ある集まりで東南アジアとアフリカの数カ国が話題になった。その国を訪問した人たちが対話を主導したが、対話の最後に、そのような国々に朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領のような指導者が一人いれば韓国のように発展したはずだと話した。私は内心、そのような国々に朴正熙大統領のような指導者が十人がいても韓国のようには発展しなかったのではないかと一人で考えた。
そのように考えたのには理由がある。文明は考えの結果という点で知的産物だ。知的伝統がある民族や国々だけが発展する。意識は本能的であるが、考えは意図に基づいて統制された意識下ですることであり、極めて人為的だ。人為的であり意図的にする活動能力を「知的」という。単純に知識だけと連結するのではない。知識よりはるかに広い範囲で使用する。「知的」という言葉自体に拒否感を抱く人もいるが、文明はそのような拒否感のようなものは意に介さず、むしろそのような人々には目も向けず、ただ前に進む。
現実を知的に認識する自らの努力をせず、イデオロギーを安易に輸入して使う国は、たとえ知的な伝統があるとしても、ある段階では限界に直面するしかない。我々はいま限界の前に立っている。知的な態度があったからこそここまでは来たが、輸入したイデオロギーで鍛錬した知的態度では到達できる最も高い段階に到達した。知的な態度が考えを根にするという点について話すなら、我々は考えの結果を受け入れて暮らしたのであって、自ら考える暮らしをしなかったと言うこともできる。文明が考えの結果であり、知的産物ということを信じるなら、我々の現在を敢えて詳細に考えて振り返らなければいけない。より良い人になる道に入りたい思いが少しでもあるなら、古くなった自身の決まった考えを盲目的に守ろうとする態度を知的活動と信じたり、紅衛兵のように誰かを盲目的に追従することを正義と信じているのではないかという点から省みるべきだ。考えもせず知的であるのは不可能であり、知的でなく一流に暮らすというのも不可能だ。
https://share.smartnews.com/gszxq
【コラム】知的な態度、大韓民国の底力
115
ツイートLINEお気に入り
93
11