金玉均 ー- 朝鮮 「悲劇の英雄」
明治12年(1879年)頃の朝鮮半島は閔氏一族の政権があり、清国の従属して開化を進めていこうとする事大派と独立・近代化を主張する独立党がありました。独立党のモデルは日本の明治維新であり、日本の支援を期待していました。このリーダーが金玉均(キム・オッキュン)です。
明治15年(1882年)金玉均は日本にきて福澤諭吉の支援を受けています。
金は日本の議会や裁判所、学校、電信施設、練兵場、印刷所、建設会社などなどを見学し、福沢諭吉の邸宅を拠点にさまざまな人物と会い、意見交換をし、日本から多くのものを吸収しようとしていました。明治維新以降、日本は朝鮮を侵食していったかのごとく言う人が多々いますが、それは大ウソで、日本は朝鮮の「独立」を支持していたのです。
明治17年(1884年)清仏戦争で清国が敗退したとき、好機とみて金玉均は日本の竹添公使の協力を得てクーデーターを起こし、新政権を樹立します。甲申事変と言われるものです。彼は改革要領を発表し、清国を排除し、真の独立国家建設へ向けて始動します。国王・高宗(こうそう/コジュン)は暗黙のうちに金のクーデター計画を承諾していました。
ところが、高宗は裏切り清国の出兵に同意し、清国の袁世凱が1,300人の軍勢で王宮を攻撃します。もともとこのクーデターは清国とフランスが交戦中に実施する予定でしたが、清国が敗退してしまい、かえって清国は威信をかけて朝鮮半島を平定しに来たのです。金玉均は運がなかったといえます。日本軍の守備隊はわずか150人。数の上では1/10でも日本兵の練度は高く、激しく反撃し、互角以上に戦っていましたが、日本の竹添公使が弱気で、撤収を決め、仁川港から撤退しました。金玉均と朴泳孝(ぼく えいこう/パク・ヨンヒョ)たち独立党の指導者たちは一緒に日本に亡命。日本公使館は焼き討ちされ、夫人を含む多数の日本人が惨殺されました。
일본인은 왜 자신이 특별하다고 생각하는가?
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