米は南方系の植物だから南の方からだな
>>24
異常だと判っていても、どうしようもないから、その異常な精神、異常な状態が普通だと思うしかないんだろ。
日本人だって、朝鮮人に生まれて、朝鮮の歴史を知ってしまったら、発狂してしまう人がかなりの割合で発生するんじゃないかな。あるいは「こんな国は滅びるべきだ」という信念で滅亡させてしまうかもしれない。
・朝鮮民族は、異民族から価値のないものと思われることで生き延びる道を選んだ。
・朝鮮民族は、異民族から嫌われることで生き延びる道を選んだ。
・朝鮮民族は、大国の属国になることで生き延びる道を選んだ。
・朝鮮民族は、異民族がやってきたら、異民族に支配されることで生き延びる道を選んだ。
・朝鮮民族は、貧困を極めることで生き延びる道を選んだ。
・朝鮮民族は、誰から見ても、侵略して自分のものにしたい、と思わせないために、魅力のあるもの、価値のあるものを一切生み出さないことにより生き延びる道を選んだ。
・朝鮮民族は、絶望のあまり自死しないように、現実にはない空想世界を作り上げて、それを100%信じることで生き延びる道を選んだ。朝鮮人とは1ミリも関係ないのは確かだな
日本語、おばあちゃん(ba san)はロシア語 (babu shka) ウクライナ語 (babu sya)から由来する
万葉集の語彙の発音はほとんどロシア語だった
恥ぢよ (padiyo)の発音はロシア語、(pazoryo)(padoryo)と発音が同じ
日本語、わた (綿)という単語はロシア語、вата (vata=wata)と同じ発音だよ
日本語の大阪弁 アホヤネンという単語はロシア語、ahoyenenという単語と同じ
日本語、しゅらしゅしゅしゅという単語はロシア語、しゅら(shura)という単語とまったく同じ
航海したという意味もロシア語と同じ、香川県の民謡はロシア人だったんだ- 373
名無し2025/06/07(Sat) 19:59:03(1/2)
このレスは削除されています
- 375
名無し2025/06/07(Sat) 20:13:16(2/2)
このレスは削除されています
>>376
だから、源氏と平氏で言葉が違うのに、なんで同じ日の丸について話し合えるんだよ?
説明してくれよ!日本語の起源はロシア語と百済語であった
という本を日本で出版すると
何冊売れると思う?
10万冊じゃないと赤字なんだけど
ユダヤ人がこの本を嫌うだろう?ww>>378
縄文人がメソポタミアに移住してまた日本に戻ってきた!なんて本はある。売れてるかは知らない。
日本とメソポタミアをつなぐ超古代史!「アマテラス解体新書」/ムー民のためのブックガイド
https://web-mu.jp/column/35261/>>370
コックリさんの韓国起源も万能壁画で証明済み米の話してるかと思えばキスの話?
支那人と露西亞人のケツにキスをする朝鮮半島文化と
交配の為にキスをする日本文化と
挨拶の為にキスをする西洋文化
つまり日本と朝鮮半島は文化的に全く別の人種という事だ
韓国人が朝鮮籍を捨てた後も服従のキスを支那に欠かさないのは文化を超えてDNAに刻まれている事だろう
キムチに支那人の体液が付いてないと朝鮮人は食べないから裸キムチが韓国で大量に出回っていた
心の底から韓国人は支那人のケツの穴を舐めるのが好きなのだろう
韓国人が支那人のケツにキスをするのは止められない
ひいては韓国人は支那人の人糞を輸入してまで愛してやまない
日本人のケツの穴にキスをしてくる親日韓国人もいるが日本にはケツの穴にキスをする文化はないから日本に来てほしくない
舐められるのが好きな日本人が稀にいるが、そんな変態は朝鮮半島から日本に帰国させないように韓国内で拉致して処分してください
日本と韓国は完全に無関係な文化圏の赤の他人と証明された中国の雲南省から南から東南アジア,インドネシアぐらいから、水耕栽培の稲作が入ってきた。しかし、畑佐の稲作なら、縄文時代の4000年前の秋田県から、稲が発見されている。
水耕稲作は中国南部から東南アジアから来た
(ロシアの機密文書)
中国をロシアの敵だと記録!ww
ロシアの強力な連邦保安局(FSB)から流出した内部文書は、
ニューヨーク·タイムズが入手した8ページの計画文書の中で、
中国に対する不信が高まっていることを示しています。同機関は、中国を「敵」と烙印を押しています。
https://www.livemint.com/news/world/russian-intelligence-document-calls-china-the-enemy-leak-exposes-moscow-s-deep-fear-11749408144712.html
Updated 9 Jun 2025
A leaked internal document from Russia’s powerful Federal Security Service (FSB) reveals growing distrust toward China, with the agency branding Beijing as “the enemy” in an eight-page planning document obtained by The New York Times.
>>>
ロシアの敵は中国!
日本の敵は中国!
日本の敵はロシアじゃなくて中国だよ
日本とロシアは安倍首相の主張のように、平和条約の軍事同盟を
結ばなければならない
韓半島の全羅道のやつらは親中だが、
残りの地域の韓国人は反中親露だよ縄文時代中期、4000年前の秋田県で稲が発掘された。縄文時代中期には、畑作稲作が行われてていた。
いろいろ考えあるな
縄文時代に畑佐稲作があった。
.
韓国の稲品種でモンゴル国内で40年ぶりに初めて稲の栽培に成功!
現在、モンゴル人は肉と小麦粉だけでなく米を食べ始め、年間輸入産の米の数万トンを輸入しているが、
これから韓国の稲を栽培して米が食べられるようになったYouTubehttps://youtu.be/o4ffOETxOtw
>>387
敵の敵は、必ずしも味方とは限らない。
敵の敵が、やはり敵だったという事も十分あり得る。
相手がロシアだろうと、中華人民共和国だろうと、朝鮮民主主義人民共和国だろうと、日本の領土・領空・領海を敵対的に占領し、または侵略を試み、又は攻撃しようとし、日本という国と日本人の平穏を破壊しようとする相手はどこだろうと敵だよ。
そういった意味では、味方の味方が必ずしも味方とは限らない。
場合にあっては敵である可能性も否定はできない。
そう言えば、日本にとっての同盟国であるアメリカ合衆国の同盟国で、かつ日本の領土である竹島を占領し、さらに対馬まで侵攻しようとしている上に、隙があれば日本の技術盗んでを経済安全保障を破壊し、日本が災害に遭うとマスコミ・国民が大喜びしてい、より被害が拡大する事を願う国がどこかの半島の南半分にあったな。「40年ぶりに初めて」
40年ぶりなのか初めてなのか矛盾してんな>>394
そら元来遊牧民だからそらそうだって気がする
中国だって華北は基本小麦やし、それより北やし昔は育たなかったんじゃないかと。>>394
モンゴルは稲栽培ができない寒い地域だが
韓国の稲品種4種のうち1種だけ成功した
日本の稲の品種は寒い地域の品種じゃないなるほどー!
いま、内モンゴルと隣接したトコ出身の中国人にも聞いてみたところ、
やっは、一番食べるのは麺類、次に米、三番目にパンって言ってました。>>398
こんな感じなんだそうだ
そら朝鮮半島が昔は雑穀だったてのが理解出来るね>>400>>401>>403
[土曜版] ハン・ホングの維新と今日⑩食糧増産政策 2012年07月15日06:17
https://www.hani.co.kr/arti/PRINT/542467.html
"統一稲で統一し、維新稲で維新しよう" 金日成はすべての人民が白いご飯に肉のスープを飲める日を待ちこがれ 「コメがすなわち共産主義」と主張した。 ほぼ同じ時期に南側の朴正熙も主穀であるコメの自給自足のために途方もない努力を傾けていた。 共産陣営と資本主義陣営が尖鋭に対立した冷戦時期に、朴正熙は主穀である米の増産を経済発展と国家安保にとって核心的な問題と考えた。 朴正熙に対する評価が両極端を分かれているように、1970年代朴正熙の食糧政策で核心的な位置を占める‘統一稲’に対する認識も両極端に分かれて居る。 ある人々にとって統一稲は韓国の人々の‘春窮’をなくした‘奇跡のコメ’である反面、また、ある人々にとっては統一稲は踏みにじられた苗代のみじめな記憶として残り、突然襲った変種イモチ病で真っ赤に燃え上がった農民の胸には、飯を炊けばバサバサの味のないコメとして記憶されている。
中央情報部長 キム・ヒョンウクは第2のムン・イクチョム? 1960年代中盤、食糧増産の先頭に立った政府部署は中央情報部であった。 中央情報部は1964年遠くエジプトから‘ナダ’を密搬入した。 中央情報部長キム・ヒョンウクは国会で自身の部下が厚い本の表紙だけを残して内側をえぐり取った後、その中に種もみを満たして外交行李便で極秘裏に空輸してきたことを武勇談のように喚き立てた。 キム・ヒョンウクは自身の行為が‘第2のムン・イクチョム’に匹敵することであり、この種もみが春の食糧不足をなくすと大声を上げた。
朴正熙はこの種を自らの名前から一文字をとって‘熙農1号’と呼ばせた。 朴正熙はこの種もみをガラス容器に入れて執務室に置き、客に見せて自慢したという。 朴正熙は1965年この種を数ヶ所で試験栽培させた。 朴正熙は振るわない試験栽培結果にもかかわらず‘熙農1号’を押しつけ、1967年から一般農家で栽培させた。>>400>>401>>403 >>404
結果はみじめだった。 育苗すら難しいほどの凶作になった。‘ナダ’はエジプトでは高収穫品種だったが、韓国の気候と土壌には適していなかったのだ。 このみじめな失敗のためか、朴正熙はその後何度も行われた新品種開発で二度と自身の名前を取って種子の名前を付けなかった。 科学史学者ソン・ウジョンは「熙農の失敗はそれが多収穫米ということだけを信じて、国内環境を考慮した科学的検証なしに国家の力で押しつけたことにより引き起こされた人災」だったと評価した。 熙農を通じて軍事政権の正当性を取得しようとしていた計画はひとまず挫折した。
米国は当時、第3世界の多くの国が受けていた人口圧力を分散させられないならば共産革命を避けられないと見て、開発途上国の農業発展のために莫大な支援を注いだ。 米国の支援で1962年フィリピンには国際米作研究所(IRRI)が作られることになった。 この研究所が開発した背丈の低い稲‘IR 8’は奇跡のコメと呼ばれる程に収穫量が多かった。 統一稲研究で博士学位を受けた科学史学者キム・テホは「冷戦体制で緑色革命が米国の国際戦略の重要部分であったために、統一稲の研究と普及過程で韓国が非常に有利な条件で国際的な支援を受けた」と語っている。
キム・テホはこのような国際環境が有利に作用したが、統一稲の誕生と普及は韓国科学者と‘増産体制’というシステムが結合したために可能だったと評価している。 韓国で‘熙農’の実験がみじめな失敗に帰した頃、ソウル農大教授だったホ・ムンホェは国際米作研究所で研究する機会を得た。 ホ・ムンホェの夢は韓国の気候と土壌に合う奇跡の米を作り出すことだった。 1920年代の日本育種学者らが稲を大きく分けてインド系インディカと日系のジャポニカの二つに分けた。 私たちが食べる粘りがあり、米粒の長さが短い米はジャポニカ系で、よく安南(アンナム)米と呼ばれる長さが長く飯にすればバサバサしたコメが熱い地方で好まれるインディカ系だ。 インディカはジャポニカに比べて収穫量が飛び切り多かった。>>400>>401>>403 >>404 >>405
日本の育種学者らはジャポニカとインディカの交雑を通じて、ジャポニカの味にインディカーの生産量を持つ新しい品種を作り出そうと努力したが全て失敗した。 インディカとジャポニカの交雑は遺伝的に距離が遠い種どうしの交雑であり、交配技術が難しいだけでなく、牝馬と牡ロバの間から生まれたラバが子を産めないように‘雑種不妊’の問題に直面した。 ホ・ムンホェはインディカとジャポニカの‘遠緣交配’で誕生した雑種が不妊性を示す時、第3の品種と再交配(三元交雑)したところ不妊現象が消えるという事実を発見する画期的成果を上げた。 このようにして誕生したのが‘IR 667’でありこの新しい種の韓国名が‘統一’だ。 ‘統一稲’とは、統一と同じようにインディカ系の形質を持った統一の改良種を通称する言葉だ。 統一稲は数多くの論難にもかかわらず、キム・テホが指摘したように韓国の農学と農業の発展史に一線を画した業績であり、1999年科学者アンケート調査で韓国科学の10大成就の一つに選ばれもした。
1977年統一系品種として飯の味を改善した‘維新’の栽培現場。 しかし‘葉いもち病’等で1年後にはほとんどなくなってしまった。
"貧しい農民の息子" 朴正熙政府の野心作‘統一’ 一般稲の苗代まで踏みにじり 栽培を増やしたが失敗した 味はまずくて金がかかった 維新・魯豊・来敬 等 新品種開発は続いたが 災害などで全て枯れてしまい 朴正熙の‘緑色革命’は79年の彼の死と共に終わった 奇跡の米‘統一’の誕生と成就、挫折 新しい品種を作ったからといってすぐに栽培に入れるわけではない。 しかし「10年余はかかる通常の育種時刻表は彼らにとっては長すぎるものだった。 それは良く言えば、一日も早く食糧の自給自足を成し遂げなければならないという切迫した使命感に起因したものであったし、冷静に評価すれば予想された人災に至る高速道路だった。 多収穫でも病気にあまりかからない品種を作るためには、特定の遺伝的性質を強化するほかはないが、このように人の手がかかった新品種は遺伝的多様性を自然に喪失するはずだ。>>400>>401>>403 >>404 >>405 >>406
また、人が病虫害に強い新品種を開発しても病原体も絶えず変移を起こすので新品種が病虫害から災害を被ることになるのは結局は時間の問題にならざるをえない。
統一稲の話をするには3人の主役を挙げなければならないだろう。 先ず、開発者であるホ・ムンホェ教授、二番目には何と12年間にわたり農業振興庁長でありながら統一稲の普及と増産システムの構築と運営の責任を負ったキム・インファン、そして維新体制の総帥である朴正熙がいる。 統一稲でいつも問題になったことはジャポニカ系の一般米に比べてまずいということだ。 IR 667が開発された後、1971年2月5日に開かれた政府閣僚と経済界の人々が参加した試食兼評価会で朴正熙は無記名で作成することになっていた質問用紙のご飯の味評価欄に‘良い’に円をつけて大きく自分の名前を書き入れた。 少なくとも政府内では誰も統一稲の味を議論できなくさせたのだ。
統一稲のまた別の問題は栽培法が難しいという点だ。 既存のジャポニカ品種は伝統的な水苗代で苗を育てたが、統一稲はビニールで覆った保温苗代で苗を育ててこそ冷害を防げたし肥料と農薬もたくさん撒かなければならなかった。 統一稲のために畑からバッタとどじょうが消えたという話も多く出た。 1972年、収穫を前に襲った冷害のために統一稲は大凶作を記録した。 <朝鮮日報>は10月11日付で「未熟品種に重なった天災」 として、政府も栽培面積を性急に拡大したと糾弾した。 しかし維新の力は強大だった。 10月17日維新が宣言され再び朴正熙が統一稲に対して信仰に近い意志を持っていることが知らされると<朝鮮日報>は10月31日付で「統一稲多収穫性判明」という記事を掲載するなど、多くの言論は統一稲に対する友好的な報道を吐き出した。 維新初年度である1973年秋、朴正熙は統一稲の成果に非常に満足だと言った。 統一稲の単位面積当たり生産量はジャポニカに比べて37パーセントも高かった。 ‘統一’の開発で 「朴正熙政府は永く探し求めてきた奇跡のコメをついに確保」したかに見えた。韓国の今の稲作は日帝残滓
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1974年から1977年までコメ生産量も個別農家の名目所得も全て大幅に増加した。 統一稲はまずくて市場での競争力は劣っていたが、政府は秋コメ買上げと二重穀価制を通じて統一稲栽培農家に確実なインセンティブを付与した。 1974年にはコメ生産量が3千万石を突破し、3年後の1977年には4千万石を突破した。 この時、韓国の単位面積当たりコメ生産量は世界最高を記録した。 朴正熙はこれを緑色革命の成就と自慢したが、ぴったりそこまでだった。
統一稲の成功は逆説的に統一稲の没落を催促した。 公務員たちは増産目標達成のために一般稲の苗代まで踏みにじり統一稲栽培面積拡大を推進したが、予想を上回る増産実績は政府に二重穀価制にともなう莫大な赤字を残した。 朴正熙はご飯の味を求めることを贅沢だと感じ、増産にひた走ったが、統一稲を植える農民でさえ統一稲は政府買上げ用にして、自家で消費する米はアキバレ(秋晴)を植えることが珍しくなかった。 政府は残っていく統一稲を処置するために1977年12月、14年ぶりに再び米マッコリの製造を許容した。 統一稲とコメ買上げを通じて農民は資本主義市場経済体制の中に吸い込まれていったが、この市場経済はどうしたわけか1974年以後、毎年史上最大の豊作だったというのに農民の収益構造は継続的に悪化していった。
毎年豊作、不思議なことに農民は貧しかった 農民にとって統一稲秋穀買い上げ価格を保障する現金収入はそれなりに魅力的なことだった。 しかし増産システムが持つ慣性が増産拡大のために一般稲の苗代を踏みにじるなど強制農政として現れながら雰囲気は変化した。 しかも重化学工業過剰投資にオイルショックが重なって政府が耐えられないほどに米生産が増えると政府は高米価政策を廃止し農産物市場を開放して都市労働者の低賃金を維持しようとした。 今度は農民は何の緩衝装置もなしに農産物市場開放という暴風に出会うことになったのだ。>>400>>401>>403 >>404 >>405 >>406 >>407 >>409
統一稲が抱えている問題は、保温苗代、肥料と農薬などのために一般稲に比べて生産費が多くかかるということだ。 新品種を栽培するのに必要な設備と資材は全て農協融資金、換言すれば借金だった。 農家の負債は1971年に世帯平均2万9500ウォンから1980年には80万8400ウォンへ急増した。 10年間で農家負債が27倍も増加したのだ。 政府は高米価政策をあきらめたが事実高く策定されていたという秋穀買い上げ価格が実際の生産費には達し得ないという主張が強力に提起された。 カトリック農民会は政府買入れ価格と実際の生産費の差が毎年累積したことを農家負債の急増原因に挙げた。
育種学者らは熱心に統一稲系の新品種を開発した。 核心は味だった。 高い収穫にもかかわらず、味がなかった奇跡の米である統一は1978年になると事実上姿を消した。 1977年には統一系品種で味を改善した‘維新’が新たに出てきた。 「統一稲で統一、維新稲で維新」というスローガンで、維新の栽培面積を増やすための忠誠競争が広がった。 1977年は史上最大の豊作を記録したというものの、維新を植えた京畿道(キョンギド)一帯の農民は涙を流さなければならなかった。 稲の最初の節の部分が腐って稲の株が急に座り込む‘いもち病’が発生したのだ。 統一が消えた後を埋めると期待された維新も1978年にはほとんどなくなり新品種が登場した。 朴正熙は1977年1月21日、農水産部年頭巡視で「これからは新品種が開発されれば開発品種に研究員学者の名前を付けて子々孫々栄誉が持続できるようにしなさい」と指示した。 1977年に新しく登場した裡里(イリ)327号は育種責任者である湖南(ホナム)作物試験場長、朴魯豊(パク・ノプン)の名前を取って‘魯豊’と、密陽(ミリャン)29号は嶺南(ヨンナム)作物試験場長 朴来敬(パク・ネギョン)の名前を取って‘レギョン’と呼ばれることになった。 政府は維新の失敗を隠すために新しく開発された魯豊を大々的に栽培させた。>>400>>401>>403 >>404 >>405 >>406 >>407 >>409 >>410
もともと熱帯性インディカ系の統一稲はイモチ病に強かった。 しかし1978年韓半島を強打した変種イモチ病は魯豊を空モミにしてしまった。 政府の勧誘を信じて魯豊を植えた農民は回復不能な打撃を受けた。 政府のあまりに性急な新品種普及で熱情的な育種学者の名前は農民の怨恨の象徴になった。 魯豊被害が襲った1978年には何と78万人が農村を去り、ほとんどが都市貧民の境遇に転落した。 1978年12月12日、10代国会議員総選挙で予想を覆し新民党が共和党より得票率で1.1パーセント上回ったのには魯豊の役割も相当あった。 朴正熙は魯豊事態が発生した時、姪の婿である農水産部長官チャン・トクチンを更迭したが、農業振興庁長キム・インファンは留任させて変わらぬ信任を誇示した。 しかし朴正熙自身が1979年を越せなかったし統一稲は1979年と1980年にも続けて枯れてしまった。
統一稲の没落は自然災害や病虫害のためではなかった。 統一稲を可能にした増産システム自体が限界に達し、そのシステムの頂点に立っていた朴正熙が市民の強力な抵抗で死亡して、統一稲という新品種と統一稲栽培を強要した強制農政もなくなった。 ほぼ同じ時期に金日成も統一稲の増産に刺激され、単位面積当たり生産量を高めることに注力し、80年代初期には北側も一時単位面積当たり生産量で世界最高を記録した。 しかし略奪農法が持たらした結果はみじめなものだった。 南と北で食糧自給のための道は決して容易ではなかった。https://www.kinnohoshi.co.jp/search/info.php?isbn=9784323025261
モンゴルでの稲作は1997年に日本との協力で初めて成功した、と調べると出てくる。しかし気候条件などの制約で普及には至らずと。
韓国の品種がモンゴルで普及するかが今後の見ものということか。>>413
夏の気温は上昇しているだろうから昔よりは作りやすくなっているかもしれないが水が少なそう
稲作はどこから来たか partII
414
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