ウクライナで捕虜となった北朝鮮兵士のインタビュー記事を読んで心が痛かった。まだ20代の若者が「耐えられないくらい両親に会いたい」と語る言葉に胸が詰まった。派兵という形で海外に送られる時にさえ一度も両親に連絡できず、しかも10年近く兵士として生活を続けながら家族の顔を一度も見られなかったという。これは人間としてできることだろうか。
若い兵士の「われわれ人民軍団において捕虜は変節(主義・思考が変わること)と同じです」との言葉に怒りを感じた。降伏を罪悪とし、国民に自殺を強要した旧日本帝国の狂った軍幹部らと何が違うのか。悲しみと怒りを感じながら、私は30年ほど前に経験し当惑した出来事に思いをはせた。
時は金大中(キム・デジュン)政権発足直後。兵役を終えたばかりの時だ。自宅に戻ると母親が真っ青な表情で「手紙が来ている。お前の2番目の叔母さんからだ」と語った。耳を疑った。2番目の叔母はもうずいぶん前に死んだはずだ。死んだ人間がどうやって手紙を送ったのか。
手紙は赤十字社を通じて北朝鮮から送られていた。私の知らない「2番目の叔母」がいたのだ。兄弟の中で最も頭が良かったというこの叔母はとても学校に行きたがっていた。1940年代に貧しい8人きょうだい家庭の2番目の娘が学校に行くには家出するしかなかった。実際に家出した叔母はソウルの工場で働いていたが、戦争が始まると連絡が途絶えた。その叔母から突然手紙が来たのだ。
離散家族再会の会場で再会したという叔母は、一目で苦労が多いことは分かったが、その表情は明るかったという。手土産を渡し「これももしかして取り上げられるのでは」と尋ねると「将軍様の懐で幸せに暮らしている」と語ったそうだ。当時は「苦難の行軍」の時期で、北朝鮮では飢え死にする人が非常に多かった。叔母は本当に「将軍様」に感謝していただろうか。
戦争と分断の傷痕は母方だけではなかった。智異山の村で育った父によると、幼い頃パルチザンは恐怖の対象だったという。何かあると山から下りてきて食糧を奪い、ひどいときは牛まで連れ去った。
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ウクライナで捕虜となった北朝鮮兵士を見て確信した、必ず統一を実現すべき理由
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