- 4名無し2017/09/20(Wed) 20:48:59(1/4) このレスは削除されています 
- いや、サムソンが脱亜入欧でしょ。韓国人の誇りじゃん。携帯を開発したのが韓国人じゃない事を知ってるでしょ。 
 起源なんてどうでもいいでしょ。
 いや、携帯を開発したのが韓国人nidaとかあほな事を言い出すのかな?(笑)
- もはや近代の故事成語といったところでしょうか。 
 今風に言うと『更なる高みへ!!』『意識高い系』
 差別意識とは全く似て非なるもの
- 8名無し2017/09/21(Thu) 18:17:58(2/4) このレスは削除されています 
- >>8 
 まあ、「天才」という言葉の定義・イメージの問題だ。「天才」という言葉をそういう風に定義すれば、まあ天才なのだろう。
 ただ、「天才」の類義語に「秀才」がある。「天才」は最小限の努力とひらめきと天性の才気、「秀才」は継続した努力と積み重ねと揺るぎのない結論、こうしたイメージで対比できる。
 こうした日本語の類義語の差を考えると、「天才」と呼ばないからと言って不当な評価だというのはやはり言い過ぎである。彼は天才と秀才のどちらかと聞かれたら、秀才タイプだろう。
 日本人が彼を「天才」と呼ばないのは、彼を不当に低く評価しているのではなく、単に「日本の王」よりも日本語を良く知っているからである。
- >>9 
 いや貴方が福沢諭吉を良く分かってないだけだと思うよ。
 発明家は秀才ではなく天才だ。
 そして福沢諭吉は新しい熟語を発明した。
 これにより欧米の概念が全て日本の物となった。
 しかもただ日本語として使えるだけでなく、漢字圏全てで共有して使えるように規則通りに作った。
 中国人の誰もが福沢諭吉を天才と呼ばないのは過少評価されている証拠である。
 韓国人は漢字廃止したから知らなくても仕方ないアル。
- >>1 
 アジア人としての誇りなど無い。
 日本人としての誇りのみです。
- 12名無し2017/09/21(Thu) 22:05:45(3/4) このレスは削除されています 
- 中韓と欧米どっちがいいかという話。 
 アジア人の誇りはアジア支配を進める上で拡大された話であって。
 島国の日本には最初から大陸との一体感など無いし、差別もない。
- 14名無し2017/09/21(Thu) 22:39:09(4/4) 
- >>14 
 日本の王の癖にまともな事言ってんじゃねえ。
- "入欧"は勝手に後から足されたものと聞いたが… 
- 그래서 일본제국이 안중근의 기대를 저버렸던 것이구나... 
 일본에게 조선, 청나라와 힘을 합쳐 백인들의 침략에 대항하자고 권유했었는데TT
- >>1 
 アジア人なんて雑な括りは御免蒙る。君の解釈は恣意的だ。隣国だろうが、ヨーロッパ人がやっているように容赦なく朝鮮や支那をぶん殴れ、というのが脱亜入欧だろ。今も特亜にそれをやろうではないかってんだ。何が悪い?
- >>1 
 そうだったのかΣ(°Д°)
 オレはまた特定のアジア諸国と縁を切るのが目的だと思ってたわ
 どこの特定アジアかは言わないが、金くれくれニダ言う国やアヘンで全国民がラリってるアルな国とか
- ヨーロッパから見たアフリカ=日本から見たシナ朝鮮 
- 脱亜=アジアの隣国がアホすぎる、付き合いきれんから止めようぜ(´・ω・`) 
- >>1 
 일본인은 아시아인(mongoloid)이 아닙니다.
- >>20 
 同僚の人格が優れていてもキンペー社長に嫌われてるから、仲良く支援するのは道徳的に正しくとも政治的には正しくないのだよ。
- 脱亜入欧とは 
 バカ、キチガイ、無能をまともに相手しても「無駄」と見切った
 日本の政策です
- 【脱亜論】福沢諭吉 
 https://blog.goo.ne.jp/jiuhime007/e/c2e0448c25044e71538670e3c50e3ffd
 (一部抜粋)
 わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習慣を脱し、
 西洋の文明に移っている。
 しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。
 この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、
 わが日本国民と異ならないのである。
 だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、
 遺伝した教育に違うものがあるためか、
 日・支・韓の三国を並べれば、
 日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである。
 この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。
 交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、
 耳や目の見聞は心を動かすことにならず、
 その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。
 現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、
 教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、
 一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。
- >>26 
 (続き)
 そればかりか、道徳さえ地面を這うように残酷破廉恥を極め、
 なおふんぞり返って反省の念など持たない者のよう
 筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。
 われらの明治維新のように、幸い国の中に志士が現れ、進歩の手始めとして政府の大改革を企て、
 政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。
 もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。
 なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・韓国の両国は伝染の自然法則に背き、
 無理にこれを避けようとして室内に引きこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。
- >>27 
 (続き)
 「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。
 のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、
 支那・韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。
 例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制であり、法律に従うことがなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。
 支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。
 支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、
 朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。
 事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。
 喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、
 しかも残忍で無情なときは、
 たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、
 他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。
 その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の大不幸というべきである。
- >>28 
 (続き)
 そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、
 共にアジアを発展させる猶予はないのである。
 むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、
 その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別扱いするに及ばず、
 まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。
 悪友と親しく交わる者も、また悪名をまぬかれない。
 筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。
- >>1 
 そもそも、「脱亜入欧」は、1950年頃に使われ始めた成句で、肝心の福沢諭吉らが、創刊した新聞(時事新報)では「脱亜論」であり、「入欧」という単語に至っては、福澤諭吉は(署名著作と無署名論説の全てにおいて)一度も使用したことがない。
 「脱亜入欧」は、後世の論説の影響がある為、取扱に注意が必要な言葉かもしれません。
 そもそも、明治時代になると、多様な論説が発生した。「脱亜論」あ「興亜論」も、反する論理でしたが、色々な論説が発展した時期でもあるので、それぞれの立場で、それぞれの立場のメリットを論説しており、どれが正しいとも言えないものだと考えています。
 福沢諭吉らが創刊した時事新報の中でも、
 「朝鮮や清から距離を取る※1」との論説があったり、
 「中国人とは親しむことができる※2」との論説があったり、
 ※1『脱亜論』1885年3月16日に掲載。
 ※2「支那人親しむ可し」(しなじんしたしむべし)は1898年に掲載
 その時代毎の、状況に合わせた論説があるので、あくまで参考程度にとどめるのが良いかと感じてます。
脱亜入欧とは何でしたか?
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