>>538 ( >>1)
李承晩ライン、正しい歴史認識のために…
①国際ルールがん無視の李承晩ライン、
②李承晩ラインでの拿捕、暴虐の海YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=O_KoWr9VqxE
①国際ルールがん無視の李承晩ライン
第二次世界大戦後、日本漁業の経済水域は、
占領軍による日本統治のために引かれたマッカーサーラインにより大きく制限された。
しかしそれは暫定的な物で、サンフランシスコ講和条約により日本主権が回復されれば、
廃止が予定されていた。
韓国は、朝鮮半島から日本が去ったことにより、アメリカを後ろ盾とし成立した国である。
初代大統領の李承晩は、日本統治時代の殆どはアメリカに在住し、
韓国独立のためのロビー活動によりアメリカでは知られた存在だった。
そのことがアメリカが李承晩をバックアップした理由だった。
②李承晩ラインでの拿捕、暴虐の海
韓国によって一方的に引かれた李承晩ライン内での漁業は、韓国籍漁船以外は行えず、
これに違反したとされた、主に日本の漁船は韓国側によって臨検、拿捕、接収、銃撃を受けるなどした。
1953年2月、第一大邦丸及び第二大邦丸が操業していると、韓国の漁船二隻が接近、
そして日本語で「魚は獲れますか」と話してきた。
韓国船はそのまま行過ぎ、付近で停止して操業を装いながら日本船を監視していたが、
しばらくして第一大邦丸が揚網作業に入ると、韓国船は船尾から30メートル程度の至近距離から無警告で、
自動小銃で第一大邦丸への銃撃を開始した。>>1
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検索>>538 ( >>1)
「朝鮮戦争時」の「韓国軍慰安婦」も
「李承晩」と「独立派一味」による仕業である。
「第5種補給品」という「韓国政府」が作った真の「性奴隷」である。
https://en.wikipedia.org/wiki/Prostitutes_in_South_Korea_for_the_U.S._military
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E9%9F%93%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%95%8F%E9%A1%8C
https://www.google.com/search?q=Prostitutes+in+South+Korea+for+the+U.S.+military&client=firefox-b>>538 ( >>1)
隠された韓国の民間人虐殺YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=eRqxSPXJK9U
これが正しい歴史だ、よく覚えておけ。
当時、秀吉軍が作った本格的な城を見ても秀吉の寿命が5年でも10年でも長かったら明も倒していたよ。戦国100年を経た日本軍の戦闘力は、鬼島津にしろ清正にしろ明軍や朝鮮軍を圧倒していた。第一回目の文禄の役で加藤清正がオランカイまで敵と遭遇戦を闘いながら朝鮮半島を抜けてオランカイまで行ったのは、どうみたって威力偵察だろ。
第二回目の慶長の役では、上であげた倭城跡からも分かるように恒久陣地を作り、四道割譲を要求している。そして、何より1回目で明軍の方から半島まで出向いてくれることが分かったので、朝鮮南部に城を築いて待てば良かった。明軍を引き寄せるだけ引き寄せて島津がやった釣り野伏せでもやれば明軍の壊滅は間違いなかっただろ。
ただ秀吉の寿命が来ただけだ。そしたら日本でまた戦国が来るのは分かっていた。皆心ここにあらずで、島津も小西も鍋島も自分の領地、自分の城に帰って戦国パートいくつかの到来だから帰っただけだ。
何で秀吉が明に行ったって?コエリョの野郎がスペインの無敵艦隊を背景にした物言いで秀吉から激怒されたように、当時世界の8割を支配しようとしていたスペインの標的は明だった。スペインの思惑は、信長や秀吉を上手く手駒に使って明を征服することだったが、両者はスペイン野郎の思惑を分からない阿呆ではない。おあいにく様というしかない日本史上の天才2人だ。フェリペ2世の名前を冠したフィリピン・マニラを中心に東南アジアの兵を集めて明に行くしかなくなったわけだ。秀吉はスペインの無敵艦隊の船に乗れる所詮少数でしかない兵はまるで恐れていなかったが、仮に明・朝鮮をスペインが征服したとして、それを寝ながら待っているほど愚かではなかった。それらの明・朝鮮の人数まで含めて日本に来るのがスペインのやり方だ。そうだろ、お前ら。>>586
当時の日本は、全ヨーロッパの銃を合わせるより多くの火縄銃を生産して所有していた。
火縄銃は射程が最大でも150メートルから200メートルと現代のライフルより短い。
しかし、拳銃よりも初速が速くコーティングのないただの鉛玉は人体殺傷力が非常に高い。
しかも現代の実験において、50メートルで重武装である鎧を打ち抜いたほど貫通力もある。
100メートル以内の短距離戦においては圧倒的なストッピングパワーを示しただろう。
それから火縄銃は思っているよりもよく当たる。
現代の実験においてもそれは証明されている。
そして、熟練すれば20秒で弾を込めて2発めを撃てるようになる。
日本人はそんな職人芸みたいなものは一番の得意技だろ。
きっと当時の日本人達なら、もっととんでもない職人技を見せていたと思うよな。韓国の精神的勝利教育の中で一番のタブーは「世界唯一の朝鮮半島における自民族の大量の奴隷制度」だよ。最後まで抵抗した後百済を北方民族が「奴婢」にし、日韓併合まで続けた異常性の事実です
これを学問しない限り韓国人は歴史を理解できない!>>538 ( >>1)
1945年09月08日 : アメリカ軍政の開始、日本統治の終了。
1948年04月03日 : 済州島四・三事件・・・・・ >>567
1948年08月15日 : アメリカ軍政の終了、大韓民国の建国。
1948年10月19日 : 麗水・順天事件・・・・・・ >>568
1949年12月24日 : 聞慶虐殺事件・・・・・・・ >>570
1950年06月25日 : 保導連盟事件・・・・・・・ >>573
1950年06月25日 : 朝鮮戦争の開戦。
1950年06月28日 : 漢江人道橋爆破事件・・・・ >>575
1951年01月06日 : 江華良民虐殺事件・・・・・ >>576
1951年01月___ : 国民防衛軍事件・・・・・・ >>577
1951年02月09日 : 居昌事件・・・・・・・・・ >>579
1953年07月27日 : 朝鮮戦争の休戦。>>587
>>588
これが正しい歴史だ、よく覚えておけ。
当時、秀吉軍が作った本格的な城を見ても秀吉の寿命が5年でも10年でも長かったら明も倒していたよ。戦国100年を経た日本軍の戦闘力は、鬼島津にしろ清正にしろ明軍や朝鮮軍を圧倒していた。第一回目の文禄の役で加藤清正がオランカイまで敵と遭遇戦を闘いながら朝鮮半島を抜けてオランカイまで行ったのは、どうみたって威力偵察だろ。
第二回目の慶長の役では、上であげた倭城跡からも分かるように恒久陣地を作り、四道割譲を要求している。そして、何より1回目で明軍の方から半島まで出向いてくれることが分かったので、朝鮮南部に城を築いて待てば良かった。明軍を引き寄せるだけ引き寄せて島津がやった釣り野伏せでもやれば明軍の壊滅は間違いなかっただろ。
ただ秀吉の寿命が来ただけだ。そしたら日本でまた戦国が来るのは分かっていた。皆心ここにあらずで、島津も小西も鍋島も自分の領地、自分の城に帰って戦国パートいくつかの到来だから帰っただけだ。
何で秀吉が明に行ったって?コエリョの野郎がスペインの無敵艦隊を背景にした物言いで秀吉から激怒されたように、当時世界の8割を支配しようとしていたスペインの標的は明だった。スペインの思惑は、信長や秀吉を上手く手駒に使って明を征服することだったが、両者はスペイン野郎の思惑を分からない阿呆ではない。おあいにく様というしかない日本史上の天才2人だ。フェリペ2世の名前を冠したフィリピン・マニラを中心に東南アジアの兵を集めて明に行くしかなくなったわけだ。秀吉はスペインの無敵艦隊の船に乗れる所詮少数でしかない兵はまるで恐れていなかったが、仮に明・朝鮮をスペインが征服したとして、それを寝ながら待っているほど愚かではなかった。それらの明・朝鮮の人数まで含めて日本に来るのがスペインのやり方だ。そうだろ、お前ら。>>1歴史上、造船半島の軍隊が強かった事は、無い。
壊れたネトウヨがコピペ連投してて草
1582年ヴァリニャーノのマカオ発のフィリピン総督宛の手紙 ~中国の征服について
(東洋における)征服事業は霊的な面だけではなく、それに劣らず陛下の王国の世俗的な進展にとっても益するものである。それらの征服事業の中で最大のものの一つは、閣下のすぐ近くにある、このシナを征服することである。・・・これは主や国王陛下への奉仕にとって非常に重要な行為なのであるが、その事業に関して手にすべき真の計画なり、情報なりを提供できるような者はほとんどいない。そこで、私が当地で得た経験をもとに、その件のためにわかる若干の重要な事柄について、閣下と相談することが可能ならばとても嬉しい。
1583年(天正11年)フィリピンのマニラ司教フライ・ドミンゴ・デ・ダラサール
「中国の統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、陛下は武装してかの王国に攻め入ることのできる正当な権利を有する」と、スペイン国王フェリペ2世に説いている。
その主張は、スペインのわずかな鉄砲隊でも何百人もの中国人を滅ぼすのに十分だし、中国からごく近くの日本人は中国人の仇敵だから、スペイン人が中国に攻め入るときには非常な敵意を燃やして加わるだろう、この点、日本人に対し在日イエズス会士の命令に従って間違いなく行動を起こすよう指令を送ればよい」と言うのであった。
イエズス会日本布教長フランシスコ・カブラル 1584年(天正12年)
スペイン国王に「中国王国の全土の年貢徴収の台帳をすでにスペイン語に翻訳させ、1億5000万人の年貢納入者を確かめる仕事を完了していること、中国国民は国境守備隊を除けばすべて非武装の国民であり、国王だけが倉庫に武器を所有していること、中国全土に青銅の弾丸は一つもないこと、政治が過酷なためすでに謀反が起こる情勢であること、日本駐在のイエズス会パードレたちがたやすく日本人キリスト教徒2,3千の、陸海の戦闘に実に勇敢な兵隊を参加させることができること」、かくすればスペイン王は短期間に世界の帝王になれるなどと書き送っている。ポルトガル・スペイン帝国とイエズス会の動き
1585年(天正13年)当時有馬にいた準管区長のコエリュ 同年3月3日付けのローマ宛の書簡
「兵士、弾薬、大砲、兵士のために必要な食料、及び1,2年分の食料購入用の金銭が十分に備わったフラガータ船を3~4艘、当地日本に派遣してもらいたい」と記し、マニラ経由でのスペイン軍勢の日本派兵を要求している。この書簡は長崎の防衛のために書かれたものであるけれどもイエズス会とポルトガル国王でもあるフェリペ2世との軍事連携を明らかに念頭に置いた内容となっている。
そしてコエリュは、日本のキリスト教徒の領主の援助を得て、この海岸全体を支配したいと明言したばかりか、「もしも、国王陛下の援助で、日本66ヶ国すべてが改宗するに至れば、フェリペ国王は、日本人のように好戦的で怜悧な兵隊を得て、一層容易に中国征服を成就することができるであろう」と書き添えていた。
フィリピン総督サンティアゴ・デ・ベーラ 1587年(天正15年)メキシコ副王に対する書簡
平戸王(松浦氏)は、スペイン国王陛下から要請ありしだい、友人のドン・アウグスチン(小西行長)とともに、十分に武装した6000の日本兵を、わずかな傭兵料で、ブルネイ、シャム、モルッカ、中国にも差し向ける用意があると正式に言明した、という日本船船長の話を報じている。
また平戸にかつて漂着した経験のあるアウグスチノ会士の一人フライ・フランシスコ・マンリーケも1588年(天正16年)にマカオから、日本のキリスト教徒の王は4人に過ぎないが、10万以上の兵を動かすことができ、日本兵は非常に勇敢にして大胆かつ残忍で、中国人に恐れられているから、彼らがスペイン軍の指揮下に入れば中国の占領はたやすい、とスペイン国王に報告している。
要するにポルトガル・スペインは日本勢を援兵として使うことを目論んでいた。明国のへの侵攻はポルトガル・スペインと日本とがそれぞれの思惑から計画されたものであるが、東南アジアの政治・軍事情勢の中に適切に位置づけられるべきものである。即ちポルトガル・スペインが大陸侵攻に成功した場合の日本はどうなるか。秀吉の中国侵攻策はそうした分析が政府の中に働いていたのかどうかという視点から再検討されるべきではあるまいか。韓国人の歴史観というのがここまでとは…
おそらく秀吉は宣教師らの魂胆を見抜いていたのだろう。
天正15年(1587)に『伴天連追放令』を出すきっかけとなった秀吉の九州平定は、その2年前にイエズス会のコエリョが秀吉に対し、大村・有馬のキリシタン大名の仇敵である島津を征伐するのなら高山右近らを秀吉の味方につけると進言したことにより実現した。イエズス会にとっては秀吉の九州攻めは願ってもないことであり、右近らの活躍で島津討伐に成功したのだが、秀吉は九州を平定すると、右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教を迫り、それに抵抗した右近を追放してしまった。
その一方で、征伐した島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵しているのである。
秀吉は、イエズス会に協力するように見せかけながら、実際は宣教師やキリシタン大名の勢力を弱めるために九州に来たとしか思えないのだ。イエズス会のルイス・フロイスの記録『日本史』には、『伴天連追放令』を出す直前に秀吉が家臣や貴族たちを前に述べた言葉が記されている。
「伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.214)
フロイスがこのような書き方をしているということは、秀吉は宣教師がわが国を占領する目的で来日している認識があることを、フロイスも理解していたということだろう。
また、朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)には、秀吉はゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて恫喝している。特にフィリピンに関しては、3度も降伏勧告状を送っているのに注目したい。秀吉がフィリピン総督(スペイン)に対して出した第一回目の降伏勧告状にはこう書かれていたという。
「降伏して朝貢せよ。ぐずぐずしていたら必ず征伐する。後悔するな。」というところだが、この国書を読んでスペインは驚いた。
当時の東南アジアには日本のように鉄砲を自国で大量に生産できる国はなかったので、スペインやポルトガルは僅かな鉄砲を持ち込むことで異国の領土を容易に占領し支配することが可能だったのだが、世界最大級の鉄砲保有国であった日本を相手にするとなるとそうはいかなかったのである。
秀吉の恫喝に対し、フィリピンのルソン太守であるダスマリナスは、わずか400名の兵士では日本軍と戦う自信がなかったために日本の使節を歓待し、日本の実情を探らせるために返書を持たせて使者を送るしかなかった。
さらにダスマリナスは、日本人のフィリピンへの侵入を非常に警戒して14項目もの対策を立案している。昭和17年に出版された奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』にその内容が出ているが、これを読むと、如何にスペイン人が日本人を怖れていたかがよく分かる。
ダスマリナスは、食糧や武器を可能な限り買い込むことを指示し、城塞の建設を命じたほか、如何なる市民も許可なくして財産や家族をマニラ市から移すことを禁じ、また許可なくしてフィリピンから船を出港出来ないようにし、とりわけ日本人を警戒することを縷々述べている。
たとえば、6番目の対策は
「マニラ在住の多数日本人はフィリピンにとって脅威なり。この脅威より免れるべく、これら日本人よりすべての武器を奪いたるうえ、市外特定の場所に移転せしめること。」とある。当時のフィリピンには、商人のほかにシャムやカンボジアと同様に奴隷として海を渡りこの地に住みついた日本人がかなりいたようである。
では、フィリピン国から秀吉に宛てた返書の内容はどのようなものであったかと言うと、要するに、秀吉の文書は果たして本物であるか、それを確かめるために使節を送るというものであったようだ。この国書言うのはつまるところは時間稼ぎである。
さらにフィリピンから送られた使者のフレー・ジュアン・コボスはフィリピンを秀吉の支配下に置くことについては意思表明を避けたため、秀吉は再び書状を書いて原田喜右衛門をフィリピンのマニラに遣わしている。この時に秀吉が記した第二回目の降伏勧告状が紹介されている。
「…この地球上、天が下に住む者はすべてわが家来なり。余に対して恭順の意を致す者は平和と安堵を得、何らの恐怖なくして住むことを得べし。しかしながら、余に恭順を表せざる者に対しては、余は直に我が将卒を送りて、先ごろ朝鮮王に対して為せるが如く武力を行使すべし。これ朝鮮王が余に恭順を表することを拒みたるが故にして、余は…朝鮮全土を平静に帰せしめたり。…」
フィリピンは1593年の5月に原田の船で二度目の使節を日本に派遣し、その中に二人のフランシスコ会の修道士がいた。その一人のゴンザレスは、秀吉の服従要求に対しスペイン国王の返答があるまで日本に人質として留まることを乞うたのだが、このゴンザレスは日本滞在中に、フランシスコ会伝道の基礎を作ることを企んでいたという。ちなみに、先にわが国で布教活動を行なっていたイエズス会は、秀吉の『伴天連追放令』のあとで自由な布教活動ができなくなっていた。
徳富蘇峰の『近世日本国民 史豊臣氏時代. 庚篇』に、フランシスコ会がその後のわが国でどのような活動を為したかが記されている。
「スペイン太守の使節は、人質の名義にて、上方に滞在し。さらに伏見において秀吉に謁したる際、彼ら専用の家屋を構えんことを願った。秀吉は前田玄以をして、その地書を与えしめた。前田は諸教師に向かって、説教、および宣伝の事を禁ずる旨をつげ、旧南蛮寺の敷地を与えた。然るに彼らはその訓戒をも顧みず、礼拝堂一宇、密教所一宇、僧院一宇を建築し、これをノートルダム、ホルチュウンキュルと称し、1594年(文禄3年)10月14日、初めてミサ教を誦し、爾後日曜日、及び祝祭日には、怠りなくおおっぴらに礼拝した」ゴンザレスは、1594年に秀吉からの第3回目の降伏勧告状を携えてマニラに戻っているが、この内容もすごい。
秀吉は中国にまで領土を拡げたら、ルソンはいつでも行ける距離であると脅しているのだ。
「…余は朝鮮の城砦を占領し、その使者を待つために多くのわが軍を派遣せり。彼らにしてもしその言を破るがごときことあらんか。余は親しく軍を率いてこれが討伐に赴くべし。而してシナに渡りたる後はルソンは容易にわが到達し得る範囲内にあり。願わくば互いに永久に互いに親善の関係を保たん。カスティラ(スペイン)王に書を送り、余が旨を知らしむべし。遠隔の地なるの故をもってカスティラ王をして、余が言を軽んぜしむることなかれ。…」
南蛮屏風に描かれたイエズス会士とフランシスコ会士
ところで、フランシスコ会の宣教師たちは、大阪や長崎でも公然と布教活動を続け、マニラから仲間を呼び寄せ、大阪や長崎で教会堂を建て、信者を急激に増やしていった。
一方、『伴天連禁止令』以降、おおっぴらな布教活動ができなくなっていたイエズス会は、フランシスコ会の布教の成功を見て喜べるはずがなかった。
イエズス会は、1585年にローマ法王が発布したフランシスコ会の日本渡航禁止令を持ち出して抗議したようだが、奈良静馬氏の前掲書によると、フランシスコ会は「自分達は宗教伝道者として日本に来たのではない。フィリピン太守の使節としてきたのであると嘯き、依然としてはばかるところなく布教に従事したので、1595年には8千人という多数の者が洗礼を申し出た。」のだそうだ。
しかし翌年に、再び秀吉を激怒させたとされる事件が起こることになる。ーーーー「日本二十六聖人殉教」事件はイエズス会とフランシスコ会の勢力争い------
フィリピンでは、秀吉の3度目の降伏勧告状に対する返事をどうするかで議論があったようだが、協議の結果このような返事を提出することになったという。
「親和関係の継続は閣下の希望し給うところなるを知り、大いにわが本懐に適えり。なんとなれば閣下もわが国王も共に大なる者なり。よってその親和関係もまた大なり、従ってその結果は互いに大なり。」
一神教の「絶対的正義」
「世界の全ての王が閣下に服従を申し出るとも、わが王およびその臣民がこれに倣うがごときは想像しえざるところなり。…
一度わが全知全能の主の偉大なることを知り給わば、閣下はわれらが全能の主に信頼を置くことの、いかに賢明なるかを了解し給うべし。余は閣下の不興を買わんがためにこの言をなすに非ず。ただ何ゆえにわれらが全知全能のわれらの主なる神およびわれらの最も偉大なるキリスト教王ドン・フィリップ王以外の他の国王、他の威力、他の主に帰順せざるかを知らしめんがために言えるのみ。」
昭和17年に奈良静馬氏が著した『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』と言う書物にフィリピン国の返書の全文が出ているが、この本の解説によると秀吉に対して刺激的なところは最後に削られて提出されたのだそうだ。
秀吉に対する返書が日本に向かう船に託されたすぐ後に、マニラ太守のダスマリナスはスペイン国王に対して軍隊の派遣を要請する手紙(1594/6/23付)を送っている。この全文も同上書に出ている。
「メキシコより大部隊の分遣隊を送ることは決定的に重要にして、かつ刻下の喫緊事なれば、メキシコ太守をして至急これが配慮方命令あらせ給え。…もし日本人襲来するも援兵到着せざる場合には、日本軍は長期にわたり大軍を以て攻囲占領し、臣らをして極めて窮迫の状態に陥らしむるに至るべし。…願わくは神の神聖なる栄光の下、神の思召しのままに行動せん。…」
しかし、メキシコからは、分遣隊が送られることはなかったようだ。>>603
ネトウヨ(アカ)に言ったんだろしかし、俺たちが共産主義者に習った歴史とは古代史から近現代史までことごとく実際の様相とは違ったんだな。
歴史に変なイデオロギーとか現代政治を盛り込むなよな。ホント糞だわ。これが正しい歴史だ、よく覚えておけ。
当時、秀吉軍が作った本格的な城を見ても秀吉の寿命が5年でも10年でも長かったら明も倒していたよ。戦国100年を経た日本軍の戦闘力は、鬼島津にしろ清正にしろ明軍や朝鮮軍を圧倒していた。第一回目の文禄の役で加藤清正がオランカイまで敵と遭遇戦を闘いながら朝鮮半島を抜けてオランカイまで行ったのは、どうみたって威力偵察だろ。
第二回目の慶長の役では、上であげた倭城跡からも分かるように恒久陣地を作り、四道割譲を要求している。そして、何より1回目で明軍の方から半島まで出向いてくれることが分かったので、朝鮮南部に城を築いて待てば良かった。明軍を引き寄せるだけ引き寄せて島津がやった釣り野伏せでもやれば明軍の壊滅は間違いなかっただろ。
ただ秀吉の寿命が来ただけだ。そしたら日本でまた戦国が来るのは分かっていた。皆心ここにあらずで、島津も小西も鍋島も自分の領地、自分の城に帰って戦国パートいくつかの到来だから帰っただけだ。
何で秀吉が明に行ったって?コエリョの野郎がスペインの無敵艦隊を背景にした物言いで秀吉から激怒されたように、当時世界の8割を支配しようとしていたスペインの標的は明だった。スペインの思惑は、信長や秀吉を上手く手駒に使って明を征服することだったが、両者はスペイン野郎の思惑を分からない阿呆ではない。おあいにく様というしかない日本史上の天才2人だ。フェリペ2世の名前を冠したフィリピン・マニラを中心に東南アジアの兵を集めて明に行くしかなくなったわけだ。秀吉はスペインの無敵艦隊の船に乗れる所詮少数でしかない兵はまるで恐れていなかったが、仮に明・朝鮮をスペインが征服したとして、それを寝ながら待っているほど愚かではなかった。それらの明・朝鮮の人数まで含めて日本に来るのがスペインのやり方だ。そうだろ、お前ら。>>607
当時の日本は、全ヨーロッパの銃を合わせるより多くの火縄銃を生産して所有していた。
火縄銃は射程が最大でも150メートルから200メートルと現代のライフルより短い。
しかし、拳銃よりも初速が速くコーティングのないただの鉛玉は人体殺傷力が非常に高い。
しかも現代の実験において、50メートルで重武装である鎧を打ち抜いたほど貫通力もある。
100メートル以内の短距離戦においては圧倒的なストッピングパワーを示しただろう。
それから火縄銃は思っているよりもよく当たる。
現代の実験においてもそれは証明されている。
そして、熟練すれば20秒で弾を込めて2発めを撃てるようになる。
日本人はそんな職人芸みたいなものは一番の得意技だろ。
きっと当時の日本人達なら、もっととんでもない職人技を見せていたと思うよな。>>608
フィリピン・マニラではなくフイリピン・ルソンに訂正。
当時はルソンと呼ばれていたよな。
それからお話しの時間の中で無敵艦隊アルマダがイングランドとの海戦で消滅しているが、秀吉としては知る由もない。
アルマダの戦いで無敵艦隊はイングランドを叩き潰すべく一路英海峡を突き進んで行く、待ち構えたイングランド側との死闘は史上有名な物語になってるよな。この海戦で輸送船に乗って参加していたのがウィリアム・アダムスという若い英国人で、この青年が10年後に日本に漂着することになる。
それは関が原の戦いの半年前で、皆がよく知っているように秀吉が死んだ後の戦国最終章の日本だった。大学の共産主義者は歴史だけじゃなくあらゆる学問を歪ませたよな。
法学者、憲法学者なんてウンコそのものだもんな。YouTubehttps://youtu.be/EmVzs4yNBtw
嘘の国民、嘘の政治、嘘の裁判豊臣秀吉の唐入りにしろ西郷隆盛の征韓論にしても、とんでもないこと言ってたんだよな。
秀吉が耄碌したっていうのが”通説”だったろ。あるいは”誇大妄想狂”だろ。
通説だったよな。つい昨日までの。
西郷はなんだっけ?日本の大陸への"野望””足掛かり”っていう大嘘も通説だったよな。
魏志倭人伝の其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
この部分の日本の天皇と建国精神も触れないよな。>>612
西郷は戦争好きだから征韓論だよな。
それと日本に大陸の野望がなくちゃいけないんだろ。
それのもとが征韓論だもんな。
くだらなすぎるな。
共産主義者は2時間以上前のことしゃべるの禁止にしようぜ。
厳しければ昨日までならいいか。それ以上前のことは、口にするの禁止。半島南部を任那日本府が統治していた事を、日本・中国・朝鮮の歴史書に載っているにも拘らず、
認めない南朝鮮の歴史観。韓国で、李舜臣は朝鮮を救った英雄扱いだが、
客観的な視点で見れば、日本の一部の兵站に打撃を与え、行軍を少し遅らせた程度。
当時の弱いと言われていた朝鮮軍の中では目立った将。
李舜臣が朝鮮を救ったほど活躍したなら、途中で失脚させられるのも変であるし、露梁海戦で戦死したことも説明がつかない。>>1
日明戦争って改名すべき>>1
チョンが勝ったなら、何で大阪城前の記念撮影がダメなわけ?また盛り上がってるな
>>10
まあ、明について中共奴隷どもがとやかく言うのも筋違いな気するが>>54
秀吉に世界的な見通しがあったのは認めるべきだろ。半島の一部から始めて制服を継続してたら、日本の近代化は焦ったものにならなかったはず>>1
朝鮮人は未だ李舜臣が勝ったと思ってるんだな。
『韓国人「日本人も理解できない日本の戦国時代の人物がコチラ」』
http://kankokuno hannou.org/blog-entry-15423.html(スペース削除)
>軍隊は李舜臣将軍様に抹殺され、弱体化した豊臣一族は秀吉の死後、苦労して得た天下人の座を徳川に奪われてしまいます。
軍隊が抹殺されてどうやって陶工を連れて来れたのか?って矛盾に感じない朝鮮人。>>622
明・朝鮮連合なら勝ったと言えるが、李舜臣は勝ってないな。
李舜臣は局地戦では勝ったけど、戦略目標は一度も果たせず、最後は停戦後に日本軍へ奇襲して返り討ちにあって死んでる。
日本が停戦を申し出たのは戦局が苦しいからではなく、秀吉が死んだ国内情勢から来る。近代以前の戦争では君主が死んだ時点で撤退する事は世界的に見ても普通の出来事。>>1
韓国だと秀吉は何故朝鮮征伐したことなってるのか?ってスレ削除された韓国人は馬鹿過ぎて、捏造された嘘の歴史を矛盾も何も感じずに鵜呑みにしてるんだから、本当に頭が馬鹿だよね。
韓国人は馬鹿王だ。朝鮮人は「本当のウリナラは勝利の栄光に溢れているニダ!」という青い鳥を探して歴史の狭間を彷徨う永遠の狩人なのさ。
あまりにも長い間そのような虚無空間を流浪していたので、何が真実で何が嘘かもわからなくなっているだけw>>628
それについてはこの本を読みなさい。
対馬藩が如何に苦労したか理解できるから。明征服失敗だし負けたってことなはず。しかし武威を誇ったという評価は江戸時代からさして変わってない気もする
韓国だと本当に秀吉軍に勝ったという評価なのか?
630
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