>>1
無理言いなさんな 朝鮮は半万年もの間
奴隷だった惨めな歴史しかないんだから
つーかそもそも5千年って何だよwwwwww
自分でわざわざ奴隷期間 増やしてるだけって
気がつかないの?wwwww義教暗殺
面白い時代だと思うけどなぁ>>4
応仁の乱で、足利幕府が守護(斯波)でない実力者(朝倉家)を味方につけようとしたから。
つまり、幕府が下克上を容認した。そこから各地で下克上が拡大。平安末の武家というのは、簡単に言うと貴族の用心棒。それが平氏の時代に貴族化するかと思いきや、各地の任侠集団が「みなもと一家」の下に統合する。その後、実質は若頭の北条が実権を握っていたのを不服とする「分家あしかが一家」が大親分になる。そうこうしているうちに大親分が頼りなくなって、次に誰がその実権を握るかで、若頭の山名と細川が争ったのが応仁の乱。その結果は、全国統一の大親分が出ることなく、各地の任侠集団がバラバラに乱立する戦国時代になる。各地任侠集団は自分の縄張り内の人口・生産力・武力の増強に努め、戦国はその力を元に、大親分が誰になるかの戦い。
そういうように、武家を任侠集団だと考えるとその論理や倫理や思考もよく分かる気がする。
あ、暴力団じゃないよ。任侠ね。親子の盃、兄弟の契り、仁義。そういうところ。縄張りを話し合いで決めたり、他の組との商業や貿易を奨励して縄張りからの「あがり」を多くしたりもする。外国との貿易も盛んにやる。
農民と言えば生産力なので、戦国時代の農民は弁当食べながら戦闘を見物して、戦闘が終わったら落ち武者狩りをして小遣いを稼いでいたこともある。カタギ(一般庶民)とある程度は世界を分けて、自分たちの世界内だけで解決しようというのも、どこか武家社会と任侠は似ている。
あくまで、一面だが、似ている。
気がする。まずは足利家のお家騒動から
>>1
日本統治時代~第二次世界大戦
だって、全然、史実と違う認識だもの
日本の侵略とか、韓国が独立を勝ち取ったとか日本と朝鮮のある考え方の違いの元は、応仁の乱というのも、一つあると思う。
足利家が最初から何か頼りなかったのは、結局、源氏の本家と同じで、血筋だけを尊重し過ぎた結果。そこに内紛の元もあり、国内の乱れの元もある。血がつながっているかどうかに本質を置いていたのが、ここで行き詰った。
応仁の乱以降、戦国時代に入ると、縄張り内の国力をいかに強くするか。結局親分の実力次第の時代になる。そうすると、優秀な親分にみんなついていくので、ここで血筋というのがある意味どうでもいいものになっていく。名分も関係なく、文字通りの下克上になる。
江戸期になってもこの考えは残り、各藩の財政や生産力は各藩の実力次第で決まる。つまり、実務者に実力がないと藩が現実に困る。血筋は二の次という考えも続いていくことになる。
結局、朝鮮と日本との違いはそこだと思うのだよね。政治や行政の実務者までも、その人材の才能や実力に関係なく、単に血筋や名分だけで継いでいった社会と、実力がないと実務者にはなれなかった社会の違い。
応仁の乱は、日本と朝鮮のその考え方が分かれる分岐点だったと思う。
ま、スレタイとずれたレスになったけど。>>4
応仁の乱の時は室町幕府だね
6代将軍の足利義教はクジ引きで決まったんだけど、悪政で暗殺された
それ以降、室町将軍の権威は失墜
で、8代義政の時、跡継ぎ問題を守護大名同士の勢力争いに利用され、収拾が付かなくなった
それが大乱に発展
『室町将軍には何も出来ない』という認識が、日本中に伝わってしまった
以降、信長が急速に力を付けるまで、極めて無秩序に近い時代が続く
それが戦国時代>>11
シャルル・ダレ『朝鮮事情』
「昔日のことはさておき、こんにち公開試験〔科挙〕が極めて堕落していることは確かである。こんにちでは、最も学識があり最も有能な人に学位免許状が授与されるのではなく、最も多額の金を持った者や最も強力な保護者のいる人びとに対して与えられている。」
A・H・サヴェジランダー『朝鮮-静かなる朝の国
「私が聞いたところでは、今日の科挙は単なるいんちきで、人々が熱望する学位が得られるのは、文学その他の知識や高い達成度ではなく、単純な買収のシステムによってである。さらに聞いたところでは、ときに本当に才能がある男子が毎年のように失望を重ねる一方、貴族や金持ちの愚鈍な息子は好成績で合格し、落とされることはほとんど、あるいはまったくないと言う。」
W・F・サンズ『極東回想記』
「科挙制度は最も低い水準まで転落した。公職に任命されれば、ある程度の貴族の序列が付与されるため、「涜職」と社会的な理由のために科挙に応試した。文科に合格するためには、家柄がよいか、おびただしい賄賂を使わねばならなかった。」>>13
腐敗はウリナラ起源ニダ!wikiには畠山氏と斯波氏(しばし)の家督争からって書いてるね。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
ググったwikiの下のサイトには畠山家の内紛。つまり畠山家の分裂が原因。
https://bushoojapan.com/tomorrow/2016/11/11/87147
その畠山騒動の最中弱い幕府の跡継ぎ問題で山名と細川が違う足利の跡継ぎ候補を立てて関ヶ原みたいに日本中が二分された。
そこで喧嘩の調停に失敗した。
もうわからん諦めたみなさま歴史に詳しくて羨ましい
ところで
韓国人が読める翻訳ができるのか疑問なんですが。(単語すら対応できないのでは)>>1
日帝の真実なんかチョンは何も知らんだろ。アホなの立てるな>>20
世襲だから、公務員ではない。
・公務員だと、土地に執着しないから、戦争で劣勢だと、すぐに崩れる。
これが本格的な武士政権が興って100年後には、中国&朝鮮が日本に戦争で勝てなくなった原因。
・公務員だと、自分の領地ではないので、土地の振興にも積極的にはならない。 特に地方が発展しない。
これが、日本が急速に近代化し、中国&朝鮮が日本に決定的な国力差が出た原因。
現在の日本観光が地方まで魅力がある原因。
・公務員だと、任期期間だけその土地を管理するので、公務員の不正の徹底管理が出来なければ、その間に蓄財(不正、収奪)に関心が高いので不正の習慣が絶えない。
中国&韓国で収賄不正が絶えず、日本で少ない原因。封建制って、資本主義や近代化の素地が出来上がるために重要なことだったのね
>>1
2、3年前、呉座勇一『応仁の乱』中公新書が30万部を超えるくらい売れている。
好きな人は好きなんだよね
読んでは見たけど内容はついていけなかった。
応仁の乱の始まりは、
畠山の跡目争いで畠山義就を押す山名と斯波、畠山政長を押す細川
足利義政の仲裁で義就と政長の一騎打ちのはずが、山名と斯波が加勢して勝ったため、細川が反攻する
京都で、お互いにお堀を掘って城を造るようになり、攻撃力より守備力が上がって、決着がつかなくなった
京都の補給路を押さえて兵糧攻めにしようとして、地方も巻き込む
足軽を雇うようになるが、報酬を払う代わりに、略奪を黙認することとなり、更に荒れる
多くの人を巻き込んだために、細川と山名がやめてもその他の陣営が戦闘を継続した
という感じだったと思う。
韓国の歴史?
興味ないし
有名だけどよくわかっていない大戦としたら、第一次世界大戦がその筆頭でないか?応仁の乱の主要人物
足利義政、足利義視、日野富子、畠山義就、細川勝元、山名宗全、伊勢貞親、大内政弘、土岐成頼、朝倉孝景
これだけの伝記を読めば解りますよ。とりあえず畠山義就を読むが一番解りやすい
応仁の乱は京都で行われた為に領主が京都に居続けることになった。その結果、地元を掌握した臣下が力をつけることにより下克上の土台となった。また地方騒乱の下克上に対して中央政権の足利幕府が制裁も調停する力を失ったことで戦国時代となった>>23
第一次世界大戦は訳が分からないよねw
ハプスブルク家(オーストリア)のケツ持ちをしていたドイツと、セルビアのケツ持ちをしていたロシアがいたのだが、ハプスブルク家はセルビアを併合。オーストリア皇太子は併合したセルビアを安定させたくて、巡行に行く。
そして案の定暗殺される。
ケツ持ち同士のドイツとロシア開戦。
当時ロシアは日露戦争で敗北した経験から外交で英仏と三国協商を結んだ。
統一ドイツが強すぎるから牽制も兼ねて。
その為ドイツとしては、三国の1番弱い仏から叩く為に、側面を衝ける様にオランダベルギー経由で進軍。
うむ。訳が分からないね。
応仁の乱を深く知りたいけど、勢力が今一つ分からないから遡って調べるしか無いのだろうなぁ。YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=mRhQokVtpks
この番組見たら応仁の乱がある程度わかるし面白い。>>25
ハプスブルク家は、かつて神聖ローマ帝国の皇帝だった家系で歴史も古い。
その後継者とされた甥のフランツ・フェルディナントは、なかなか結婚相手を決めようとしない。
周囲が心配して調べたところ、他の貴族の女官で若くも美人でもないゾフィー・ホテクと恋仲になっていた。
叔父は大反対、長い歴史のハプスブルク家で身分差の恋に落ちた人は何人もいるが、その人が後継者となったことはない。
叔父は、後継者をとるかゾフィーとの結婚を取るかの2択を迫るが、フランツは両方とも取ると宣言
ゾフィーとの結婚は認められたが、その子供の皇位継承権は認められず、ゾフィーも妻の立場で公の場に出席することはできず冷遇された。
その後、フランツは対外強硬策を取り、初めて夫婦同席での視察の時に暗殺されてしまう。
それが、サラエボ事件で第一次世界大戦のはじまり
wiki フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ
フランツ・フェルディナントは泣き叫ぶゾフィーの上に身を乗り出した。周囲の人々が夫妻に駆け寄った時にはフランツ・フェルディナントは生きており[19]、ゾフィーに「ゾフィー、死んではいけない。子供たちのために生きなくては」と語りかけていたという[18]。総督官邸に入った側近たちはフランツ・フェルディナントの手当てを試みようとしたが、彼は数分後に死亡し、ゾフィーも病院に向かう途中で死亡した
ロマンスだねー
そしてなぜあのような大戦になったか?
ごめん、全く知らない>>28
wiki 十四か条の平和原則
十四か条の平和原則(じゅうよんかじょうのへいわげんそく、英: Fourteen Points)は、1918年1月8日、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが、アメリカ連邦議会での演説のなかで発表した平和原則である。
略
第1条:講和の公開、秘密外交の廃止
列強中心の「旧外交」の温床となっていた秘密外交の廃止と、外交における公開原則を提唱した。
要するに、駄一次世界大戦時には、外交の内容は秘密だった。
実際に戦争が起こるまで、誰が敵か味方かわからない状態ということ
それが、思わぬ戦争拡大になったんでしょうね平安時代から続いた中世が完全に終わり、近世になった。中世権門体制の崩壊が戦国時代になった。戦国時代は近世
平安時代からの中世権門体制が完全に崩壊して、近世になった、幕府、朝廷は地方官を送れなくなり、日本がバラバラになり、大不況となった。
急激に寒くなって飯が食えなくなったから貧民が暴れまくったってだけ
飯が食えない庶民が土一揆を起こしまくり略奪から身を守るために武装農民と化していった
日本の15世紀は日本全土が朝鮮半島並みに寒くて食事に困ってた時代なんだ
同じ頃に半島や大陸でも国家崩壊が起こってただろ
当時の欧州でも比較的暖かい地域のオスマンが東欧を荒らしまくってただろ
比較的過ごしやすい温暖な地域が寒くてご飯も作れない貧困の気候にさらされて大荒れだったんだ第一次大戦は当時の風刺画だとこんなもんだった様だよ。
>>25>>22律令制以来の封建制の崩壊が、応仁の乱以後おこって、無秩序な戦国時代を経て、江戸時代の初期資本主義になった
戦国時代(日本の100年戦争)の始まりになった応仁の乱
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