訳だけど、西郷が鹿児島に引き上げると薩摩出身の武士も一斉に鹿児島に引き上げた。
西南戦争が発生すると薩摩の反乱規模からして明治政府が育成してた平民出身の兵隊は役に立たなかったので、明治政府の大久保は冷遇してた旧幕府側の武士を採用して薩摩の反乱の鎮圧に派遣した。
それでも明治政府の薩摩長州の派閥は強かったけど、全体的に影響力が低下した。>>1
> 1 新田開拓と海運業
> 2 56万石で変更なし。
> 3
関が原で懲罰を受けていない。
薩摩は元々東軍に参軍するはずだった。東軍が無視したためやむを得ず西軍に付いた。
> 4 薩英戦争により英国と交流があり、その支援を受けた。
> 5 影響力は同じくらいだと思う。
> 6
新政府の薩摩閥は西南戦争で薩摩を討伐してさらに力を強めた。
日本は古来ナショナリズムよりグローバリズムを優先する。
私より公。
> 7 その頃は薩長とはあまり関係ないと思う。
> 8 あまり関係ないと思う。でも多少は関係ある。- 43
名無し2016/11/30(Wed) 23:09:18(1/6)
- 46
名無し2016/11/30(Wed) 23:49:37(2/6)
>>46
そうやって自分だけの価値観に閉じこもっていれば無敵のように感じられるだろうけど
他の人間から嫌悪される自分の存在は変わらないんだよ。>>38
日本には韓国人の考えるような党争は無い、ということを理解して貰いたい。それがないと、朝鮮式の権力闘争、派閥争いと勘違いする。
そもそも、徳川将軍家はナポレオン3世のフランスから、薩摩や長州との戦争費用を貸してあげると言われていた。
しかし、それをやると国の一部を売り渡す事と同じだ、と言う認識は広く日本人は共有していた。
自分の家の為に、自分の意見の為には、国を売ったことも知らずに党争することがなかった。
日本人が誇るのは、そこだ。
明治維新の後の革命政権も、当然そんなことは知っていた。韓国人には耳が痛いかも知れないが、
韓国式の権力闘争とは意味が違う事を知っておいて欲しい。日本の諸藩は最後まで武士の政権であり軍事政権だった。
だからその政権の最後も「外国の脅威にどう対抗するのか」ということを軍事的な視点で捉えていた。
対抗するための結論が諸藩ではなく日本が一体となった富国強兵だった。
ここが文人政権であった朝鮮や中国とは違ったのかもしれない。自分に都合の悪い意見の論客を在日認定するは、止めたほうがいいよ。
だいたい、自分の先祖を誇りに思い、感謝してるなら、他人も同じように、その人のご先祖様に感謝してるのを、想像できるよな?
もちろん、先祖の全てが善人で勇ましい人ばかり、なんて家はない。
俺の家にしたって、従兄に口説かれて「貴方の正室と長男を追い出して、私の連れ子を跡取りにするなら、結婚してあげる」と答えて、相手の家を乗っ取った女性も居れば、正室腹の藩主の男子を、一人残らず毒さつないし呪さつした挙げ句、その藩主に毒を盛った、とされている側室も居る。
可哀想に、彼女はどの歴史小説家からも、毒婦扱いされている。
もっともなんだが、彼女の孫が藩主にならなかったなら、俺はやはり存在していない。
要するに、自分に大切な存在がもしあるなら、他人にも大切な存在がある事くらい、想像しろ、と言いたいんだよ。
相手を罵倒して黙らせたら、勝てるなんて低俗な手段は止めろ、と言いたいんだ。
この考え方はおかしいかね?>>53追記
特に大事な部分が『欧米列強に認めさせ』←ココね>>56
それは失礼致しました。
言葉足らずをお詫びして、これにてこの件は修了させていただきます。べか…。
スマホは苦手じゃいorzま、面倒臭いから、放置するねwww
>>62
それはそれは失礼いたしました。
今後、このスレに書き込みはいたしません。
ついでに言っておけば、生麦事件は薩摩の台頭に関わるかも知れませんが、
全ての始まりは日米修好通商条約という不平等条約だと私は思ってます。
ではね ノ夜も更けましたから、これにて失礼致します。
皆様、どうかご歓談をm(__)m>>68
おやすみなさい。
多分次にお話しするときも、自分は名無しのままだと思いますけれど、その時もまた楽しい時間を過ごしたいと願います。>>67
そらそうだ。
昔の日本は全部違う国なんで、日々是外交だし、
薩摩は琉球通して密貿易してたからねぇ。明治六年政変が上手く行っていたら、どうなっていたんだろう?と妄想する。
西郷さんが西南戦争起こさないで、そのまま征韓論を進めて史実よりも早く併合されていたら・・・?
いや日清戦争前だから併合までは行かないか・・
でも明治時代の歴史を少し読んだ程度だけど、韓国人が伊藤博文を悪く言うのは少し違うよね。。
西郷隆盛死ね!ならまだ分かるわw>>73
西郷さんには気の毒だが、彼が乗り込んだところで、なにも変わらなかったろうと思う。
日本が今の形で生き延びたのには、幾重にも積み重なった理由がある。
公」≒共同体を「私」≒自分達の血族・身内より優先するのが理想である、という意識。
positiveな勤勉さ。
なんでも記録し分析し再構築して、とんでもないvariationを作り上げる性分(魔改造ともいう(笑))
高い識字率。
発達した経済。
都市部における、市民意識の成立。
諸外国の情勢に敏感な、一部の為政者達。
この他にも、数えきれないOnly in Japanな要素があって、初めて明治維新は成立した。
それらが、清にも李氏朝鮮にも無かった。
西郷さんが乗り込んで惨殺されたとしても、何の事件も起こらなかっただろう。
取るに足らぬ事として、王に奏上すらされず、覚醒する知識人層も存在してなかっただろう。
他国は他国であって、日本ではない。
日本で出来たことを、他国でも出来るとは、考えないほうがいい。
その実地試験に、対外戦争3度と70年の月日がかかった訳だが、いい加減、日本人は冷徹に認識すべきではないか、と私見する。維新の前に実家の親戚近縁は長州へ移住した、とはいっても萩藩。
身分も高くもない者が移住しても問題なかったようだ、何をしに住み慣れた土地を離れたのかは知らない。地方の小さい村の家々には大昔の記録が残っていることが多いね。日々の生活の様子が見える。
紙、米、糸、交易商売、軍事に間接的に関係していたようではある。清経由の書籍もあった。韓国人に言いたい事。
日本の歴史を知って感動しても好きにならないで。
親日は心に留めておいて。
私の言葉は喧嘩を売るものでは有りません。
韓国ドラマで韓国を知り反日国にショックを受け、調べているうちに在日朝鮮人の悪行に辿り着きました。
考えても考えても仲良くしたら駄目だと答えが出ます。
情に流されてはいけないと、歴史が教えてくれました。明治維新の成功は長州藩が
大村益次郎という人物を雇用したから。
この戦争の天才が長州側にいなければ
幕府軍が勝っていただろう。>>77
白石家だね。
確か維新後は神社の神官になったかと。>>1
奄美からの重税と琉球を隠れ蓑にした貿易で設けたお金>>74
同意します。
蝦夷地と呼ばれていた北海道を、殖民地として開拓していた自信から、台湾や朝鮮も皇民化教育が可能だと、明治政府は考えていた気がしていますね。
しかしその北海道ですら、皇民化教育の到達点とも言えた陸軍正規師団を編成できるまでには、30年の期間が必要でした。
中原にとり化外の地であった台湾の方が、少し併合期間も長かった上に、我が国の対米戦敗戦後に、中国国民党による苛烈な統治も受けたため、韓国よりも
若干冷静な気はしますけど、我々内地日本人と同じような価値観やメンタリティは、とうとう共通しなかったことですよね。
それはもっと併合期間が長ければ変わったり、教育し終わらなかったというよりも、やはり長い期間を掛けて作り上げられた、民族特性が強い気がしていますよ。>>83
台湾出兵したのは、台湾に難破上陸した沖縄人が交易の為に漢服着てた為に、現地の高砂族からシナ人だと誤解されて殺された報復ですよ。
日本側が清に抗議に行った時に清の高官が酒の席で“台湾?うちは知らない”という非公式な場所の言質から日本側が勝手に討伐に行ったという、侵略したと言われ兼ねない行為を日本側がやった話です。
当然大久保ら政府側からすれば、侵略した賠償を日本側が支払いかねない案件でした。
この頃は西郷と薩摩武士らは大量に故郷に帰ってたので、征韓論の鬱憤を晴らしたいガス抜きの意味合いが強い出兵。
で、その沖縄人虐殺した高砂族は早期に楽々討伐したものの、日本側は病気が蔓延して日本兵の数倍の清兵が台湾に上陸した頃にボロボロで撤収。大久保の手腕(尻拭い)で逆に賠償取れたというかなり危うい出来事でした。大久保は賠償金を返す意向でしたが当時の財政難から断念しました。
皇民化とか、全く関係ない話です。- 85
名無し2016/12/02(Fri) 18:46:31(3/6)
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日本史って外国人には解り難いとおもうよ。神仏が融合したり、尊王攘夷からいつの間にか攘夷がきえたり、天皇の地位とか、鬼畜米英からの戦後とか
判官贔屓とか.,.他国なら血みどろの争いする所を割となんとなくでイデオロギーが移り変わる、島国の特異性なのか
これが他所から観ると理解し難いらしい。>>84
話の時期がずれ過ぎだよ。- 89
名無し2016/12/04(Sun) 01:40:56(4/6)
このレスは削除されています
日本人だけど、このスレッドはいろいろ勉強になった。
いろんな人が書いてるけど、日本で起きたことを単に西洋文明の導入だと思っている限り、
なぜ朝鮮や清がそれをなしえなかったのかが理解できないし、
いまだに日本だけが先進国であることの本当の理由も分からないだろうと思う。ちなみに >89 みたいなのは黙ってNGでいいと思う今日この頃。
- 93
名無し2016/12/04(Sun) 07:40:44(5/6)
》1
北海道と沖縄のおかげですm(__)m
当時、薩摩は沖縄で砂糖きびを強制栽培させて北前船で日本海沿いに売りさばき北海道でアイヌ人をこきつかって捕らせたアワビ、昆布、毛皮を沖縄に持ち帰り中国に輸出して莫大な利益を上げ明治維新の資金としました、今でも松江、金沢と日本海側に和菓子があるのはそのなごり、佐渡おけさは琉球の手踊りが元です!
長州長門はその中継地なんです( ・∇・)- 97
名無し2016/12/04(Sun) 20:08:38(6/6)
このレスは削除されています
>>82
日本の地方都市や農村と韓国のそれとを比較してみな。
驚愕するくらいの格差があるから。
韓国の田舎にナイター設備の整った野球場や立派な図書館、歴史的な社寺なんてないでしょ。
道路や下水道といった基礎インフラどころか、病院や救急体制、流通網、学校インフラから何まで、
途方もない格差があるんだよ。
(先進国と発展途上国を比較してるわけだから当たり前だけどね)
日本人は謙遜して「田舎には道路しかない」って言ってるだけで、
それを韓国人が馬鹿にしている様は、滑稽でしかないんだよ。
恥ずかしいからやめた方がいいよ。>>97
底辺はお前じゃん。
ネットの掲示板は普段言えない悪口を言うところ、なんて底辺の発想丸出し。
不満分子>>82
つい自分の一族の事ばかり話しましたが、毛利家は凄いんですよ。
毛利氏は関ヶ原前には今の広島県から山口県までを領地とする、日本一の大名でした。
当然、家臣の数も多かったため、減封された時、家臣に、扶持(給与)が払えないから他家に仕えるように、と殿様は言いました。
が、大身の者は自ら扶持を減らし、軽輩は武士から百姓になり、山野を開墾して食べていく道を選びました。
倒幕の時、長州は領内の武士以外の階級から志願兵を募り、主戦力としましたが、これは、薩摩ですら出来なかった偉業です。
やはり、百姓となって200年近い歳月が経っても、毛利家家臣としての誇りと忠誠心を持つ者が多かったのでしょう。
もうひとつ。
これは作り話かもしれませんが……
長州勢が京都へ向かうため、山陽道を進軍している途中、戦国時代の当世具足を纏い、槍刀を携えた武者が、5人、6人と山あいから降りてきて、片膝付いて、
「これは毛利家旧臣、某子孫にて候。
この度、徳川征伐なさると聞き、御陣の端を貸しくだされたく、罷り出まして候」
(私達は、毛利家の元の家臣、某の子孫です。
今回、徳川を征伐なさると聞き、参戦するため出て来ました)
と言ったのだとか。
それも、隊列が小休止する度に、新たな武者どもが出て来て、です。
こういう、名前も伝わっていない、しかし何百年も主を忘れない人達が居たなんて、凄まじいとすらいえる家ですよ。
あなたの祖国には、そういう人達は、かつて居ましたか?
今は、どうですか?戊辰戦争で大規模に戦争シーンが出てくる映画やドラマを推薦してください
>>1
長州には村田清風
薩摩には琉球の砂糖肥前の佐賀藩も面白いね。藩で鍋島閑叟だけが優れていたわけでもないとは思うが。
YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=yMy7LjbsdRM
征韓論はあるが、韓国でも西郷隆盛は評価されていい人物だろう、タイミングがズレたら朝鮮は大きく成長変化したかもしれない。>>104개소리 하지마라
1.石高と経済力について
まず、石高=経済力ではありません。コメは通貨としても流通していたので、コメを増産すればするほど、通貨としてのコメの価値は下落します(いわゆるインフレーション)。石高はあくまでコメの生産量なので、コメよりも商品価値が高い製品を作っている小さな藩が、石高が多い大きな藩よりも経済的には豊かだと言うことがります。赤穂藩、唐津藩、平戸藩などがそうです。
表高と呼ばれる、公式上の石高は16世紀末の太閤検地の数字に由来しているので、19世紀後半の幕末の実態とはかなりの差があります。
長州藩の場合は、公式の石高が36万石、しかし太閤検地の後でも急速に開発がすすめられ、関ケ原の戦い直後の時点でも実際には54万石でした。幕末には石高だけで実際には73万石程度になっています。更に長州藩は、紙、塩、蝋などの商品生産に力を入れそちらからの収入もありましたから、収入規模で言えば百万石相当の収入がありました。
表高36万石との差が64万石相当分もありましたので、それがまるまる税金のかからない収入になったということです。長州藩は幕末には非常に富裕な藩になっていました。薩摩藩の場合は、南九州は桜島の灰が積もったシラス地質で稲作には向いていません。太閤検地の際の表高が72万石でしたが、これは島津家の格を維持するために過大に申告していたようで、幕末でも実際の石高は70万石を切っていたのではないかと言われています。薩摩藩は長州藩と逆に、収入が実際には少ないのに、より多くの税金を支払わなければならない構造があり、薩摩藩の経済運営はかなり困難でした。
薩摩藩は南西諸島や琉球を支配していたので、それら南方でしか採れない黒砂糖が重要な産品になっていて、その収入でなんとかやりくりをしていました。
徳川将軍家の正妻は、ほとんど公家・皇室から迎えられていますが、例外的に大名家からでは島津家からのみ、二人の正妻が徳川将軍家に嫁いでいます。徳川将軍家と島津家の縁戚関係は非常に強固であり、そのため、徳川将軍家が独占していた長崎での外国との交易を薩摩藩は許されています。
長崎でオランダと通商関係を結んだことで、薩摩藩は世界の情報に触れ、日本の置かれた状況に危機意識を持ち、改革を主導するようになりました。同時に、オランダや中国の商人たちと関係が構築できたことで、主に琉球において、幕府の許諾を得ない密貿易を行って莫大な利益を得ました。それが幕末の時の軍資金になっています。3.関ケ原の戦い以降の島津家の状況
島津家が豊臣政権に屈した時点での島津家の当主は島津義久でしたが、それ以後はその弟の島津義弘が当主として遇されています。島津家は両頭体制でしたが、義久と義弘のどちらが当主なのか曖昧な部分もありました。
島津義弘は関ケ原の戦いで西軍に与して敗れたのですが、その時点から島津貴久が再び前面に出てきて、当主は島津貴久であり、島津家は徳川に敵対していないと主張しました。
島津義弘は日本史上最高の軍事的天才の一人であり、朝鮮での戦いでは、泗川の戦いで、7000人の兵を率いて、明・朝鮮連合軍20万人を破っています。その島津義弘も、関ケ原の戦いの後、無事、薩摩に帰国しています。
家康としては、全軍を率いて薩摩を攻撃すれば、島津を下せないことはないだろうけども、何年も何十年も徹底抗戦されると自分の政権が安定しない、場合によっては島津の精強な兵に勝てないかもしれないとの懸念があり、島津家を取りつぶすことを諦めて懐柔することにしました。
その結果、島津家は関ケ原の戦い以前の領地をまったく減らすことなく、改易もされずに存続を許されています。5,6,7,8 維新後の長州と薩摩の藩閥について
西南戦争で西郷隆盛が自刃し、翌年、大久保利通が暗殺されてからは、薩摩藩閥は指導者を失い、弱体化します。それ以後は藩閥と言えば実際には長州閥のことだと思っておけばいいでしょう。
長州閥も維新後、西南戦争前後までに指導者の第一世代である木戸孝允、広沢真臣らを失いますが、第二世代の伊藤博文、山縣有朋、第三世代の桂太郎らが育っていて、大正末期(1920年頃まで)まで長州閥の影響力は続きます。
陸軍が長州閥、海軍が薩摩閥だったというのは事実ではありません。日本最初の陸軍大将は薩摩藩の西郷隆盛でしたし、同じく陸軍元帥は薩摩藩の大山巌でした(但し山縣有朋も同時拝命)。正確に言えば陸軍は山縣有朋の派閥が強かったのであって、それも大山巌が引退した明治末期以降のことです。
海軍における薩摩閥の影響力もおおむね明治末期には消えています。将官こそ、明治初期に海軍士官に任じられた薩摩出身者が多かったので、年功序列的に薩摩藩出身の将官が多かったのですが、大正期以後は陸軍でも海軍でも厳密な士官任用試験による登用で士官は採用されていて、大正期以後の著名な軍人のほとんどは他の藩の出身者です。
長州閥と薩摩閥は、いわば共犯関係にあったので、根本的には対立していません。当時の世相(白人のアジア支配)を考えると、護国富強は急務だったと思うんですが、
申し訳ないんですが私は維新については懐疑的です。
なんせトーマス・グラバーですから・・・。
当時のイギリスのやり方そのものです。
そこから西洋かぶれしてしまって大事な何かを忘れてきてるんではないのかなぁと思います。萩藩・山口藩は参勤交代や飢饉などで苦しい思いをしてきた。
そこにグラバーの甘言があったのが始まりなのではないかと思ってます。体格も違います。
- 115
名無し2024/02/15(Thu) 23:11:33(1/1)
>>115
人のこと死ねとか。
朝鮮人だろ、こいつ。本居宣長の500人近くいた門人には、
一人の薩摩人もいなかったとされる。
言語や文法に対する観察力がすごい>>110
慰安婦、慰安所、戦時性暴力などについてはアメリカ軍、韓国軍、国連軍、ドイツ軍でも確認されているみたいですので、日本だけが慰安婦問題で、彼是、言われる筋合いはないです✨
>>111
殖産興業や西洋に追い付き追い越せなどをスローガンに日本は近代国家経と変貌したのです。
日本の近現代史を紐解くと日清・日露戦争などで一等国の仲間入りを果たし、第一次世界大戦では五大国の一角を担って、第二次世界大戦では枢軸国側について敗戦を経験しました✨
しかし、戦後混乱期、戦後復興期、高度成長期、バブル期を経て、奇跡の復活を果たした✩しかし、バブル崩壊、失われた10年、失われた20年、失われた30年などと言われていて、構造改革、アベノミクス、新しい資本主義を掲げて居ますけど、上手い事、デフレから脱却出来るのか?今が正念場だと思われます❕>>108
島津に暗君無しと言われて居ましたけど、仲でも島津四兄弟と従兄弟の島津忠長などは力を合わせて領土と勢力圏などを拡大して居ました。
島津氏は大友宗麟、伊東氏、龍造寺隆信、明・朝鮮連合軍などと戦って勝った事があります❕関ヶ原の戦いでも死中に活と言わんばかりに前進撤退して徳川家康の度肝を抜かせたのですから、試合に負けて勝負に勝った感じです❗
島津氏に勝ったのは豊臣秀吉ぐらいです✨>>102
日本テレビで放送されていた時代劇シリーズがありますけど、タイトルは「五稜郭」や「白虎隊」などがありますので、AmazonやDVDショップに足を運んで見たら如何でしょうか?
再来年の大河ドラマも「春嶽」みたいですので、そちらも情報収集してみては?日本が独立を保てたのは、英明な人物がその時代にいたというのがありますよね。
勝海舟の回顧録『氷川清話』に何度も出てくる話ですが、彼は幕末の日本が欧米列強と戦争をせずに独立を保つためには、外国からの借金を避けることが重要だと考えていました。彼は自分の主張を、幕府や新政府の交渉相手である西郷隆盛や、それどころか清の李鴻章などにも伝えています。
渡米した勝海舟はアメリカで見た西洋文明の進歩に驚きましたが、同時に西洋列強がアジアに植民地を増やしていることにも気づきました。彼は日本が植民地にならないためには、自力で近代化する必要があると考えたのです。
幕末の日本は、欧米列強との不平等条約によって、金銀の交換比率の内外差や外国製品の流入などで経済的に苦境に陥っていました。しかし、幕府や諸藩は、外国からの借金を避けることを重要視していました。これは、勝海舟の「海外から金を借りない」という主張の影響もあったようです。海外の資金で行う代理戦争ではなく、国内内紛というので、日本は内政は保てたので独立し続けられていたんですよね。>>115
長州人にも色々いるだろうに…
差別主義のサイコパスだな>>125
朝鮮人の自己愛が作り出した幻想妄想は、もうお腹いっぱいだをな。- 127
ヨメ@不明なエラーです 不明なエラーです 不明なエラーです KOREANは鰓です 不明な鰓です 先祖返りです アイゴチョットです フ〜ンです 鰓魚人なんです 2024/02/16(Fri) 10:44:18ID:Y2NjU5MTI(1/1)NG報告
>>1
サツマイモ食って仲良くなったアレな…🤒👍 >>125
朝鮮人が世界で馬鹿にされ無視されるのは「○○は事実です」と云っておきながらその根拠を一切示さないこと。
友人のドイツ人の言、「彼等は何処の宇宙に住んでいるのだろうか?」フフフ。- 130
名無し2024/02/16(Fri) 11:07:08(1/1)
このレスは削除されています
>>129
韓国併合は日本史上、最悪の失策だったと言っても過言ではないと断言出来るのです。
其れなら、その穴埋めとして日本が韓国に遺して来た在韓遺産の返還を要求するべきです✨>>132
横からだけど、何の話をしてるの?
急に本居宣長を薩摩藩の事に持ち出しても、????だよ。
長州藩と薩摩藩に関して質問があります。
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