>>220
まあ史料としての価値(信憑性)はさておき、
・文禄・慶長の役を通じたひととおりの出来事を網羅
・日本のみならず、朝鮮・明の武将がたくさん登場
という点で、読み物としては面白いです。
あと小西行長と元均の戦いは、たぶん文禄の役の緒戦(上陸戦)を脚色したのではないかと。
実際は、元均は違う場所にいて、しかも戦わずして逃亡してるけどw>>221
陳璘が活躍した海戦ということで、露梁海戦の可能性が高いのだけど、
そこに加藤嘉明は参戦していないという話です。耳塚は慶長2年(1597年)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われた。
この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われた。
当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や
足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に
腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養し
その霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された。
画像は京都にある耳塚を見るオランダ人たち(中央の2人)
福岡にある耳塚は、神功皇后による三韓征伐の際に作られたとされる塚で、朝鮮征伐とは関係ない。>>229
残酷だな>>232
鼻の数で「吉川家18350、鍋島家5444、黒田家8187」という記録はあるみたい。
島津家の記録はちょっと見つけられなかった。>>232
ああ見つけた。島津義弘が建てた耳塚が伝えるところで、37000らしい。
島津家の戦果記録が38000+αなので、ほぼ一致する。
ちなみに80000は明側の主張。動員兵数より多いし、どう考えても誇張。>>229
『賊』の耳と書かれてるところが面白いね。
豊臣勢は自分たちが侵略軍にも関わらず、明軍や朝鮮軍を『賊』と呼んでるよ。
漢字の『取』は 耳+右手(又は右手を表している) で構成されている。
勿論、耳とは敵の耳。
ところで秀吉が『日本に送ってこい』と命じたのは耳ではなく『鼻』。
『鼻』では耳を切り取るよりも更に残虐に感じられるので後世に書かれた本では『耳』となっている。朝鮮側では倭人の首を獲ってきた者には科挙の合格資格を与えたそうだ。『斬首及第』制度。
当然ながら、倭人を仕留めるのは難しいので朝鮮人同士で殺し合う『偽首』が横行したという。朝鮮軍陣図屏風(一部拡大)
文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて行われた文禄・慶長の役のうち、慶長2年の蔚山城攻防戦を描いた屏風。
蔚山城は日本軍が築いた倭城のうち最も東部に位置するもので、日本軍の最前線基地の役割を担っていた。
第一図の蔚山城籠城図は、籠城する日本軍を明・朝鮮連合軍が包囲する場面。
第二図は、鍋島直茂らの援軍が到着し、明・朝鮮連合軍と対峙する場面。第二図と一双をなす第三図は戦闘場面を描く。
原本は鍋島直茂が従軍した絵師に描かせたと言われるが、これが明治7年(1874)の佐賀の乱で焼失したため、他家所蔵の写を明治19年に肥後の絵師大久保雪堂に依頼して制作したのが本図である。>>247
解説ありがとうございます m( _ _ )m
加藤清正 朝鮮での虎退治>>107
韓流時代劇は、韓国のスタッフが日本史を知らないので、時代考証がでたらめすぎます。
『壬辰倭乱1592』も、桃山時代の書院造りの建物に誤りが多く(韓国人は床の間すら知らない
など、日本の建築への知識がなさすぎます)、日本の武将の服装も不正確です。
NHK大河ドラマ『真田丸』が時代考証を頑張っていて、建物や服装などかなり正確なのと
くらべれば、韓流時代劇は稚拙さが目につきます。https://www.google.co.jp/search?q=%E5%8D%B3%E8%BA%AB%E4%BB%8F&hl=ja&gbv=2&prmd=ivns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwj556241Z7QAhVIoJQKHQm9B1AQsAQIPQ
黒田長政公。地元でも何でもないけれど。
外様大名ながらも徳川の優勢にもしたたかに生き残り、戦乱の世を生き抜いた・・。
現代では小泉純一郎、新次郎親子に、黒田如水、長政親子が似ている気がするのは僕だけかな?ww
歴代日本の首相でも割合、長く執政し、現役を引退してもなお影響力を駆使。
息子の新次郎にも薫陶を与えて采配しているのは「黒田官兵衛」にも似ているのでは?ww
・・というのは褒めすぎかなwwhttp://senjp.com/naga/
・・黒田長政公。別に僕は福岡県出身じゃないですけどね・・ww。
でも、もう徳川主流の戦国後期を乗り切ったしたたかさは凄い。
・・なんだか最近の小泉純一郎元首相と息子の進次郎さんが黒田如水と長政親子みたいで面白いww
「・・時代は取り合えず安部さんに傾く・・かな?。・・しかし、近寄り過ぎるのは禁物だ!
・・お前は適当に距離をとって存在感を高めおく方が良い・・どう転ぶか解らんからなww」
「如水」に似た「策謀家」の親父を持った息子としてはやりにくいかもしれないですが・・
・・さて、どうなるか・・楽しみですww日本人が壬辰倭乱などと書いてる異常さ。
임진왜란후 조선이 여진족을 관리를 못하면서 여진족이 뭉치는 바람에
병자호란이 일어나고 청나라가 건국
임진왜란때 고니시 유키나와 소서행장한테 패한 신립장군은 북방의 맹주였다
여진족이 조선에 난을 일으킨 니탕개의 난때 여진족 3만명이 공격을 해왔는데
이걸 제대로 막은게 신립의 기마병들 그후 니탕개의 난을 평정하고
북쪽을 평화롭게 만들었지만 얼마후 임진왜란이 일어나고 왕가에서 급히불렀다
자신의 기마병의 일부인 500명 기마병을 이끌고 서울로 왔을땐 이미 소서행장은
경상도를 넘어 충청도 방면으로 진출할 시점였고 신립은 급히 500기의 기마병을 이끌고
내려가 충청도 부근에서 징병한 군사 1만5천명을 더해서 막을려고 했지만
난공불락의 충주성을 버리고 강을 등진 절벽에서 싸운 이유는
니탕개의 난으로 조선의 군사 동원체계가 바꼈는데 그것은 과거에 실시하던 성위주의
방어에서 중앙에서 고급 관리가 내려보내지면 지방에서 징병한 병사와 관리가 합쳐서
싸우는 제승방략이라는 체계에 모인 군졸였지만 대다수가 늙은이와 군사 훈련도 못해본
잡졸이라서 난공불락 충주성을 버리고 자신의 기마병을 활용할수 있고
사기저하에 의한 군사들의 탈출을 방지할수 있는 강을 등지는 병법 배수의 진을 치고
싸웠지만 처참하게 패배 신립은 절벽에서 강으로 자살하면서 마무리 되었다>>219
弱い相手と戦いました、万単位で討ちました、なんてつまらないじゃないですか(^_^;)
敵たるものは、将は名将、兵は装備が充実し、士気も練度も高くあってもらいたい、と思うのは、首狩族の異常な考えでしょうか……手ごわい敵に直面し、数で勝っていたにもかかわらず、明王朝は日本の侵略を撃退し、朝鮮に対する支配を維持することができました。
この業績は、明王朝の戦略的な計画、強力なリーダーシップ、および兵士のコミットメントに起因しています。
明王朝の数年間の日本の侵略に耐える能力は、彼らの主権を守り、国民の安全を確保するという彼らの決意を示しました。>>5
島津義弘は兄の島津義久や弟たちの島津歳久と島津家久や家臣団などと一致団結して領土と勢力圏などを拡大していたみたいです。
しかし、豊臣軍20万人には流石に敵わなかったみたいで降伏しましたけど、文禄・慶長の役での少数精鋭による孤軍奮闘振りや関ヶ原の戦いでの前進退却などでその武勇を生かんなく発揮した猛将と呼ぶに相応しい武将なのです!
島津四兄弟はpixiv百科事典でリアルチートと記載されているみたいですけど、三本の弓矢や謀などで有名な毛利元就の息子達である毛利三兄弟や豊臣秀吉や徳川四天王や水野勝成などもリアルチートの分類に入るみたいです!>>1
島津四兄弟は大友氏や伊東氏や鍋島氏や龍造寺氏などと戦って、九州では負け知らずでしたけど、流石に豊臣秀吉には負けました。
しかし、文禄・慶長の役による獅子奮迅の働き振りや関ヶ原の戦いでの島津の退き口などは現在でも語り草に成っているみたいです😁
島津四兄弟に相応しい言葉は文武両道、知勇兼備、完全無欠、全知全能と云う言葉が似合っていると言っても過言ではないみたいです!
完璧な人間は居ませんけど、完璧に近い存在だったのが島津四兄弟と言えるみたいです😂朝鮮で李舜臣の次に評価されるのは誰かね
韓国は粘着民族ですね、元寇の将軍は?
>>258
【明軍にとって日本軍との戦いは、他の戦いよりも膨大に軍費がかかった】
「寧夏用兵(哱拝の乱)、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役(楊応龍の乱)二百余万」(『明史』王徳完伝)
「寧夏用兵(哱拝の乱),費帑金二百余萬。其冬。朝鮮用兵,首尾八年,費帑金七百余萬。二十七年,播州用兵(楊応龍の乱),又費帑金二三百萬」(『明史』陳増伝)
【明軍&朝鮮軍は、日本との戦いに勝算はなくて、秀吉が死んだ事で戦いは終わったという評価】
「自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息」(『明史・朝鮮伝』)
下等生物は漢字が読めない
よって、自国の歴史書も読めない
さらに、清国が明について秀吉軍との交戦の客観的評価を書き残した歴史書も読めない。
だから妄想をして、歴史を捏造し、改竄する。
それが原始人の韓国人임진왜란 당시 현지인들의 조선군 평가ㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋ
https://www.ilbe.com/view/11437364568>>226
中国は日本刀を欲しがったが、属国の亀甲船はどうだったのかな?>>1
戦国武将は様々な戦法を使って乱世を生き抜きましたけど島津四兄弟の戦法は座禅撃ちや釣り野伏せなどで豊臣秀吉は兵糧攻めや水攻めで徳川家康は魚鱗の陣で伊達政宗は騎馬鉄砲隊で真田幸村は影武者複数使用で織田信長は三段撃ちで上杉謙信は車懸りの陣と啄木鳥戦法でライバルの武田信玄は鶴翼の陣などを使って領土と勢力圏などを拡大したみたいです😁
島津四兄弟は豊臣秀吉には流石に負けましたけど、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いでの孤軍奮闘振りや前進退却などは凄くて正に試合に負けて勝負に勝ったと言っても過言ではないです✨
日本の戦国武将や剣豪や豪商や幕末志士などは中華三国時代の武将や豪傑達や欧米諸国の王侯貴族や騎士や軍人や実業家や起業家や投資家などに勝る共、劣らないと断言出来ます😂
凄いぞ!日本🇯🇵
壬辰倭乱(秀吉太閤殿下の朝鮮出兵)時の武将について語り合おう!
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