織田信長 従来:革新的指導者 最近:保守的な漸次改革者
豊臣秀吉 従来:陽気で他者の心情を理解する事に長ける 最近:恐怖と暴力で支配する史上類の見ない暴君
徳川家康 従来:我慢強く時期を待つ慎重派 最近:短気でいい加減な性格だが勉強家、健康志向※45
>韓国女性と朴槿恵
そんなゴミに価値はありません。>>45
韓流ドラマ好きのおばさん大量に送り込んでやろうか明智光秀自信の能力が高く
信長と比べても遜色無かった
からじゃないですかね。
原因となった出来事は様々な憶測から
たくさんあるけどどれがホントだか?
○将軍家を追放したから。
○武田信玄の捕虜を皆殺しにし助言を無視されたから。
○転封を言い渡されたから。
○信長が怖すぎて、いつか殺されると思ったから。これと言った定説は無いが、個人的には京都周辺が偶然軍事的空白地帯になったので
その状況なら成功するだろうと明智光秀が突発的に反乱を起こしたとする説が正しいと思う
あと高知の大名だった長宗我部元親が明智光秀の部下である斎藤利三と石谷頼辰へ本能寺の変直前に送った手紙が見つかって2015年に見つかって
その手紙は信長が元親の領地を攻めるのを止めて欲しいと光秀や利三に要求する手紙だった
斎藤利三は長宗我部元親の義兄でもあるので何か本能寺の変の計画に主体的な関与があったのではないかといわれている明智光秀が信長討伐に向けて歩いた山道が今も残ってるよ
京都駅から嵯峨野線に乗って保津峡駅で降りて後は歩くだけ(^^♪다들 친절하네! 고마워!
일본사에 대해서 더 알고 싶어ㅎㅎ
다음에 나도 교토에 가서 아케치가 썼던 산길에 가봐야 겠다!!>>58
だから、歴史は面白い。いやぁ〜乱世乱世
乱世は面白い>>1
江戸時代の狂歌です。
「織田(信長)がつき 羽柴(豊臣秀吉)がこねし 天下餅
座りしままに 食うは徳川(家康)」>>58
入り方とはしては自然だし、皆そうしてきただろ>>61
www
初めて聞いた。 最高w軍事的・政治的な面に関しては信長が最も秀でて
個人の才能としては秀吉が一番に思える
秀吉が猿猿と大河ドラマで馬鹿にされてるのが気に入らん(俺はとてつもなく優秀だったと思う)
優秀だからこそあの身分から太閤まで上り詰めたわけで凡才でできるとは思えん調べてみたら「江」も脚本女性だったのか
今回の真田丸は面白いのになぁ…>>40
あと少しで丑三つ時。
家の豊久さんが、二十人くらい兵児ども連れてあなたの夢に出るでしょうから、どうぞ茶でも出してくださいな(^o^)>>66
思い込みをまず捨てないと、何も頭に入って来ないのではありませんか?>>40
最初の三行半は賛成
兵士の職の問題は極めて重要
棄民には反対だがね。
秀吉自身は充分に勝機があると思って唐入りに乗り出してると思うわ。衆道(男同士の同性愛)は、昔の日本じゃあったことだし…
近年の同性愛容認と権利拡大を思えば、再評価や再注目があるのは悪くない。
しかし、ドラマにされてもなぁとも確かに思うが。>>53
明智は京での信長の警備係だった。
つまり京で明智以外に信長を守る者はいない。
信長は明智に対等以上の信頼を寄せていた。
だから仮に明智が裏切ろうものなら信長も終わり。
優秀なリーダーだからこそ家臣を無条件に信頼した。
別に気を抜いていたわけではない。賭けに負けた。家で例えるなら
信長=基礎
秀吉=骨組み
家康=完成
>>71
光秀は「キンカン頭」と呼ばれ、秀吉は周囲からは「サルみたいな奴」と言われ、信長からは「ハゲネズミ」と呼ばれていたそうですw>>71
信長はお気に入り以外は基本的に「貴様」呼ばわりで、相手の名前を呼ばなかったようです。>>65
秀吉は天才肌の人物のように思えて、実は3人の中で一番戦国武将くさい武骨で不器用な人だったんですよ。
内政においては信長に後れをとってますし、軍事においても家康に後れをとってます。
では何故そんな秀吉を周囲の人達は支えたのか。それはやっぱり秀吉の生まれもったカリスマ性だと思います。頼りなく慎ましい大将は何故か人は放って置けなくなるのだと思う。
曹操=信長
孫権=家康
劉備=秀吉>>5
当初観賞用だった唐辛子を軍事利用したのが上杉謙信。寒干しした唐辛子を足の下に敷くことで保温効果があり、雪国越後では最新最強の兵器だった。
また現在でも「かんずり(寒作里)」と言う唐辛子の発酵食品が伝わっており、これも寒さしのぎの陣中食と思われる。
つまり朝鮮には日本のように唐辛子の植物そのものではなく、日本発祥の唐辛子の加工品から伝わったと考えるのが自然である。本能寺の変 最大の謎...亀山城から本能寺までの行軍時間が合わない?!
光秀は6月1日 午後4時に亀山城下はずれに兵一万三千の軍を集め【午後10時】に本能寺に向け行軍を開始。
桂川を越えたあたりで光秀は軍を止め「敵は本能寺にあり!」と謀反の軍令を発した。のは江戸期の講談中の創作ですw
本能寺を襲った光秀配下の武士は戦闘前、戦闘中も襲撃相手が信長だとの認識がなかった事を示す信憑性の高い文献(手紙)が現存します。この手紙は本能寺の変を知る上で超一級史料とされています⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E6%83%A3%E5%8F%B3%E...
6月2日4時頃に入京【卯の刻(5時~7時)】光秀は本能寺を包囲し午後8時頃には決着が着いた。その後二条城も包囲した光秀は午後9時頃には決着を着けた。だが信長・信忠親子の首を見つける事だけ出来なかった。これも大いに謎だが、また後で。
問題は亀山城から本能寺までの行軍時間で、10時出発の5~7時に本能寺包囲という事は『光秀軍が本能寺までに要した行軍時間は7~9時間』という事になる。
だが現在に徒歩で旧本能寺場所まで計った時間でも8時間かかったのだ。
本能寺の変前日の天候は雨、当時のインフラ整備もされてないぬかるんだ泥道での行軍、夜間の行軍、山を越える為に峠のアップダウンの雨でぬかるんだ泥道を夜間に行軍、山道は細く横2列での行軍が精一杯等々で、本能寺までにかかった行軍時間が『7時間~9時間』である。
現在に計った条件は、一人で、日中の、晴れた日のコンディションの良い道を、整備されたコンクリートの道を、徒歩で計ったタイムが8時間である。
全てにおいて条件が悪い光秀軍の行軍時間が7時間~9時間というのは資料が適当過ぎる。そこで先に述べた信長・信忠親子の首級が見つからなかった事が気になってくる。そもそも論で「本能寺の変は包囲から突入から決着まであっという間であった」と山科言経は記している。
ではなぜ信長・信忠親子の首級が見つからなかった事にされてるのか。天下人秀吉の亡き主君への忠義か、それとも他に理由があったのか。
何にせよ、物理的に光秀軍が午後10時に亀山城を出発して翌日の明け方卯の刻に本能寺に到着する事は不可能である。えらく、唐入りが棄民政策だったという事に否定的だけど、第1の目的としては勝って明の征服、負けても棄民になると秀吉が考えていたとしたら変でないと思うけどな。たまたま、負けたから棄民にシフトを切っただけで…
確かに庶民は戦争で人が死んだから食料が少なくて済んだとは考えないだろうと思うけど、政府高官はそう考えてもおかしくないと思わない?秀吉は政府高官の立場だよ。
あと、豊臣政権には絶対に徳川側のスパイがいたよ。大阪夏の陣とかで大阪城の堀を埋めたのおかしくない?徳川に反抗の意志なしとして、刀がダメとか兵数がダメなら分かるけど、堀がダメなんだよ(笑)防御がダメって意味がわからない(笑)中国が韓国のミサイル防衛システムをダメと言っているのと同じ。征服の意志があるんだよ。淀君あたりは徳川のスパイだったと思うな。おかしいよ子種ないはずの秀吉に子供とか…唐入りでやられた大名は徳川側に陥れられたんだよ。>>82
淀君が家康のスパイであるはずがない。
豊臣政権は一枚岩に見えるが、内情は寧々が率いる尾張派と、茶々が率いる近江派で『対立』が起きていた。秀吉の死後、その対立は加速する。
寧々は秀吉の糟糠の妻にとして、また、巨大な豊臣家の政治の裏方、いわば大名の妻女達が集うサロンの主宰として秀吉からも絶大な信頼を寄せられていた。
同時に寧々はその出生、性格などから豊臣家臣団の中でも福島正則、加藤清正ら尾張出身者の武将に心を寄せていたため『尾張派結集のシンボル』でもあった。
だが彼女には実子が生まれず、この点で「子供を生むかもしれない」他の側室達に対し、コンプレックスがあったことは事実だ。
一方淀は近江の名家浅井氏の出身で、父は浅井長政、母は信長の妹お市という、秀吉にとっていわば「主筋」にあたる身分でした。
もともと秀吉はお市に叶わぬ恋愛感情を抱いていたため、その忘れ形見である淀は秀吉にとって『憧れのマドンナの娘』として丁重に扱われた。
とは言え、当初淀は一介の没落大名の娘でしかなく、寧々と張り合うほどの権勢を持てる筈はなかった。
しかし淀が第一子鶴松を懐妊、出産した事で状況は一変する。
実子がいなかった秀吉にとって、何よりも待ち望んだ後継者を生んだという実績に淀の地位は急上昇し、「おかかさま」と称され、その下に【近江の旧支配者浅井氏】に敬慕の情を持つ石田光成、増田長盛ら近江派の経済官僚が集まることで、寧々に勝るとも劣らない権勢を誇るようになった。
秀吉は不幸にも鶴松を失ってしまうが、再び淀の懐妊で秀頼を生んだ事で淀の権威は確たるものになった。
それでも御大の秀吉が生きている内はよかったが、秀吉の死後に寧々が率いる尾張派と淀が率いる近江派の対立が一気に加速、寧々は淀と淀が率いる近江派に対する憎悪から尾張派に徳川家康に従うよう示唆し、それを政治的に利用した徳川が一気に天下を取ってしまった。
家康がスパイ工作で豊臣政権の切り崩しを始めた時期は、秀吉の晩年の寧々の尾張派と淀の近江派の対立が始まった少し前だろう。>>1
織田が「破壊」して、豊臣が「整備」して、徳川が「運営」した。
が、正解。そりゃ 秀吉の軍師 黒田官兵衛でしょう
天下を取った秀吉が最も恐れたのが 官兵衛なので豊前国主に遠ざけました戦国時代などつまらない、それより平安から室町初期の中世の方がいい。華やかな国風文化、公家と武家の権利抗争など結構面白い
>>53
個人的に秀吉、光秀の共謀を押すけどなぁ
中国大返しとか今の舗装された道でも7日で230km走って次の日戦争とか無理だし。
秀吉、絶対歴史改竄してるだろ。
次の表は、明智憲三郎氏がご自身のブログで『惟任退治記』の通りに軍をすすめた場合に、1日何キロ進んだことになるかをまとめたものである。
http://praha.at.webry.info/200911/article_3.html
6月 6日 備中高松*~沼 35km (*午後2時出発)
6月 7日 沼~姫路 70km (大雨疾風)
6月 9日 姫路~明石 35km
6月10日 明石~兵庫 20km
6月11日 兵庫~尼崎 25km
6月12日 尼崎~京都山崎 50km
こんなの信じる人いる?日本の中世は、平安時代から、室町時代初期まで、まあ、平安遷都から遣唐使,班田収授の廃止までは、古代から中世への転換期で10世紀になって100%中世になった。
>>1
織田信長が壊して、
豊臣秀吉が統一させて、
徳川家康が長生きした。
これが正解。私は学生時代に城郭の研究してたので信長/秀吉/家康の3人の性格にも持論があります。
信長:
草民を大切と思う正義の人。自分が特別だと思ってはいないが力がある事は理解している。力は草民を守る為のものだと考えに信長の正義の軸がある。なので荘園政策をし草民に武器を持たせ一揆を主導する宗教団体が許せない。行動指針が自分の信念なので決断が早い。常に調査を怠らない真面目な性格も併せ持つ。
秀吉:
不器用で純粋な人。おだてれば木に登るし、力を持てば力に溺れる。底辺から成り上がった事で自分は特別だと思い込む。あまり深く考えないので行動が早い。段々と信長の嫌っていた宗教家の様になっていき、禅宗信者の多い武家の不満を買う。自分の力を誇示するためにバラマキ政策を行った為、経済は回る様になる。
家康:
人をあまり信じないが、一度心を開くと疑う事をしない。あくまでも武家のが思考の中心で、草民は社会のパーツとして必要との認識は持つがそれ以上にはならない。秀吉は嫌い(自分を特別だと思ってる所が)。
自分に自信がない。なのであらゆる形で予防線を張り巡らせる。結果、行動が遅い。
書いていたら信長好きの秀吉嫌いが表面化してしまった…。ごめんなさい。>>45チョンコは一匹も要らない。昔も今も無価値です。
秀吉は信長のコピー
生まれた時から戦をしていた世の中から、戦をやめる世の中を考えられなかった。
だから、中国まで戦争を仕掛けた
戦を終わらせて、戦のない時代を造った家康は、別格だね信長は、続いていた戦国時代の風習の全てに改革を唱え、合理的に経済や軍事を発展させた偉人。今で言えば、ベンチャー企業の起業者や斬新な真似でないIT社長の様に思う。合理的なため無駄なものを壊した。
秀吉は、信長から引き継ぎ、新しい風習に追いつけない公家を巻き込んで、農民や商人など、一般社会の改革を率先して行なった印象。但し軍事面については、農民あがりで精錬さ・潔癖さに欠ける。
家康は、秀吉の行なった改革の泥臭さを認めながら、施政者たる武士のあるべき姿を確立したとも言える。2人の長所短所を引き合いに、全国の武将に協力させ、平穏な国を治める道筋を立てた。
あと地域によって、3人への敬意が違うのも入れておく。大阪では秀吉人気が高いと聞くし、愛知・岐阜や琵琶湖周辺ではやはり信長が。東京や関東近県では、徳川幕府の残した史跡が多いから、なんだかんだ徳川も人気。戦国時代のとごがいいのか、理解出来ない。
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名無し2019/10/02(Wed) 06:38:42(1/1)
このレスは削除されています
>>95韓国人は、日本の中世を知らないようだ。平安王朝の素晴らしいさを韓国人に教えてたい。
徳川は260年
韓国は7(r…半万年だったかな>>1
日本史についての質問をする暇があるのなら、「韓国史」についてもっと勉強しろ。馬鹿。
일본사에 대해 질문!!
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