◆米露が助けられない状況
中国が伝統的な関係を崩して自ら帝国がなることで危機を抜け出そうという試みは、朝鮮内で反発を招くしかなかった。特に近代化を推進した知識人は下関条約後に中国の使節を迎えたところに独立門を建てた。彼らは日本の軍国主義の危険性を見ず、清の脅威と朝鮮政府の無能ばかりを見た。
◆日本をモデルにした開化派知識人
朝鮮だけでなく中国とベトナムの青年にも当時の日本は理想的な国だった。彼らは東アジアとあまりにも異なる欧州よりも日本をモデルに近代的な改革を進めることができると判断した。金玉均(キム・オクギュン)の考えは魯迅の考えと変わらなかった。
◆政治的扇動の可能性を警戒すべき
このように複雑な当時の状況について、歴史学界はその原因がどこにあるかについて論争を進めた。ここには当時の朝鮮政府と開化派知識人に対する評価がその核心にあった。日本の軍国主義化と清の没落は議論されない歴史的事実だったからだ。では、果たして何が朝鮮の植民地化で最も決定的な要因になったのか。
答えは一つでない。さまざまな要因のうちどれか一つを強調することは可能だが、だからといって別の要因を無視することはできないからだ。こうした要因が互いに絡み合いながら相互間に原因と結果を提供した。したがって歴史認識の政治化はあまりにも危険だ。政治的目的でただ一つの要因だけを強調することで政治的扇動につながる可能性があるからだ。ファシズムと軍国主義下で見られた形だ。
省察すべき歴史的イシューはあまりにも多い。こうしたイシューが政治的に利用されないようにするためには、何よりもまず学界の論争が生き返らなければいけない。研究と論争は、根拠さえもまともに提示しないサイトが市民の歴史認識を支配している現実を克服するためのものでもある。学界と市民社会の距離を狭める時、歴史がこれ以上政治的に利用されなくなるだろう。
https://japanese.joins.com/JArticle/301099?servcode=100§code=120
朝鮮が植民地になった責任は? 歴史の政治的解釈は危険(2)
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