日本書紀の朝鮮半島関連の記述をピックアップしてみましょう。
==百済とは仲良し==
【12】 神功皇后摂政紀50年5月条
百済の使いが来朝した。皇后はお喜びになって(伽耶の)多沙城(たさのさし)をお与えになった。
【13】 神功皇后摂政紀51年3月条
百済が朝貢してきた。皇后は「私が親しくする百済は天の賜物である。恩恵を与えよ」とおっしゃられた。
【14】 神功摂政紀51年即年条
百済に使いをお出しになられ、「百済とは深く長い友好を続けたい。」と伝えた。百済王と王子は忠誠を誓った。
==新羅(笑)==
【02】 垂仁紀2年是歳条
崇神(すうじん)天皇の65年に朝貢してきた任那の使いが国へ帰るというので、絹織物を持たせたら途中で新羅に奪われた。
【05】 仲哀紀8年9月条
天皇が熊襲(くまそ)征伐を計画されると、神が皇后にのりうつって「熊襲を討つな、新羅を討て。」との啓示があった。
【08】 神功皇后摂政紀5年3月条
新羅王の朝貢の使いがきた。本当は、以前に人質として差し出した(王子の)微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を取り返すのが目的であった。皇后を騙して王子を新羅に逃れさせた。新羅の使いは殺された。
【10】 神功皇后摂政紀47年4月条
百済と新羅が同時に朝貢してきた。新羅の貢物は多く、百済の貢物は少なかったのでわけを聞くと、日本に来る途中で百済の貢物を新羅が奪ったという。皇后と誉田別尊(ほんたわけのみこと=即位する前の応神天皇)は使いをお出しになって新羅を責めた。
【18】 神功皇后摂政紀62年即年条
新羅が朝貢しないので将軍・襲津彦(そつびこ)を遣わして新羅を討たせた。
【39】 仁徳紀53年5月条
新羅が朝貢しないので兵を出して討った。
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1004.htm朝廷が武蔵に送った高句麗人だって神羅に滅ぼされた生き残り集団だからなぁ
そりゃ神羅をdisる罠>>9
中国の歴史書にも百済と新羅が倭の属国だったことは書かれてるぞ>>7
それは、『自衛』じゃなくて、
『自慰』のGoogle誤訳かな?(笑)>>24
へー
勉強になる。新羅は、日本と唐を天秤にかけた二股外交をしていた
今の韓国も同じ、ちっとも変わってない>>27
ーーーーーー
『新唐書』列伝第145 東夷 倭日本に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあるが、『新唐書』が編纂されたのは10世紀であり、唐時代に日本からの留学生・留学僧が伝えた内容が掲載されたと考えられる。
ーーーーーー
存在が比定される時代(西暦200年頃)より後世代にしか出ないと思う。
なので、同じ時代の中国の資料に記載はされて無いのでは?
神功皇后の三韓征伐など嘘っぽくて信用できない。
高句麗が戦わずに朝貢してくるとかありえないだろう。
実際に血を流して戦闘をした兵士たちが怒るぞ。>>7
日本書紀にきちんと書いてある所を紹介しただけでしょう?>>23
ファンタジーと言うならその根拠を出せ。>>23
百済が日本に文化を伝えた根拠にしてる記録だぞw
確かに、コリアンの解釈はファンタジーだが。>>34
言葉が足りないな。
仲哀天皇が亡くなったが応神天皇が生まれてるから天皇はこの二人だ。
天皇の系譜に皇后は入っていない。>>1
시간 버리게 하는 쓰레기 자료군요.
환불을 요구합니다>>9
神話ってのは実話がモデルになってることが多い2002年&2010年の日韓歴史共同研究時の「韓国に対する愛はないのか!」とは別に、
韓国の歴史学会に精通してる在日?韓国人?の著書に、
韓国の学会の質疑応答で、「韓国学会は日本書記の都合がいい部分は無批判に採用し、都合が悪い部分は採用しないという姿勢が、韓国の歴史学会が日本から舐められてる原因ではないのか?」みたいな質問をしたという記録があったと思ったけど、何の記述だったか覚えてる人いるかな?
10年以上前は、こういう姿勢も日本側から嘲笑ネタに添付されてたんだけど、探しても見つけきれない。
その質問に対しての韓国学会の権威ある学者は沈黙したままで、脇にいた別の韓国人が「自信がないんだよ」と応答するという記録だったんだけど。>>38
見つけた!
高麗大学教授で日本古代史学者の金鉉球は、『日本書紀』には倭が任那日本府を設置して、朝鮮半島南部を支配しながら、百済・高句麗・新羅三国の三国文化を搬出していったことになっているのに、韓国の中学校・高校の歴史教科書では、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝播される国際関係は説明がなされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた話だけを教えており、さらに百済・高句麗・新羅三国の文化を日本に伝えたとされる話は、朝鮮最古の史書は12世紀の『三国史記』であり朝鮮の古代の史書は存在しないため、すべて『日本書紀』から引用している。
しかし、日本の学者が『日本書紀』を引用して、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、明白な矛盾であり、こうしたダブルスタンダードゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見ているのではないか、と指摘している任那日本府というか、日本の勢力が朝鮮半島南部にあった【証拠】というべき【前方後円墳】は、4世紀から7世紀、つまり百済が作ったと思われるが、韓国考古学会は、発見される度に、慌てて埋め戻しているようだ。
…ちょい前まで、『韓国は任那日本府の前方後円墳を発見すると、直ぐにユンボで破壊している』というコピペが拡散されていたが、それは間違いのようだ。
(恐らく韓国考古学会は「世間が煩いから壊してしまえ」までは、『考古学者の良心』が許さなかったのでは?)
『前方後円墳など、発見していない』と、学会は誤魔化すのに懸命だった模様。
…べつに、1500年も前に、日本に支配されていようが、現代に関係無いじゃん(笑)。
「国民の九割を奴隷にして、貨幣経済も発展することが出来ないで、滅亡していった国」のほうが、恥ずかしいと思う。
それに、1500年前の日本人は、朝鮮人を奴隷にしたわけじゃない…と思うよ。任那の日本府は現在の大邱あたりにあった
>>41
想像以上に小さいな。
これじゃ地方の役人レベルの墓だね。>>44事実2013年に出たトゥーム・レイダーというゲームの背景が古代日本で、最終ボスが卑弥呼であり、ゲームをしてから興味があってあれこれ調査もして学校図書館で日本書紀と古事記を借りてきたが、放棄して返納した その時は明治の勉強がもっと、急だった.日本古代史はまだ私には無理だ
>>44
日本書紀では天皇は一応中国の皇帝に朝貢したことがないという建前なので、
魏志を引用して同一人物である事を暗示しつつ、神功皇后即ち卑弥呼とは明言しない。>>47
>狗奴國の有力者が『狗古智卑狗kukochihiku』
「卑」弥呼とか「狗」とか、中国の歴史書に登場する日本人名は差別されまくりだな。私は、これで笑った
『日本書紀』雄略天皇23年(479年)4月条では、「百済文斤王(三斤王)が急死したため、当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供の中で、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした。」と記されている。
で、この東城王から200年以上経った子孫が桓武天皇の母親かもしれないって話だったんだね。
こんなの、天皇が朝鮮に送った使者じゃねえかよw新羅とか唐と同盟してチョッパリ殺したニダーと言った割には
その後日本に朝貢して頭下げまくってるんだよねw>>48
神功と卑弥呼の事績を厳密に比定することにたいした意味があるとは思わんが
まあヤマト王権は3世紀中頃には成立してるというのが大方の見方だし
隋書に倭国の都はヤマトで、魏志で言うところのヤマタイだと書いてる
ヤマト王権の支配者だと見るのが自然日本書紀は百済系の藤原氏が作ったものだからだよ
実際に倭と同民族を成していたのは新羅
蘇我氏も新羅系
歴史書としては百済の視点から書かれたものになる
神話の部分は更に古から受け継がれたものなので変えるわけにはいかない
藤原氏の権力の正統性を保証するのが日本書紀や古事記というだけ
おそらく天皇記などには百済のことは書かれてない
倭と新羅が同一祖先を持つということが書かれているはずだ
なので藤原がどうとか新羅を悪く言ってるとかはどうでもよくて
事実、倭と新羅は通訳要らずなことと、神話が倭も新羅も百済も全く関係無いことが重要>>26
でも、住んでいる民族が違うじゃん。
朝鮮民族の祖先は、白頭山大噴火(一応946年と比定されている)の後で、人口が希薄になっていた朝鮮半島の北半分に、北方から入ってきた南方ツングース系民族が広がっていき、中国人(漢人)が建てた政権である高麗の時代に半島南部の新羅人(倭人・百済人の土着が残る)と混じり合って形成されていった。高麗の時代を通じて、この北方からの流入は続いていたから、徐々に新羅人の割合は減っていった。
だから、朝鮮民族の初期の母集団は、高麗中期になってやっと固まったと言える。
その後も、漢人・モンゴル人・満州人の要素が組み込まれていったけれど、13世紀後半のモンゴル人遺伝子流入を除けば、凡その民族構成は11世紀前半でほぼ出来上がったはず。
朝鮮民族の祖先のうち大きな割合を占めるのは、新羅人の子孫ではなくて、南方ツングースで、そのうちの大きな部分を占めるのが、女真(後の満州人)だと思われる。
だから、李氏朝鮮時代に、朝鮮人が大清国を築いた満州人とその文化に心酔していたことも納得できる。何しろ、自分たちの遠い祖先の末裔である民族が建てた国が中華大陸での覇権を握ったのだから。他者さんが書かれる、書記を百済系の藤原氏が作った云々の根拠が気になり、簡単にではありますが調べてみました...
鎌足(カマタリ)の「足」の発音が、韓国語の「タリ?ダリ?」と同様だから、との根拠がありました。
7世紀の「足」に該当する半島の発音も、現代韓国語の発音と同じなのでしょうか?(笑)
そして、百済からの亡命者は確かにいましたが、発音だけで藤原氏の出自が決まる?(笑)
百済の成立は、日本で言う古墳時代ですが、天児屋命を祖とする中臣氏の家系は何処に?(笑)
他の根拠があれば知りたいです。
誰か御存じありませんか?まぁ、吹けば飛びそうな少国家だしなw
>>56
あーなるほど...
つまりなんでもアリだと(笑)
近い将来、文武天皇は不比等の長女である藤原宮子を妻にされていますから...
次代の元明天皇が完成させた古事記も百済の史書と言い出しそうですよね(笑)disる訳ではありませんが、新羅を例に、一回のレスで済む程度の史料を時系列で並べると...
三国志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳 韓(辰韓)
「其言語不與馬韓同」(其の言語は馬韓と同じからず)
梁書 卷五十四 列傳第四十八 諸夷 新羅
「無文字 刻木爲信 語言待百濟而後通焉」(文字無し。木を刻み信を爲す。 語言は百濟を待ち、而る後に通ず)
隋書 巻八十一 列傳第四十六 東夷 新羅
「魏將毌丘儉討高麗 破之 奔沃沮 其後復歸故國 留者遂為新羅焉 故其人雜有華夏 高麗 百濟之屬 兼有沃沮 不耐 韓 獩之地 其王本百濟人 自海逃入新羅 遂王其國 傳祚至金真平」
(魏の將毌丘儉、高麗を討ちて之を破り、沃沮に奔らしむ。其の後復た故国帰るも、留まりし者は遂に新羅と為る。故に其の人には、華夏・高麗・百済の属雑じりて槍有り。沃沮・不耐・韓・獩の地を兼ねて有つ。其の王は本百済の人、海自り逃れて新羅に入り、遂に其の国の王たり。祚を伝えて、金真平に至る。)
※魏の将軍毌丘儉が高句麗征討は西暦244年。
・辰韓の言語は馬韓とは異なる。
・新羅は文字を持たず(中華史書での記述ですから、単純に漢字を使いこなせず、独自の文字があった可能性もあります)百済は文字(前述同様、漢字の理解度の可能性あり)を解し、新羅を通訳した。
・新羅を興した支配層は、華(夏)人や東夷を出自とする高句麗人・百済人(馬韓)等であり、新羅の地へ来た秦や多方面からの移民の多くは庶民だったのかと(記述の量が増えますので引用を省きますが、他の史料からも同様の見解が可能です)。
有史間もなくの頃は、倭人と同民族を成していたのは、恐らく「あやひと」...
そもそも、律令等の統治に必要な知識は中華由来ですから、当時の日本でも漢文を流暢に読み書きする華人が重宝されたと思います。
余談ですが...
梁書の時点、つまり6世紀中ごろで新羅の「無文字」との記述、コレは「特記」として読むべきかと。
決して新羅をdisっている訳ではありませんが、韓国人さんの意味不明なレスを恐れて、新羅に関する史書引用は書き下し文に留めました(笑)加えて記します...
書記に目を向けがちですが、藤原感?百済感?(笑)の考察の一助になればと思い、続日本記の引用を。
※画像で訓読できますが、一応、現代語訳します。
尚、マーキングをすると訓読に支障がありそうなので止めました。
文武天皇 巻第三 慶雲四年(707)五月二十六日
「初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸。歴四十餘年乃免。」(昔、百済を救うために派兵した時、官軍は不利で、唐軍の捕虜となり、賤民の官戸とされ、四十年あまりを経て、ようやく解放された。)
捕虜となり(経時から見て白村江の戦い)、解放された彼らと錦部刀良が帰朝した際、文武天皇はその勤めを憐んで褒美を取らせました。
元明天皇 巻第六 起和銅七年(714)二月十日
「詔從六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令撰國史。」
(從六位上の紀朝臣清人と正八位下の三宅臣藤麻呂に詔し、國史を選修させた。)
国史は「日本書紀」の事と考えられています。
書記の記述は漢文。
紀清人と三宅藤麻呂が、最も漢文に精通していたからこそ、元明天皇が選修を命じた(maybe)
しかも紀氏は葛城氏や蘇我氏と同様に、妖怪かも知れない武内宿禰を祖に持つする氏族(笑)
その祖の血統が、或いはその親族の血統、「あやひと」っぽく感じてきませんか?(もはやゴリ押し感が💦)>>60
紀清人はのちの聖武朝で文章博士を務めているから、当時に於ける歴史学の専門家だったと想像出来る。三宅藤麻呂は百済系の渡来氏族と推定される三宅史(みやけのふひと)氏の出身と考えられるが、正八位下という最下級官僚ながら抜擢されているから、この分野に秀でた人物だったのだろうか。あるいは単に当時紀清人の下僚だっただけかも知れない。
文筆の業務にあたった史姓の氏族(=史部ふひとべ)は70ほどが確認されていてその殆どが渡来系だが、三宅藤麻呂が正八位下であったように、総じて官人としての地位はごく低い。それらを統括する東漢直(やまとあやのあたい)氏と西文首(かわちふみのおびと)氏は前漢・後漢の王族後裔を名乗っていたから、史の本流は中華系(漢人)だったのだろう。
応神朝では東漢氏の祖・阿知使主が呉国に派遣されたとあり、『宋書』に見える倭王讃による司馬曹達の派遣、雄略朝の身狭村主青と檜隈民使博徳の派遣など、これらがいずれも中華系の史であることを考えれば、百済系の史の存在感は韓国人が期待するような華々しいものではなかったのかもしれない。
いくらゴリ押しても、百済系人士が古代日本の中枢を担ったという、思い浮かべただけで韓国人が絶頂していまいそうな想像図は成立し得ないと思う☺️- 62名無し2023/02/13(Mon) 01:41:22(1/2)
このレスは削除されています
- 63名無し2023/02/13(Mon) 01:42:00(2/2)
このレスは削除されています
古代では、新羅が仮想敵だったから
>>61
今頃...
返信に気付いた、遅レスな私をお許しください💦
ご存じの通り、百済と高句麗は滅亡し、新羅を含めた半島全域が唐朝の羈縻州となりました。
この時代の半島も独立した国とは言い難く、中華王朝の領域支配下におかれた州郡な訳です。
確かに日本は半島からの亡命者を手厚く保護し、8世紀の世になっても変わらず亡命者を受け入れ、その立場を保証しましたが...
しかし、どの史料を読んでも当時の天皇の権威や権力は変わらず保たれています。
書記は解釈の仕方で部分的には曲解が可能ですが...
文武天皇からの歴史書、つまり史実の羅列で淡々と記される続日本記では曲解が困難です。
韓国人の学者?さんが続日本記に触れず、それ以前の史書である日本書記に多く言及するのは、韓国人さんの妄想するストーリーに歪曲しやすいからかも知れません。
個人的には...
百済や高句麗等の滅亡した国の民が、どの様なプロセスを経て日本を統治したか?
このプロセスを根拠をもって理路整然と書く韓国人さんは現れないと思います。
kaikaiの性質上、仕方ないのかも知れませんが...
古い時代の日本史のやりとりに、少し新鮮さを感じました。- 66名無し2023/02/26(Sun) 22:44:10(1/1)
このレスは削除されています
日本書紀が新羅をdisりまくっていて草
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