ただの悪魔ですけど…
政治などは関係ない映画じゃん。
監督のインタビュー見ると元は中国人にだったけど実際に田舎に中国人住んでいる場合がもう多いから恐怖感のため日本人に変えたと言う。鬼、悪魔ような姿でも神のけががある妙な存在
鬼、悪魔ような姿でも神のけががある妙な存在
>>1
なんか面白そうだ^_^
昔「エンジェルハート」と言う映画があったけど
あれの韓国版みたいな話かな?
Angel Heart (1986) TRAILER
YouTubehttps://youtu.be/DTC9Lt3hiWo
ロバート・デニーロが凄かった。
國村隼も存在感はあるかな?なんか面白いのと面白くないの意見があるな。
- 國村と日光は同僚。
- 國村が東洋的な悪なのか、西洋的な悪なのかは不明。
(むしろ韓国では、日本密教側の修行僧という分析もある。
カラスを使役魔として使用したとか、鳥を食べているとか)
- イサムの前で聖書を引用しスティグマを作ったのは仕掛け。
「私は善かな?悪かな?」wwこんな感じ。日本人を採用したのは、反日とかではなく、
中国人を採用してしまうと「正体不明の恐怖」よりも「すぐに拳が飛んでくるだろう」となってしまうから(笑)
個人的にこの映画は、現代美術の発想側逆アクセスしている映画だと思った。
テーマとか教訓とか好きな人には、3類反転映画になるだろう、
逆に、「良い映画には必ず教訓とか示唆が必要?」という人には評価が良い일본은 요괴나 귀신 다양하고 유명하잖아
그것때문에 일본인으로 한거 아닐까
난 영화보면서 그렇게 생각했는데>>12
面白い視点だ^_^>>14
精神的にクルって怖さねwFilmarksを見ると、時々勘違いする人も多いが、この映画は、「ホラームービー」ではないから。
Ringは私幼い時はかなり好きだった作品であり、(←ホラー映画マニアw)
B級ホラー映画も毎年見に行きますが。
韓国人たちはあまりこの映画をホラー映画だと思いませない。
むしろホラー映画になると、ジャンルの特性のために、少し安く示してしまうこともし。
ただ「オカルトが素材に使われている映画」>>1
공포라기 보다는 추리 영화 아닐까現代美術の方の話をもう少しすれば、
昔の名畵と違って、正体不明のパフォーマンスをする芸術家たちが多いと感じるだろうが、
その理由が、「単に自意識過剰だから」よりは、
アーティストたちが昔のように一方的に絵を描いて「これを見よ」、ではない、
観覧者まで芸術活動の舞台の中に引きつけることに意味を置くトレンドのためだと学んだ。
(最近一方向のTV → 両方向疎通のインターネットになっているのと似た流れというか)
YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=gN2zcLBr_VM
例えば、John Cageの4'33というパフォーマンス。
(ピアノの前に座って何も演奏しないで,
楽譜を渡す時の音,観客の咳声といったものまでその時間内での特殊性に編入)
以前のように90:10ではなく、
"私は50までします、残りの50はあなたたちが埋めてください ^^"のような感じ?個人的には、
ナ・ホンジン:「観客が家に行っても一週間程度悩んで情報を共有する映画を作りたい」
「クレジットが上がれば "あ、適当によかった" と評価して忘れる映画ではなく、観客たちの観覧時間を2時間から1日、一週間に増やしてしまいたい」
「私はプラットホームを作ってやるよ。残りは君達も自分で討論してみろ」
から出発したんじゃないかと思うが。そこで逆に出発した場合、何か納得も出来る。
そのためには、最も重要となるもの.
「観客がこの映画の材料、内容の流れから途中下車してしまうと何の意味もなくなること」
=ならば、ジャンルは最も反射的に人々の関心を強要する、ドキドキ感のオカルト、サスペンス...
=もともとは「Usual Suspect」のように、定石的な反転の使い方であれば、「最も後半」に「太く1〜2度だけ」を使用するのが、クリシェを壊してしまって反転を「映画中盤まで持って来て」、「何度も」を使用。(國村の貧しいシーンを見せてくれるとかw)
=寸劇になるといけないので、俳優は演技力が高い人を配置。
=「絶対惑わされるなw」という挑戦的なキャッチフレーズ。
=最後に完全に観客の立場を計算した編集が重要...(ここで1年半)インタビューを見ると、ナ・ホンジンも「ああ...人間の解決できない不可抗的なことについての感想から...」とか囲ま当てているが、率直に言って適当な話だと思うし(笑)
要約するとこの映画は、エンターテイメント映画の極限と思う。
-評価されるべき部分は、すばらしい教訓とか示唆ではなく、演出の方。
-観客に2時間半の話を強要させながら「没入度がすごかった」「編集も絶妙だ」、とある程度共通の評価を作り出した時点で既に目的を達成。
-それだけですでに高い評価を受けてもされている作品だと思う。結局、映画の評価を分けるのは、人々が考える「監督のクラス」だが
「だから、この映画はどの程度の物?」、
「監督は何を思ったのか?」
①「よく見る反転乱発トレンドの作品。監督が気持ち悪い人なので、観客の釣りでくすくす当てている人であるだけ」 → 監督は3類。教訓や深さがない映画だ。
②「わざわざクリシェを破るしまったと思う。そして、上記のようなことをしたかったようだ」
→教訓が重要?編集を見ると、監督がその程度のバカであるはずがないだろ。 1類。
どちらの評価も出てくるかもしれないが、もう一つ気になるのは、
「まあ、お前たちが決めるの?w 私がどう言っても結局君逹が見たい方に見るじゃない?」という作中後半のセリフ。
個人的には、このセリフは監督のexcuse、sarcasmと思う
「物事は見る方によって変わるのだ」?
これあえて映画のテーマのように言う必要もない中学校レベルの真理なのに、監督がやっとその程度を言うために映画を作ったのだろうか。ということ
そして当然ながら、これも私が見たい方向に見ているだけど(笑)
『哭声』國村隼が恐ろしい
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