昔は日本の江戸時代の身分制度を
士農工商って教えてたんだけど、
今は教えてないんだってね。
士農工商って誰が言い出したんだ?
まさか朝鮮半島の身分制度を持ってきてたりしないよね?
士農工商
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86
士農工商(しのうこうしょう)とは、儒教において社会の主要な構成要素
(官吏・農民・職人・商人)を指す概念である。「四民」ともいう。
日本では、近代になり江戸時代の身分制度を意味すると捉えられるようになったが、
1990年代頃から実証的研究が進み、同時代的に現実に施行された制度ではないと理解されるようになった。
豊臣秀吉(羽柴秀吉)は農民だったし、
新選組も農民や町民の出身者が多かったし、
江戸時代後期には株を買えば武士になれたしね。
江戸時代の身分制度である「士農工商」の序列は嘘だった!?
http://www.edojidai.info/mibunnseido.html>>15
世界中の警察官と一緒なのにな。
治安を乱したり、犯罪を犯した犯人を射さつするのと同じ。江戸時代がひどい時代というのは、明治政府の政策かな
開明的な明治をアピールするのに、身分制の打破は象徴的で効果的
時代がたって、真実が広まるのも良いことだと思う>>18
サヨクの階級闘争観が原因だろ。カムイ伝みたいなサヨク史観のせいだね
元極左が反日日本人の左翼脳について語る
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2011/12/post-66b3.html
日本の左翼が反日なのは、まず国家観にあると思います。
左翼は、国家は支配者階級による統治機構であり、その本質は暴力装置と考えます。
国家は、支配的な一階級が、自己の利害を全社会に押しつけ、自らの支配のための「秩序」を防衛し、かくして政治的支配をおしひろげるための機構である。
つまり今の国家は、資本家階級が者階級を搾取するための道具と言うわけです。
そして警察や軍隊は被支配者階級を抑圧するための暴力装置です。
程度の差はあれ、左翼の国家観はこういうものではないですか。
日本の左翼が反日である理由のもう一つは国家の転覆が目的だからです。
社民党や新社会党のルーツである日本社会党左派に大きな影響力を有していた向坂逸郎(元九州帝大
教授)の持論は「戦争や恐慌がなければ革命は出来ない」というものでした。
つまり国民が困窮し国家が混乱するほうが革命のためには良いことだ、これが左翼の本音です。
韓国に行き慰安婦とともに日本大使館に押し掛けるのも、南京大屠殺祈念館に資金援助するのも、中国に出かけて日本の首相の靖国参拝反対を煽るのも、
現体制を弱体化させ、中国(中共)にひれ伏すためのプロパガンダです。- 22名無し2019/02/09(Sat) 08:16:58(1/1)
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そうか、韓国では江戸日本の身分は固定されてたと思われているのか。逆だよね。
江戸日本では庶民が武士になる場合があり、それまでの人間関係の中での身分逆転劇が起きたのだけど、李朝ではそういうように、それまで目下だったものが目上になる儒学上の不都合が起きないように、庶民の子が「士」になる例はなかったか、めったになかったと思う。農民の子の伊藤博文が武士の養子になって、結局初代韓国統監になるのも何か暗示的かもな。
ちなみに、士農工商の「士」は日本では当然「武士」と思い込んでいるけど、朱子学の意味としては直訳すると「科挙試験に合格した人か文人」のこと。だからこの思想を輸入した当初は「士」は当然に武士という訳ではなかった。
儒学者はその後、色々細かく決めたのだろうけど、明治維新まで実生活上は士農工商という言葉を使ったとしても「武士を頂点とするその他の民衆」程度の意味と思ってそんなに間違いではないと思う。
中国もそうだけど、武器を持つこと自体が下賤の人間のすることなので、日本で武士が「士」身分であること自体、儒学的には違和感があるのだよね。日露戦争で従軍記者だった岡本綺堂の話だけど、軍人だと思って相手にしなかったのに、綺堂が文字を書いたのを見た途端、中国の上流階級の人の対応ががらりと良くなった話がある(「苦力とシナ兵」)。
切り捨て御免とか辻斬りとか、武人だからどうせ無頼の無教養な野蛮人だという、儒教的な先入観があるのかもしれないな。中国朝鮮では武人というのはそういう蔑視の対象だったらしい。
やっぱ日本は中華文明圏ではないな。>>1
もともとは儒教・朱子学からだったと記憶してます。
ちなみに士は官僚の意味。
日本に入ってきたときに武士に意味が変わった。というか、官僚が武士だったから。>>14
これは想像だけど恐らく江戸時代の士農工商の世界は
今とそんなに変わらなかったんじゃないかと思う。
確かに封建社会であったからいろいろ有ったとは思うけど
警察官って市役所に勤める国家公務員と警察官が合わさった様なもので
今のサラリーマンの様に務めを果たしていただけの様な気がする。
刀を帯刀していれば武士というわけではなくて
実際町の剣術場には農民の子や
商売人の子もいたわけで
変な話だけど剣術が上手いかどうかでいったら
剣術場にいる農民や商売人の子の方が上手かったとかそんな事は普通にあるんじゃないのかな?
だから武士と言うのは今で言うと「宮仕え」の意味であって
平民より公務員の方が偉いと言うわけはないんだから
その程度の区別だった様に思うな。>>25
そうだったな。士農工商の序列に関する説明には最初から無理があった。
俺の時代での学校教育では、士は別格、農は税を納めるため工商よりも
高い身分とされてきたと教わったが、実際の農民生活に身分の高さなど感じられない。
誰が提唱したかも不明。貨幣経済の無い朝鮮で『商』と言われてもw
職人文化の無い朝鮮で『工』と言われてもw「士農工商」ってのは明治政府が倒した江戸幕府を下げる、貶める為だけの明治時代の造語だからね。
明治政府の薩摩、長州の武士階級が彼らの学問であった朱子学/儒教の「士大夫」って中国の階級(科挙官僚・地主・文人を兼ねるもの、日本だと豪族的なの)をベースしたりして作った造語
江戸時代、「武士」階級は他の階級から独立した階級だった(※)けど、農工商は混とんとしてた、農村は田畑が細分化されるのを防ぐ為に、法制上も嫡子ひとりの相続が奨励されてたから、次男以降は町に出て工商になった。
たとえば、江戸で多勢を占めてた近江商人も地元である近江の農民の子供を雇っていた。(丁稚から手代、番頭となって行く)
※ 江戸末期にはかなり・・・
例えば、勝海舟一族の出自は武士階級ではない。
米山検校(越後国刈羽郡長島村字平沢出身の盲人、金貸し、大名貸しまでにもなた)<---子に御家人株を買う(養子に入れ、相手先の当主を即座に隠居させる方法)
子・御家人から旗本になる、孫・勝小吉、ひ孫:勝海舟
又いとこには男谷精一郎(信友、幕末の剣術家、幕臣)もいる>>1
士農工商の序列は元々孟子の唱えた国家を形成する上での重要度で、国の枠組みを越えて活動する商人よりも国の運営をする臣と領土に根ざしていて国家を形成する民の重要度が高いと言う話
幕府=武家政権と言う概念は幕末に国学者によって作られたもので幕府を宣言した政権は存在しなかったり、学校で教えていた概念の多くが近代に作られたもので、後世に作られたり、制度を表している訳ではないざっくりとした概念を勝手に解釈して、間違って教えていたものも多いよ
征夷大将軍だけが幕府を開けると教わった人にとっては、鎌倉幕府1192年成立が1185年に変わったのは意味不明だよね【士農工商】上から順番に社会的地位と思わせたのは一部の奴らだろうね。
同じように【松竹梅】も、決してランクを表すものではない。
>>30
とても勉強になります。むしろ史実があって、絶対的な身分でなかったと解釈しないと、
豊臣秀吉も、宮本武蔵も、勝海舟も、坂本龍馬も、侍じゃなかったことになる。
まあかなり地域差はあったんでしょうけどね。>>23
日本社会だと、支配・覇権って言葉が合わないんだよね。
天下布武・天下統一はあくまで社会の規律を作る統治の意味合い。
【武】って文字の解釈が、戦いを止めるという意味だそうだ。
とくに「七徳の武」という古代中国の古典『春秋左氏伝』に
「武の七つの目的を備えた者が天下を治めるにふさわしい」
とあり、その7つの目的が、以下のようになる。
①暴を禁じる。(暴力を禁じる)
②戦を止める
③大を保つ(大国を保つ?)
④功を定める(功績を成し遂げる)
⑤民を安んじる(民を安心させる)
⑥衆を和す(大衆を仲良くさせる)
⑦財を豊かにする(経済を豊かにする)
古代中国は…思想家たちによる良い理想論を残したけど、
結果、覇権を握ったものが牛耳る国になってしまったようね。- 34名無し2019/02/09(Sat) 10:22:41(1/4)
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- 36名無し2019/02/09(Sat) 10:40:29(2/4)
このレスは削除されています
時代背景的に、戦国期と世の中が安定した江戸時代とは分けて考えた方がいいと思うけど。
江戸時代に知られた儒学者が出てきたのは、3代家光以降だから、士農工商もそのころから広まったって思ったのがいいと思う。(家康自身も、必要なくなった余った武士の浪人対策で苦労してる)
浪人は戦国時代の生き残りだから、強いし野心もある。
治安も悪くなったし、傾奇者といわれる者達も沢山いたし。
士農工商の考え方は、儒教朱子学から取り入れたのは間違いないと思うけど、これから平和な世の中にしていくための、日本に合わせた士農工商であったと思う。
士官できてるのが武士であり、帰農してほしいがために2番めに農民、農民が向いてない人の為に工匠、それを支えてほしい商人って思ってたけど。
現代の考え方ではなく、その時代を安定させる為の士農工商だったと考えます。帰農はもっと後の時代(江戸時代の中期以降、飢饉、浅間山の噴火、東北での冷害などで都市部に農民が流れ込んだ後)
戦国時代、もっとも苦労したのは浄土真宗の石山本願寺対策、元々は安堵を求めて寺に領地を差し出して、重い「課税」を逃れたのが膨れ上がって行った。
能登半島(加賀百万石、越前越後)は加賀百万石の前は浄土真宗・宗徒による「百姓百万石」だった(柴田勝家が討伐)、徳川家も三河時代には家臣、農民の中に浄土真宗の信徒が凄く多く、その反乱的な行動に悩まされてる。それぐらいに浄土真宗の浸透、影響が大きかった。
徳川家康の江戸入り(小田原城攻めに狩りだされたまま、江戸・関東への転封が秀頼から出された)に合わせて、秀吉は士農の分離令も出した。一番の目的は徳川 家康を領地の三河、静岡の豪族、郷士から引きはがす為。
武士になった者は武士のまま、百姓には帰れない=三河の領地に帰れない
それまでは、家臣団(織田信長の親衛隊など)を除いて、当時は「契約」、自分の領地を持ってる豪族が更に上位の豪族と契約して一族が戦闘集団として参戦、対価は領地の安堵。(なので、下克上って言われてるのもちょっと違う)
秀吉の士農の分離令により、地方豪族(郷士、秀吉の命の時には一族の長子が残っていた)は武士階級とは隔離され、百姓として固定された。
(百姓は蔑称じゃあないよ)
江戸時代初期、新たな領地を貰った武家は領地の支配、管理の為に元々住んでいて、自分の領地を支配してた地方豪族を使った。 「庄屋」に指名して、苗字、帯刀を許した。(武士としての印の槍はダメよ)
そんな感じ。- 39名無し2019/02/09(Sat) 11:53:29(3/4)
これは専門家(誰か忘れ)が言っていたが、
いわば江戸時代の職業区分の「イエローページ」みたいなもんだったらしい。ただの区分であって、決して序列ではない。
武家屋敷街と町人街といった住居や土地区分ね。
それも双方、横行可能だったし、序列ではないわなw- 41名無し2019/02/09(Sat) 12:08:15(4/4)
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>>39
米本位制で行政が石高基準だったからね。
農民が農地を持たない人を「信用できない人」のように見るのは、欧州のユダヤ差別でもそうだが人間の土俗感情に根ざすものではないかな。個人的には、藤沢周平の海坂藩シリーズの描写が下級武士の実態だったんだろうと思っている
あれなら現代の役人やサラリーマンと変わらないじゃん
米や麦は作らなくとも、葉物の家庭菜園とかやってたんだろうね農村の3男4男は都市の商家や大工や寺に奉公に出されてさ
普通に商人になったり大工になったり坊主になったりしてたしな
武家以外はかなり自由だったのが江戸時代だろ>>44
戦国時代は、天下は回り物っていう考え方があったんよ。
時の実力者が天下を取るべきって考え方。
信長、秀吉、家康の流れは、必然だったと考えてる。>>46
地方の藩だとそうでもないんよ。
ヘタは住民の移動の見張りをしてて、藩に報告義務があったりしてる。
勝手に移動はできないけど、口減らしの意味で、正式に奉公にいったりしてた。>>48
身分の統制ではない[編集]
かつては、「侍」を武士一般とする解釈から武士が百姓や町人になることや無断で主君を変えることを禁じた江戸時代の身分制度(いわゆる「士農工商」)の基礎となった法令と位置づけられて、歴史教科書にもそうした観点からの記載がされてきた。だが、近年の研究によって戦時中(=文禄・慶長の役)を理由として出された武家奉公人の身分統制を目的とした法令であって士農工商などの社会全般に対する身分統制との関連性はなく、むしろ江戸時代の奉公人制度に関する法令の先がけとしての再評価がなされたことにより、この法令を「士農工商の身分を固定する」法令とする解説は誤りであるとされるようになった[1]。・・・ウィキより
俺も、朝鮮出兵の準備の為だったって思ってる。>>51
そうですね。
今では時代劇でも使われない死語のサンピンw(ドサンピン含む)
なんとなく意味はわかってたけど、ちょっと調べたら、ピンって麻雀のピンズと同じだったんだ。(へーへーへー)>>51
いや・・・意味が違う アルバイトではない、 貧乏を皮肉った蔑称である。
(ただし、100俵3人扶持の方がもっと貧乏、外出の際は3人を伴うのが必要な身分だから)
サンピン(3両一人扶持)士分として最下位って意味。 アルバイトでは無い
御家人は俸給(給料として米を貰う、札差に市中で売って貰いカネに替える)で、
旗本は領地を与えられるってのが基本。
なのでは百俵5人扶持とかもある(領地だと 300石ぐらい相当 領主:百姓=4:6の取り分として)
これ以下は中間(農民でもなれるけど、雇用されてる時は武家扱い、罰則も武家扱い)、若党(年齢を意味しない、士分ではない家士、つまり、屋敷内の雑用をする)、この内、サンピンでも1人は登城する時には必ず必要(下馬門の外までは連れて行く必要がある)
サンピン(3両一人扶持)は外に連れて歩く為の家士を雇うための扶持が支払われてるって意味。
(家士を雇うために1石=5俵=60㎏*5ぐらいのモミ米を給料として支払われる)、
臨時雇いもできる、農民でのなれる中間などは給金2両とかで、扶持はつかない。>>16
朝鮮の下げネタなのかもね
着物の下に下着はかないのはいつでもできるからとかのネタも>>4
いや、明確に法制化はされていなかったけど実際身分の差はあったよ。
これは御家人と農民に差とか家柄とかの差がなかったとかそういう話じゃない。
士農工商という言葉が出てくる資料では老若男女程度の意味でしか
使っていないし、身分制度として捉えるのは違うという話。>>53
臨時雇いはあったよ。
旗本・御家人は、家格で最低限揃える人数を常時抱えることが困難になって、知行地などから臨時雇いで侍の格好をさせて登城の人数にした。実際は知行地だけではなく、江戸の口入やの様なところから雇ったんだろ。
大名行列でも人数を揃える為に臨時雇いがあっただろ。
○旗本と御家人の家来
10両あれば一般家庭が暮らせる時代だけに何百石、何千石という家禄があれば家族だけで暮らしていくには充分な収入である。例えば、幕府の基準に基づき俸禄を計算すれば千石の旗本は米にして350石、金額換算で350両の収入が毎年得られるためかなりの高収入である。
しかし、幕府から俸禄をもらう代償として合戦時には家禄に応じて定められた人数を率いて出陣する義務である軍役がある。低禄の家でも家来を連れずに公式の外出(登城、他家を訪問するなど)をすることは許されないため、家格相応の人数の家来を召し抱えた。
外出や登城の供の人数は家格によって上限が定められている。上限以下の人数でも罰せられないが、自家の家格が低く見られることを嫌い財政難でも臨時の者を雇ってでも人数を揃えた。そのため、庶民に比べると収入はかなり多いが、人件費がかさみ支出も多い。家来の衣装、食事、住居費も主持ちである。
○旗本と御家人の家来の人数
作中の七巻決闘・高田の馬場で小兵衛の門人だった吉村弥惣治が仕える高木家8千石を例に考えると騎乗の武士である騎士、騎乗しない武士である徒士、足軽という戦闘要員から槍持ち、草履持ち、荷駄係など合戦時の雑用を務める中間などを含めて171人を動員する義務がある。
もっとも、軍役通りの人数を俸禄のみで常時雇うことは財政的に難しいため、非戦闘員である中間は合戦時には知行地から人数を揃えた。
8千石の場合は外出時の供の数は侍の上限は10名、武家奉公人も含めると30名以上という大行列である。屋敷内にいる家来と奉公人は100名を超える。また、主の外出時には供を務める者は、平時は屋敷内の他の役職を兼任していることが多い。身分制度としての士農工商がなかったのは、いまさら明らかだからな。
せいぜい「いろんな仕事の人たち」くらいの意味しかない。
ただ、家ごとに職業はおおむね固定化されてたから上下はないにしても身分ということは可能かもしれない。>>58
そりゃそうだろ、武家と町民、農民は違うよ
当たり前のこと言ってんじゃねーw>>59
ところがだ、自分の地元のお殿様は、毛利の領地替えについていっちゃたんだよな。
3~4万石の領地を源平合戦後から持ってたのに。
大久保佐渡守長安に本領安堵もらってたのに、それでもついていってしまったww
のちに、毛利家の財政改革をおこなって、毛利家永代家老になりましたとさ。>>39
そうかなあ、生かさず殺さずはむしろ武士じゃね
幕府はとにかく武家を潰す口実探しまくってるし
取り潰されないように窮屈な暮らししてたのは
武士のほうだよ訂正:石見守でした
身分制度であれば、百姓や町人が臨時で武士になって竹光の二本差しなんておかしな話になる。近藤勇や土方歳三が勝手に侍の格好してるのだってアウトだろ。
武士たるものは釣り竿以外の荷物は持ってはならない。だから、「たそがれ清兵衛」みたいな貧乏侍も草履取りが必ずいる。武士たるものは農民からは尊敬される存在でなければならない。だから農民は武士に敬語を使うはず。とかそういうことでしょうね。蔑視があったから例えば敬語を強制したのではなく、当時の身分というのはそういう体面というか、体裁を作る約束事であって、現代の意味の差別の意味とは少し違うものだったということだろうね。
age
【日本の歴史】 士農工商って今は教えないだってね 【朝鮮半島モデル?】
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