自分は歴史オタクです。
主に戦国時代が好きですが、日本史は全般読んでは居ます。
世界史もキリスト教の歴史やイスラム教の歴史で世界が変わってきたため
新旧聖書やコーラン程度は読んで居ます。
日本史と世界史の垣根なんか無いと思っているので、当然お経や古事記も読んで居ます。
ある程度、韓国の古代史も知っています
そこで韓国人の方々に聞きたい
一般の韓国人はどの程度歴史に詳しいのですか?
上下雷同で、上が言う歴史をそのまま信じている状態でしょうか?
上下雷同:意味
自分にしっかりした考えや見識が無く、目上や他人の主張を鵜呑みにする事
日本人は結構、民間人も自分で1次文献や2次文献を調べて主張している人が多い印象を受ける
韓国人はどうですか?ついでだから書いておくと
中国人、つまり漢人なんですが
この始まりは黄帝であると言われています。
漢人の祖は黄帝
でも、その黄帝というのはきょう族
羌族と書かれています。異民族です。>>108
そういう事だと思います。韓国人
伊藤博文と安重根に関する意見は無いんでしょうか?
あなた方の英雄であった人だと思いますが個人的な思いを書いて置きます
俺は、過去の韓国人は立派であったと思う。
有色人種を食い物にする白人に対して
日本人と一緒に戦った、偉い人たちだ
その韓国人たちは、靖国神社に祭られている
私は、あなた方の分まで、靖国に祭られている、韓国の英雄のために毎年お参りをしている日本のネトウヨにも言いたい
事実を受け入れるべきだ
日本はアジアの解放と言いながら
フランス領インドシナを一緒に運営して、経済的・地理的な利益を教授していた
この事実は認めなきゃ話にならない日本の右翼団体も
この点は不合理であると認めなければならない
極端な「日本正義論者」はこの点を言うと非常に怒る
しかし、それでは公平ではない
歴史は、善悪なんかまったく関係無い
生きるか、死ぬかの争いだけだ日本の右派からの質問も受け付けます
韓国人からの質問も受け付けます
歴史は、感情無しで冷静に見る必要があるさらにこれも書いて置く
日本の左派は
「韓国人はみんな親切だ。反日は一部だけだ」
私は思う
「それならば、何故反日的な人しか大統領になれないんだ?民主主義で国民投票で決めるのだよな?」そのため
我々は気が付いている
「韓国はすべて反日だ」喋ってて良いですか?
日本の愛国者に言いたい
大東亜戦争は、純粋な慈善活動ではないですよ
ちゃんと理解した上で
反日朝鮮にあれこれ言いましょう
俺も一緒に言う絶対悪なんてこの世に存在しない
tvの中だけだ
当然に、絶対善なんか存在しない
まずここが基本
善悪で考えたらいけない韓国人
ちょっと出てきなさい出てこないなら
私は日露戦争でもコピペしよう
以前自分が書いたものだ明治日本見聞録-エセルハワード-十四章・日露戦争 (1)
私が最初日本に着た時、兵卒の制服を見て驚いたものだ。
それはとてもだらしなく見え、軍隊式のきりっとしたところが欠けていた。
彼らが招集される事になった時、こんなだらしなさが勤務にまで影響するのではないかと心配したものだが
それは戦争が起こって日本軍人の完全かつ機敏なる事が証明される事になるであろうとは全く思い及ばなかったからである。
さて、いよいよ戦争勃発の時がきた、
しばらくの間、遠いところで戦争の危機が迫りつつあるのを感じてはいたが、ある晩それが始まったことを穏やかに告げられた時、私はたいへんびっくりした。
日本では重要なニュースは号外によって報道される事になっており、新聞を抱えた売り子はひっきりなしに鈴を鳴らしながら往来を駆け回るので、それを聞きつけた熱心な読者はすぐに家を飛び出して買い求めるのである。
戦争が始まってからそれが終わるまで、号外の鈴はいつも鳴り続けていた気がする。
次に思い出すのは(略)急に馬車が止められて数人の兵隊が教練を受けているのを待たされた事であった。
それは十名足らずの小人数だった。恐らく通りから外れているので教練の場所として選ばれたのであろう。
毎日のように方々の路上で、一生懸命教練をしているこのような分隊をみかけた。
市電の激しく往来している通りで、彼らは調教をするので、通行人にとってはこの上なく危険なやり方だったが、どんな場合でも状況に合わせて自由に馬を乗り越せない騎手を見た事がなかった。
次いで印象に残っているのは、宮家の姫君たちや貴族の令嬢たちの生活に大きな変化があった事である。
公爵の姉妹たちも例外ではなかった。彼女たちは馬車の使用をやめ、もっぱら人力車だけに乗る事になったが、これは前例のない事だった。
何故なら、それまでは人力車は学校へ通う子供たちか、家職の者が使う事に限られていたからである。
姫君は、早朝連隊本部へ行くために、実際に次女さえ連れずに電車に乗って出かけた。
負傷者の汚れた包帯を何度も洗ったり、それを消毒したりする仕事をしたが、彼女の美しい繊細な手を見て、今まで彼女達がかけ離れた何一つした事も無いような生活を送って着た事を知った者にとって、それは驚くべき事だった。私としても当然、子供たちに戦争の事を身近に感じさせるべきだと痛切に思っていたのだが、私のこの考えに、家職の人も協力を惜しまなかった。
馬車は廃止され、食事の内容も変えられて、プディングや贅沢な食べ物は出さない事になった。
島津家では私の意見を喜んで同意してくれたが、家職の中には物の考え方が狭く、行き過ぎる者が居て、子供たちは最早上等のサージの制服を着るべきではなく、粗い厚い布地を作るべきだと提案したが、私はそれを断った。(略)
負傷兵の行列の他に戦死者の葬列がほとんど毎日のように通った。(略)
一番記憶に残っているのは、五月のある日曜日の午後に「初瀬」と「八州」の両艦の士官と水兵の葬列が通った時の事だった。
日本の最高の英雄の一人である広瀬武夫中佐(坂の上の雲に出てました、確か軍神として靖国に祭られた初めての人じゃかなかったかなと)の葬儀が行われたが、彼は旅順港で、自分が指揮をしていた貨物船福井丸を爆破して港を封鎖しようとしたのだった。
彼の名誉ある戦死は、多くの日本の青年に影響を与えた。
何故なら、彼は日本人の習慣に反して、茶屋遊びやそれに類した事を一切しない生活を守り、それらをひどく蔑視していたからである。
彼の一身を捨てた勇敢な行為が伝えられて以来、彼の同級生や他の生徒たちは、知らず知らずに彼の考えに影響されたのであった。
この葬儀の際に、私は気付かずに日本の習慣を破って弔問者の感情を傷付けてしまうという不運な出来事があった。
偉大な英雄の葬列がちょうど通り過ぎるところだと聞いて、私は下の子供たちを二階に呼んで窓のところに気を付けの姿勢で立って葬儀を見るように言いながら、広瀬中佐がどんなに勇敢な人だったかを話して聞かせた。
翌日になって家職の一人から、海軍大臣山本権兵衛男爵が通りがかりに見上げて、子供たちが窓のところに立っているところを見つけて烈火のごとく怒ったという話を聞いた。
日本では、死者を見下ろすのは大変不敬な事とされていたのであった。
私が意図した本当の目的は、子供たちに敬意を表させる事であって、それが侮辱と言われたのは大変悲しいことだと私は言った。
しかし、大臣は、私がすぐに書いたお詫びの手紙に親切物わかりのよい返事をくれた。西洋と東洋ではこのように習慣が正反対なので誤解が生じやすい。
このことに関連して私が思い出すのは、東京で新橋駅から汽車に乗る時、出征する陸軍や海軍の兵士たちが親戚や友人との別れの挨拶を交わす様子を見て「なんて冷淡なのだろう」と驚く事が多かったからである。
ある日、私が一等車に乗り込んだ時、そこで一人の海軍士官が妻と子に別れを告げているところだった。
美しい小柄な妻が、夫によそよそしくお辞儀をするのを見て、なんて変わっているのだろうと思った。
汽車の窓を見上げた彼女の顔は、青白いほどの白さで、最後のお別れに子供を持ち上げて父親の方に差し出した。
士官は赤ん坊の手を取って、小さな帽子の方に持ち上げ、お別れの敬礼をさせた。
私には、彼らの行動になんら感情の表れが感じられず、その別れ方には全く愛情が欠けているように思えた。
私の記憶では、何度かこういう光景を目にしたが、それは故国での自分の家族との別れと比較して大きな違いであった。
汽車がゆっくり動き始めると、その士官は妻と子に敬礼をして黙ったまま静かに立っていた。
我々の他には誰も車内に客がなく、彼は私の座っているところから一番遠い隅の座席に座った。
しばらくして彼の方へ視線を向けると、彼の顔が大理石のように青ざめているのがわかった。
彼は新聞紙を盾にして顔を隠すようにしていたが、私が目を背けようとしたとき、むせび泣くような声が聞こえ、後方に崩れ落ちるのが見えた。
私には、それが彼の純粋な悲しみの発露である事がよくわかったので、やむを得ず、何も見ず、何も知らなかった事にしてそのままじっと座っていたけども、彼が心配でたまらなかった。
有難い事に彼はおきあがり、すぐに姿勢を正したが、最早、その顔には悲しみの影すらもなかった。
しかし、これは私にとってひとつの教訓となった。
それは日本人の別れ方の典型であって、一見極めて冷淡に見える態度には、深い悲しみの産物に他ならないのである。次の私の経験は、大勢の水兵を我々の家に宿泊させることになったという通知が来た事だった。
いろいろな艦隊や連隊の人たちが田舎から前線に行くために東京を通る時、宿泊場所を提供するようどこの家も要請されていた。(略)
最初その通知を受け取った時、私は心が沈んだ。水兵たちは前線に行く前に、東京で休暇を楽しむために短い期間過ごすだけなので、少なからず秩序の乱れた人びとによって部屋が荒らされるのではないかと想像していたのである。
しかし、私にとっては再度の驚きであった。彼らの声も聞こえず、めったに姿も見えなかった。大部屋の戸を開けて中を覗かない限り、彼らが家にいるのかどうかもわからなかった。
彼ら一人一人のために寝具が配られているはずだったが、何も持ち込まれたり、持ち去られたりする事もなく、彼らが出発するまで面倒という面倒はほぼ起こらなかったので、彼らがどのようにして宿泊し食事をしたのかも私には全然わからなかった。(略)
戦争による被害は次第に激しくなり、我々すべてがなんとか援助したいという気持ちを強く持って居た。
我々の享受している日々の娯楽をできるだけ減らそうさらに努力し(略)私はさらに決心し、六か月分の給料を停止して赤十字に寄付をしてもらえるよう手紙を送った。
この願いは丁重に受け入れられたが、私の帰国の際に、公爵が私の名義で戦時国債を同額買っていた事を始めて知らされ、利息の他に立派な付け届けまで返してもらった。
私のささやかな寄付は、それほど感謝されていたのであった。
(略)
ある赤十字病院への訪問で非常に印象的だったのは、花に対する愛情が万人共通であるいう事だった。
戦争中に満州から送還された多くの兵士は、酷い凍傷にかかっていた。
これらの可哀想な人たちを収容した病棟に、ある夫人が花束を持って出かけた。兵隊たちがその花をどんなに喜んだか、決して忘れられないと彼女は言った。
同じ病院にある病棟で、彼女は死にかけている患者たちが収容されている部屋に案内された。
婦長は、彼女にしばらくその場に静かに立っているように言った。
「溜息も物音もひとつもしないでしょう、我が国の兵隊は、死ぬ時は英雄らしく死にたいのです。彼らは軍人が死ぬ時は静かに、溜息も漏らさず、物音も立てずに死ぬべきだと信じています。」
まさに、その通りだった。時が移るにつれ、日本人の克己的な自制心はますます目立つようになった。
社会のどの階級でも厳かな沈黙が完全に支配し、事態はますます緊張の度を加えた。
貴族やその他の人々からも慈善事業に多くに気前良い贈り物が寄付され、戦時国債への応募も広く盛んであった。
純金の食器類はるつぼで溶かされ、高価な家宝も売り立てに出された。どんな貴重な物も惜しげもなく出された。
ある日の午後、私のところに貴族の婦人が悲しい顔をしてやってきた。
二人で座って話していると、彼女は何もかも真っ暗に見えて、希望が無いとしか思えないというのだった。
私は彼女が帰った後で、誰か他の人にも事情を聴いてみたいと思った。
古くから友人である医師にこの話をすると、彼は開けっ広げな率直な態度で、事態は重大だとはっきり言った。
「しかし、今に変化が起こりますよ。まあ、見ておいでなさい。」と、彼は言った。
このことがあってから間もなく、確かにある偉大な出来事が起こって、それが疑いなく最後の勝利に結びついたのであった。それは天皇の勅語であり、国民の一人一人に呼びかけた不滅の言葉なのであった。
「これは不可能であったとしてもやり遂げねばならぬ。汝らにこそそれが期待されているのだ。」
その通り、これは絶対やり抜かねばならない。敗北は絶対にあってはならない。
公爵はこの訳文を黙ったまま私に手渡してくれたのをよく覚えている。
日本の人々はこれをほっと安堵して受け取ったようだった。
彼らは、これで勝利は完全に間違いないと言っていたし、実際にそうなったのである。
私は、この勅語を死ぬまで持って居るつもりだ。我々はこの言葉をよく考え、行動の手本とするべきなのである。
おわり日本人は韓国人と全く違うな
韓国人からの
伊藤博文に対する意見を待つ
何もないなら
よほど無能で馬鹿なやつらだな俺はコテハン付ける事にするわ
↓の人の意見のままにおっぱい野郎とかそういうので
韓国人の意見でも構わん
俺を名付けてくれおい、朝鮮ハゲども
なんで名付けないんだハゲこら
というわけで
「朝鮮ハゲ」朝鮮人、私に意見をしなさい
何もないというのは
私の見解が正しい証明だまだまだ書けるぞ
>>135
日本とフランスは南インドシナを共同統治していた
その目的は経済や地理的条件に他ならない
貴方は事実を知るべきだ
ただし、そこらの国を独立させたのも日本である異論は調べてから言ってもらえると有難いね
調べた上で
これはこうだった、ああだったというのなら受け付けるのも楽なんだがね
ネトウヨらしく
大東亜はすべてアジアの解放のためだったという
上下雷同を信じているのなら
朝鮮人と変わらんな>>139
その様に時代が動いたとしても朝鮮は蚊帳の外だね。>>100
>伊藤博文の主張はこうです。
>「併合はしなくて良い、日本並みに発展させればそれで良い。日本人と朝鮮人は違う、併合は無理である」
>伊藤はこのような演説をしていた事が近年はっきりした。
伊藤博文は、政治家
本音と建て前ぐらいあるだろう。
結論の出し方が短絡的
それに伊藤博文がどうであろうと、朝鮮の植民地化は日露戦争で勝った時点で確定的だろう。
ポーツマス条約前に、桂・タフト協定を結んでいる。
桂・タフト協定
米国は当時の大韓帝国(以下、韓国)における日本の支配権を確認し、日本は米国のフィリピンの支配権を確認した。
中国ロシアは日本に負けた。
イギリスは同盟国
アメリカも朝鮮の支配権を認めた。
もはや、日本が朝鮮を植民地にしようとも誰も異論は挟まない。
あとは、朝鮮の支配者を説得?するだけ>>100
朝鮮の植民地化の協定としては
・第一次日韓協約(明治三十七年九月)(1904年)財政顧問の招聘や外交案件の協議などを取り決め
・第二次日韓協約(明治三十八年十一月)(1905年)「統監」を京城に置き、韓国の外交を日本側が管理・指揮する
・第三次日韓協約(明治四十年七月)(1907年)韓国の内政権を統監が掌握することを取り決め
・「韓国併合に関する条約」(明治四十三年八月)(1910年)韓国皇帝が「韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与」(第一条)
このうち、伊藤博文が存命中に第三次日韓協約まで結んでいる。
併合方針の閣議決定(明治42年(1909年)7月6日)も伊藤博文の暗殺前
wiki 伊藤博文にも
『東京での演説でも伊藤は、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と併合を示唆し聴衆を驚かせたという。』
とあるね。
よって、伊藤博文の暗殺がなされなければ、朝鮮が併合されることがなかったとかは、間違い。コーランのような、ストーリーが無く、話の断片集とも言うべきものを読んだって、>>1 はスゴイと思う。私は挫折して、真ん中あたりはかなり飛ばして読んだ。
コーランに比べれば、フレイザーの金糸編をきっちり読む方がマシだし(けっこう拷問)、マヌの法典なんかは楽しいとさえ言える(基礎知識を付けてから読むなら結構楽しい)と思う。
で、韓国なのだが、学校で習うのは近代以降が大半と聞いている。
檀君神話のような最近(13世紀くらい)に創作されたものを、歴史として学ぶとも聞いている。
それが事実であるなら、韓国人は何も知らないに等しいと思う。
近代の知識にしても、それが根差す前の時代の知識が乏しく、その根幹は13世紀に書かれた「なろう系小説」に行きつくのだから。「歴史」と呼ぶには憚られる。むしろ「妄想」と呼称するべきだろうね。>>149
へ?
それは被害を受けてないだけじゃん
朝鮮人の戦犯は100人以上いるよ。>>149爆撃されてないから戦犯じゃない?戦争に加担しているから戦犯なんだよ間抜けが。
>>149
人間の思考回路から外れた考え方もあるのだね。朝鮮人らしくてよろしい。
続けたまえ。おバカ。>>138
国家が慈善で動くことはない。これはもう常識の範囲です。しかし、大東亜共栄圏という構想がいかに誇大であっとはいえ、開国以来日本が置かれてきた状況を考えれば、ごく自然な帰結ではあったのだと思います。そして何より重要なのはそれが結果論としてどうだったのかということ。あのとき日本が戦わなければ、世界は未だにどうなっていたのか。少なくとも、本当に何百年もの間侵略を繰り返していた者たちは、未だに裁かれることもなく、その罪すらも十分に糾弾されていません。
>>139
それが当時の日本としても最も理想的であったのだと思うし、事実蒋介石は日本に留学していた経験もあり、融和的でした。しかし、あの戦争で我々が本当は何と戦っていたのかをきちんと見据える必要があると思います。戦争の勝者は、蒋介石ではなく毛沢東でした。西安事件で本当は何が起こっていたのか。歴史的な支那人の挙動から類推する限り、その脅迫は並大抵のものではなかったのでしょう。朝鮮人て馬鹿ばかり。
国も旗も裁かれていない。
根本的に文明社会不適合民族なんだよ。>>149
頭が悪くて理解できない?
君達も参戦して被害を与えた側
攻撃されなかった?分断されただろw>>153
うん
高杉晋作は上海に留学してこんな事を言ってる
「大の大人の中国人が、5歳やそのころの白人の子供に「どけ」と言われ、ぺこぺこしながら道を譲っている」
高杉も危機感を感じてたんだよな
橋本佐内も
「国内を大改革して軍備を増強しなければ四方に迫る外来勢力から国を守る事はできないぞ」と言っていた
その後は、明治に山田美妙という作家が居たんだが
フィリピンは当時統治者がスペインからアメリカに切り替わって
「アメリカに逆らう者は10歳以上は皆殺し」という政策をしてた
そこでアギナルドというフィリピン人が独立のために戦ってたんだよね
山田美妙はアギナルドの存在を知って感銘を受け、彼の小説を作ってる
それを読んだ当時の日本人も、アギナルドに同情してがんばれという気持ちで小説を読んでいたようだ
さらに日本はアギナルドの元に武器弾薬を布引丸という船に乗せて運んでいるし
日本の士官を何人も送り込んでアギナルドの下で強力させている
続く大東亜戦争当時
大東亜共栄の理念を兵士にも教え込んでいたから
日本が敗戦してもその理想のためにアジア各地に残って現地の独立のために戦った日本兵は多かった
ベトナムに残った人はそこで軍事教官になって日本がアメリカにやったゲリラ戦術を教えたり
インドネシア独立のために日本兵が1000人近くインドネシアに居残ったのも有名だし
そのほかの地域にもだいぶ残ってた
だからね、そういう人たちの遺族が今でもアジア各国の独立記念日の式典に呼ばれてたりするんだよな>>149
高麗棒子って知らないの?
日本の歴史オタクが韓国人に質問をしたい
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