미야모토 무사시에 대한 일본인의 생각이 궁금합니다.

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    • 1名無し2017/08/12(Sat) 09:41:37ID:A3Njg5NjQ(1/8)NG報告

      미야모토 무사시는 이천일도류(niten ichi doryu)의 그 무사시를 말하는 것입니다.

      大山 倍達도 그의 오륜서를 읽었다고 들었습니다.

      개인적으로 그 책은 의문이 있다. (당시 일본에서 글을 쓸 줄 아는 것은 학자계급인 승려뿐이라고 알고 있다. 게다가 제대로 된 병서를 만든다는 것은 쉬운일이 아니다. 칼싸움과 병법은 완전히 다르다.)
      어쩌면 전국시대의 병법과 제가 생각하는 병법(손자병법, 오자병법, 육도, 삼략 등등...)이 다른 것일수도 있다.


      아무튼 그의 일본에서의 평가 & 의견을 알고 싶습니다.

      제가 궁금한 점은 그렇게 강한 검객인데 왜 등용되지 못했는가. 같은 것들입니다.
      당시 일본에서는 가신이 되고 나중에 영지를 받아 다이묘가 되는 것이 최고의 출세라고 알고 있습니다.

      외국인에게 가장 유명한 사무라이는 미야모토 무사시인데 정작 그는 등용되지 못했다.
      말년에 어떤 番에서 검술조교를 한 것으로 보아 일부러 은거를 한 것도 아니었다.

    • 2名無し2017/08/12(Sat) 10:34:35ID:c0NTg3NDQ(1/1)NG報告

      巌流島の佐々木小次郎との決闘などは漫画で有名ですけど実際の佐々木は老齢だったので全盛期の武蔵が勝利できたのだと思います。 
      あと武蔵は 関ケ原の戦いで豊臣方に属していたので仕官は困難でした。九州の大名、細川家に仕官しましたけど晩年は決闘などしなくて芸術を愛していたようです。 
      二刀流は実戦的ではないので私はあまり評価していません。ただでさえ重い刀を両腕に装備して戦うのは非現実的だと思います。

    • 32017/08/12(Sat) 12:24:51ID:M4NDY2MjQ(1/2)NG報告

      とみ新蔵

    • 4菜々し2017/08/12(Sat) 12:43:27ID:gwMDM5MzY(1/2)NG報告

      『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。本編20巻全59品(59章)、末書2巻。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。by小幡景憲・・・ウィキより
      日本は戦国時代が長かった為、兵法書は上記以外にも沢山ありますよ。(古代中国の兵法書や実戦で作られたもの)

    • 5名無し2017/08/12(Sat) 13:32:29ID:E0MjY1MDg(1/1)NG報告
    • 62017/08/12(Sat) 16:17:04ID:M4NDY2MjQ(2/2)NG報告

      バガボンド

    • 7名無し2017/08/12(Sat) 16:40:27ID:A3Njg5NjQ(2/8)NG報告

      >>4 미야모토 무사시가 장군으로 전장을 지휘해본 적도 없는데 병서를 만든다는 것이 비현실적이라는 것이 제 생각입니다.

      손자, 오자는 춘추전국시대 장군이었고
      육도 삼략은 태공망, 黃石公이 저자지만 위서라는 것이 통설이다. (시대에 맞지 않는 전차에 대한 것이 있다던지)

    • 8名無し2017/08/12(Sat) 17:03:12ID:g5MTU5OTY(1/1)NG報告

      >>7
      六韜三略は偽書だと俺も教えられた。
      昔日本語に直訳した物を読んだことがあるが
      戦車が荒唐無稽で想像上の兵器が書かれていた。
      宮本武蔵は確か吉川英治の著書では見た目が異形過ぎたと書かれている。
      名前は誰も知らない者が居ないくらい知れ渡っていたけど
      大名側が引いてしまう位の姿で尚且つ知れ渡っていると言う意識はあったので
      少々尊大な態度も取っていたらしい。
      実際仕官されても自分の実力に見合った禄高でないと
      断ったりもしたらしい。
      つまり彼は1人の武芸者で終わるしか無かったと言うことなのだろう。

      現代でも充分あり得る話だね。
      こう言うのを日本では「一匹狼」と言う。

    • 9名無し2017/08/12(Sat) 19:03:50ID:U2Mjg2NTY(1/1)NG報告

      宮本武蔵?小説で有名になった人じゃない?たしか島原の乱で城兵から石をなげられ、梯子から落ちて気絶した人だったぜ。あんまり漫画やドラマを信じないように。

    • 10うん?◆KyUpmG9.1.2017/08/12(Sat) 19:46:43ID:QzNDAxNzI(1/1)NG報告

      僧侶しか文字が書けなかった??
      何処の国だろう???

    • 11ハンペン2017/08/12(Sat) 20:00:30ID:U2NDc4MA=(1/1)NG報告

      無学の身ですが多少なりとも知っていることがあるので掻い摘んで説明いたします。
      実戦経験に乏しいから兵書が書けない。というのは一面では正しく偽書も多くあります。
      宮本武蔵が活躍した江戸初期は日本の歴史では珍しく戦乱が一切なくなってしまった時代なので
      戦争のやり方を書面に残したり、実戦を語り継ぐ軍学者の需要が高騰しました。
      こうした状況の中で山師のような人物が増加し荒唐無稽な兵書が書かれたりしたという社会背景もあります。

      「徳川頼宣」に仕えた「宇佐美定祐」という人物は上杉謙信の軍師「宇佐美定満」の末裔を名乗り
      「越後流軍学」と呼ばれるドクトリンを伝えたがこの人物は全くの詐欺師であることが判明しています。
      つまり戦国の実戦に基づいた兵書というよりも就職のための武器としてでっち上げたものである可能性も高いわけです。

      では「五輪書」はまったくのデタラメなのかと言われればそれも正確とは言えません。
      韓国の歴史を知り戦争と日常が完全に分離された韓国人には理解しづらいかもしれませんが
      平安末期~江戸初期までの日本というのは戦場以外でも殺傷沙汰が日常茶飯事なのです。
      戦がなくなっても宮本武蔵が剣を振るう機会はあったのです。
      このため戦国時代の戦場ではあまり有用とみなされなかった、
      しかし日常の殺し合いには有用な剣術を五輪書では重視しています。

      戦場で使える兵書というよりもこういった日常の殺し合いに使える兵書としての性質が強いのが「五輪書」なのではないでしょうか。
      実際彼は軍事指揮官としてよりも武芸者として名を馳せました。

    • 12名無し2017/08/12(Sat) 20:08:34ID:M1NjMzMDA(1/1)NG報告

      吉川栄治の「宮本武蔵」は戦前の小説だから知ってる人は少数だろう。

      >当時、日本で文を書くことを知っていることは、学者階級である僧侶だけだと知っている
      韓国ではそういうことになってるの?
      当時の有名な兵法書 甲陽軍艦を書いた山本勘助は武士だよ。

      戦国時代は主家が 滅ぼされて浪人した武士が新たなな仕官先を見つける際に、
      兵法の知識を売りにすることも当然あったから、孫子を研究した人も当然いる。
      学問=朱子学なら 藤原惺窩ぐらいだが。藤原惺窩は 公家(貴族)だからやはり僧侶じゃない、
      なんで僧侶だけってことになったんだろう?
      晩年出家したあとに 本を書くことが多いからだろうか?

      戦国時代が実質上終わったのは 1600年の関ヶ原の戦い。
      そのあとは 武士がいらない時代だから 新たに仕官するのはほぼ不可能。
      貧乏武士が家督が継げないときは、道場を開いて 子どもに剣道を教えたりしながら暮らすようになる。
      今だと私塾の先生という感じ。

      武道が洗練化、精神化されていくのは この時代。
      五輪書は その先駆けだと考えればいいと思う。
      実用書ではないということだね。

    • 13バカ殿様ご乱心◆GuTbk9G1MQ2017/08/12(Sat) 21:52:53ID:I4NTQyMA=(1/2)NG報告

      枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)  

      正確な制作年は定かでないが、熊本細川家に仕えた晩年(1640年-)の作と推定される水墨画。
      だとすれば、著名な兵法書『五輪書』とほぼ同時期の作となる。

      江戸時代後期に発表された書物『画道金剛杵』中に『古今画人品評』という
      画家のランキングが掲載されている。
      それによると「上中品」というランクには雪舟や狩野探幽、
      「上下品」には琳派の二代巨匠、俵屋宗達と尾形光琳、
      「下上品]に円山応挙や伊藤若冲などそうそうたる絵師の名前が並んでいる。
      その中で、宮本武蔵は上から6番目の「中下品」にランクされていて、これは応挙や若冲よりも
      ひとつ上のクラスで、武蔵は画人としても一流だったことが伺える。

      枯木のてっぺんに一羽の鵙(もず 百舌 百舌鳥)が佇んでいる。
      その堂々たる威風、眼光の鋭さは武蔵のイメージそのものであるが、一方でてっぺんに向かって
      一匹の芋虫が枯木を這い登っている。
      芋虫を狙う鵙の姿は生と死の狭間の厳しい弱肉強食の世界を思わせる。
      しかし、この絵はそのように単純な弱肉強食の図なのであろうか、武蔵は一体何を描いたのか?
      雄々しい鵙は武士道、剣の道の到達点としての象徴のような位置付けで、そこに向かって這い上がって
      いく芋虫こそが、剣の修行者の姿を示しているのではないかというのが、テレビ東京系『美の巨人たち』
      の中での考察であった。>>1や 皆さんは何を感じるだろうか?

    • 14名無し2017/08/12(Sat) 22:40:28ID:c3NzM2NDg(1/1)NG報告

      戦国時代末期は「剣聖」と呼ばれるような、武芸の達人が沢山いた
      新陰流(新影流)の上泉信綱もその一人
      宮本武蔵よりは、少し前の時代の人
      この人は、袋竹刀を考案したり、武芸を武道に、剣術を剣道に昇華させた

      なぜ、「竹の刀」と書いて「シナイ」なのか?
      新陰流の袋竹刀は、よく「しなう(しなる)」から、「しなう(動詞)」の名詞形が「しない」なのね
      「さぶらう(動詞)」の名詞形が「さぶらい(さむらい=侍)」なのと同じ変化
      韓国のサウラビは関係ないよw

      あと、侍は仕官してない宮本武蔵のような浪人でも、文字を読めたし書けた
      侍の他にも、皇族や貴族、僧侶はもちろん、商人や一部の農民も文字を読めたし書けた
      当時の日本の識字率は3割を超えていたらしいよ
      また、算術や商取引も日本で生まれたものが、現代でも使われている
      先物取引なんて有名だよね

    • 15名無し2017/08/12(Sat) 23:01:43ID:I4MjUwNzY(1/2)NG報告

      宮本武蔵は剣豪として有名ですが、小説や後世の言い伝えの影響が大きく、実際はインテリとして活動した期間の方が長いです。
      自伝の試合の数や勝敗(勝ち数)も疑問視されています。

      でも、書画は当時の一流として認められています。
      宮本武蔵は人気があるので、書画の鑑定はとても厳しく正確に行われます。

      「五輪書」は就職の為のSpec用で、当時は戦争もほとんど無くなって、兵法書と言うより哲学書の様な物です。

      それと、当時でも武士は読み書きは必要な教養です。
      まして就職活動中の武蔵は教養をアピールしなければなりませんでした。
      もう剣の強さより教養が重要な時代になりかけていたので。

    • 16名無し2017/08/12(Sat) 23:11:31ID:A3MDY3MDA(1/2)NG報告

      日本は僧侶しか字が書けないと、韓国の教科書では教えているのか。
      これはさすがに無知というか失礼だろ。

      1000年前にすでに一流の女性文学者がいたのが日本だぞ。
      枕草子や源氏物語も知らないんだろうな。
      西とはいえど、これには抗議させてもらう。

    • 17名無し2017/08/13(Sun) 01:23:34ID:EyMDQwNDE(1/2)NG報告

      >>16 韓国の教科書で
      日本の歴史そのものを学ぶことがないのに何をそう教えて
      文禄・慶長の役や帝国主義時代の事件などを年表で学ぶことだけだ
      日本に対する知識は、大半が日本の小説や漫画ゲームのようなことで
      習ったりしたのを見ると、日本の僧侶が、仮今川テウォンソルジェ
      武田や上杉僧侶に法名を受けるのを見たり
      日本人は、僧侶イジシクな人傑で考えただろう

    • 18名無し2017/08/13(Sun) 01:30:28ID:EyMDQwNDE(2/2)NG報告

      宮本武蔵にも武蔵師匠のような存在が僧侶ではないか?

    • 19名無し2017/08/13(Sun) 11:50:14ID:A2Njk3OTk(2/2)NG報告

      >>18
      証拠になる資料は無いけれど、宮本武蔵は庶民の家では無いので、おそらく読み書きも武士から教わったと思う。
      武蔵が子供のころの時代だと、僧侶が文字を教えるのは農民相手が多かった。
      高等教育も僧侶の仕事だったけど、それは大人が相手で、京都など限られた場所だけ。

      >>17
      法名を受けるのは政略結婚の対策とか、地域によっては寺のお金や兵力を活用する目的だった。
      ただ、そういう習慣は宮本武蔵が生まれた頃にはすでに無くなっていた。

    • 20名無し2017/08/13(Sun) 13:21:13ID:k5Mzc0MTE(3/8)NG報告

      >>16 제가 잘못 알고 있었네요. 미안합니다.

      임진왜란(조선출병) 당시 강항(姜沆)이 일본에 포로가 되었다 돌아와 쓴 간양록 이란 책에서 나온 내용에 의해서 일반적으로 그렇게 알고 있었습니다.

      마침 미야모토 무사시 시대의 일이라 그렇게 생각했습니다.

      일본사에 대해서는 연도표를 조금 아는 정도입니다.

    • 21名無し2017/08/13(Sun) 13:34:18ID:k5Mzc0MTE(4/8)NG報告

      >>14 ssa ul ah bi는 원래 창작입니다.

      1962년도에 김영곤이란 사람이 만든 단어 입니다.

      ssa ul(fight) + a bi(man, father) 정도의 의미인데
      侍 에서 출발한 사무라이와는 어원부터가 다르다.

      무엇보다 조선시대 이전에는 fight를 "싸우다(ssa u da)" 가 아니라 "사호다(sa ho da)" 라고 했기 때문에
      최근에 만들어진 단어 일수밖에 없다.

      이젠 싸울아비가 순우리말이라고 믿는 사람은 많지 않게 되었다.

    • 22名無し2017/08/13(Sun) 13:35:23ID:k5Mzc0MTE(5/8)NG報告

      >>19 태생이 귀족인 무사계급이었다면 가능했겠네요.

    • 23名無し2017/08/13(Sun) 13:54:42ID:Q4MzcxNzU(1/1)NG報告

      宮本武蔵の本名は新免武蔵(sinmen takezou) 宮本村の出身だから名字が宮本なんだ
      彼は僧侶に読み書きを習ったんだよ 沢庵という名前だったと思う
      五輪の書は兵法哲学だから 

    • 24名無し2017/08/13(Sun) 15:30:05ID:k5Mzc0MTE(6/8)NG報告

      >>11 잘 읽었습니다.

      다이묘에게 취직을 할 땐 자신의 전공을 소개한다고 들었는데(몇 번의 전투에 참여했고, 몇 명을 베었다. 같은 이야기. 무사시는 6번의 전쟁에서 4번 선두에 섰다고 말했다고 주장했다고 알고 있습니다.) 그것과 연관되었을 수 있겠네요.

    • 25名無し2017/08/13(Sun) 15:33:27ID:k5Mzc0MTE(7/8)NG報告

      >>9 수많은 실전을 거듭했고, 더욱 강했던 사무라이들보다 그가 더 유명한 것은 안타까운 일이네요.
      세상이란게 늘 그렇지만.

    • 262017/08/13(Sun) 16:06:45ID:I4MTkzODE(1/1)NG報告

      武蔵の親父 新免無二斎

    • 27名無し2017/08/13(Sun) 18:25:01ID:AzNDY0MjU(2/2)NG報告

      >>17 >>20
      なるほど、わかりました。
      日本人も韓国の庶民の歴史とかは、実際ほとんど知らないですからね。
      韓国人が日本について詳しいのは、殆ど近代以降の植民地時代の歴史だけだろう。

    • 28名無し2017/08/13(Sun) 19:12:43ID:k5Mzc0MTE(8/8)NG報告

      >>27 조선반도에 일본이 알려진 것이 그 이후이기 때문인것 같습니다. 한일간의 교류는 조선통신사를 통한 아주 제한적인 교류만 있었기 때문에.
      일제시대에 가장 많은 교류가 있었다.(내지와 반도의 관계로서)

      대한민국 건국 이후에는 새로 유행하는 책들이 주로 소개 되지. 고전이 소개되는 일은 많지 않은 탓도 있다.

      그래서 한국에서 吾輩は猫である는 알아도 겐지모노가타리는 아는 사람이 거의 없다.
      한국에서 아는 일본 소설가는 무라카미 하루키, 히가시노 게이고 정도이다.

    • 29지구인2017/08/13(Sun) 23:59:33ID:U3NTY0MTQ(1/1)NG報告

      한글로 검색하면 알 수 없는걸 여기 일본인들에게 많이 배웁니다.

    • 30バカ殿様ご乱心◆GuTbk9G1MQ2017/08/14(Mon) 02:06:16ID:ExOTk5MA=(2/2)NG報告

      >>28
      >>29
      西を有効に活用しているなら、それでいいのではないかな。

    • 31うん?◆KyUpmG9.1.2017/08/14(Mon) 07:42:42ID:U2NTc0MjI(1/1)NG報告

      >>29
      だから韓国人はインターネットが使えるのに正しい情報を得られないのかな。
      インターネット上が詐欺だらけの可能性を見た。

    • 32菜々し2017/08/14(Mon) 14:20:11ID:k2OTQxOTI(2/2)NG報告

      文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の後、国内の不満がたまり大まかに東西に分かれて関ケ原の合戦があった。
      武蔵は西軍で参戦している。
      負けた西軍の大名は取り潰しや領地の削減があって、多くの武将が浪人になった。
      それでも有名な武将は召し抱えられたりもしたが、まだ無名で若い武蔵は士官できなかった。
      数年たち、浪人たちは大阪城を持つ豊臣秀頼に雇われ、大阪冬、夏の陣があり、負けて霧散し帰農し亡くなった。(武蔵は参戦していない)
      日本の国内が平穏になり、大名も多くの武将が必要なくなった為、武蔵は士官できないままだった。
      武蔵自身は自分を高めるために色々あったわけだけど、興味を持ったのが、当時小倉藩主(現在の福岡県小倉市)だった細川忠興(ガラシャ夫人の旦那で細川幽斎の息子)がきっかけになって、巌流島の戦いがあったわけ。
      その後の武蔵は一人修行し、五輪の書を書いたりした。

      もう少し早く生まれてれば、有名な戦国武将になれたかもしれないけど、平和になった日本国では必要にされなかったのが、武蔵の人生だったと思う。

    • 33通りすがりの韓国人2017/08/16(Wed) 00:25:38ID:QwMzYyMjQ(1/1)NG報告

      最近 宮本武蔵のドラマを見てるけど、お通役の米倉涼子さんが綺麗だね。

    • 34招き猫(仮)◆cQnnkbKLdw2017/08/16(Wed) 00:43:21ID:M4NTI3MzY(1/1)NG報告

      宮本武蔵は悪童で村人から敬遠されてた。
      女ストーカーもいて、洞窟に籠もって風呂に入らず、本を完成させたって思ってるんだけど。

      凡人ではない、0.001%の人だったって。
      そういう人が後の偉人になったって感じてる(笑)

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