天皇家の血に入ってるそうです
韓国・論山市の中学3年生の生徒52人と
引率教師らは、2泊3日の日程で
大阪、奈良、京都を周り
百済文化の優秀さを知る
↑頭おかしいのか?
http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2017041001624>>334
百済ねぇ!なんつって (*´ω`*)>>298
韓系ておい
まだ韓国の歴史は100年もない。>>314
中盤までは良スレだったのにね。だから...
終わらせないよw
時が経ち、荒しも湧かない事を願ってageますwいいえ、"百済が倭を支配した"。反対に"倭が百済を支配した" ではなく、互いに交流が深い"友好的な同盟国だった"と学びました。
>>338
そうだよね。書物から読み取れる歴史しかわからないけど、読む限りは良好な関係
だったと思うし、好き嫌い言ってられない厳しい世の中だったんだと思う。
日本人としては、百済の歴史を、現代の韓国人が自尊心を満たす為に創作している様に
感じてしまう。とても残念だ。新羅とずっと敵対関係だったわけではなく
有史以前の国家意識が芽生える前は
北九州、出雲、北陸と新羅、伽耶は交易を行っていた
白村江の後も関係は修復している
さらに白村江の時点でも
日本のある勢力は新羅と関係を持っていた節がある
新羅との関係悪化の直接原因は
①高句麗の南下による新羅の南下
②伽耶地方特に金官伽耶の帰趨問題
③新羅の慢性的な食糧不足
④沿岸航路で中国に至る日本への百済の便宜
⑤新羅と敵対する百済の日本への積極的接近
それぞれ長文の説明を要するが割愛する>>341
アメリカではナチュラルにアフリカ系がアジア系を差別している。
白>黒>黄色
まあ、在米経験あれば誰でも知っている事。
まあ、日本が黒で、韓国が黄色、と例えるならば、確かに似ている(*´エ`*)まあ、韓国では「韓国人によるアフリカ系差別」が常識のようだけど、
世界を見れば、
「アフリカ系>>>>>>>>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>>>>>韓国人」
だよ(*´エ`*)4、『北史』は「扶余王仇台は公孫氏と同盟して帯方郡を経営した。郡のもとに倭人と韓人がいた」という。この帯方郡が南扶余.(ありしひのふよ)ともいう百済国のおこりであって、百済の本当の祖王仇首は扶余王仇台その人であった。
5、伯族の扶余王仇台は百済王仇首であり、伊都国に進んでイワレヒコこと神武天皇になった。従って公孫氏の女(むすめ)とある仇台妃は卑弥呼であり、かつ神武妃ヒメタタライスズである。(図3参照)。
『晋書』倭人伝には、「漢末倭人乱攻伐不定。乃立女子爲王。名日卑弥呼。宣帝之平公孫氏也。」と明らかに記している。勿論『記紀』はこのことにふれないが、『桓檀古記』には「イワレヒコは伊都国の王である」と書いてあって、邪馬壱国が神武夫妻の合作だったことを教えている。(図、三参照)この問題も第六章に詳述する。
だからのちの南朝天皇家は扶余王仇台、百済王仇首、のちの神武天皇が朝鮮の帯方郡から南下して九州を侵略したのが始まりであった。
帝国憲法の英訳ではこのことを「天皇の祖先は日本に来た(come)」と書いているwww>>344
桓檀古記みたいな20世紀に書かれて出版された偽書認定されてる歴史書を根拠にされてもな。
それと、晋書の個所の原文は
漢末,倭人亂,攻伐不定,乃立女子爲王,名曰卑彌呼。
(漢末期に倭人に乱があり戦争によって不安定になったが女子を王に立てた、その名は卑弥呼という。)
宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。
(宣帝が公孫氏を平定すると、その女王は遣使して帯方郡で朝見し、その後も貢聘が絶えなかった。)
という文章で、そういう漢字単体の意味だけで都合よく解釈したような内容の文章ではないよ。
宣帝というのは司馬懿(司馬仲達)の事で、まだ魏の臣下だった頃の238年に、遼東(現在の遼寧省)で発生した公孫淵の反乱の鎮圧を命じられ成功して、その直後に倭国の卑弥呼からの遣使が来た事は三国志にも書かれている。>>344
例えば4.の「北史」~郡のもとに倭人と韓人がいた。という。これ以降の
「この帯方郡が南扶余.(ありしひのふよ)ともいう百済国のおこりであって、百済の本当の祖王仇首は扶余王仇台その人であった。」
これは何処から引用してきたの?それと北史は南北朝時代の北朝に関しての書だよね。百済の建国について書いてるとは思えないんだけど。だいたい帯方郡は現在の北朝鮮南西部でしょ。百済はそれより南の朝鮮半島南西部の小国(馬韓だったかな?)が併合して建国が定説だよ。出来れば引用元(怖いもの見たさでの興味があるw)のリンクを貼って下さい。
>>346
君は日本のアニメに感謝しつつ、西で二次元ロリコン談でも熱く語りなさい。百済は親日だろう
>>349
中臣鎌足は新羅人www
藤原鎌足は新羅の金さんで
文武天皇は新羅の文武王であった
「大化の改新」www百済の隣にあったとされる任那日本府の事は韓国人にはご法度
百済は半島の歴史であって朝鮮民族の歴史ではない
>>354 その通り
支配層は満州民族か縄文人だったが、その他の住民がみんなワイ族になってしまった
支配層以外の住民(95%くらい)がワイ族だったから、奴隷にするしかなかった
ワイ族ばかりになったので、朝鮮半島は進歩しなかった韓国人の中には、百済が日本に文明を教えてやったのだから恩があるはずだと主張する人が少なくない。
しかし、土木・養蚕・機織などの技術を持ち込んだ秦氏、千字文と論語を伝えたとされる王仁博士、造仏の卓越した技法を伝えた止利仏師など、文化を伝えてきたのはいずれも百済にいた漢族だ。また、百済から多くの文化を輸入する一方で、日本は高句麗、新羅、唐などの侵略行為に対抗する軍事的支援や任那の割譲など対価を支払っている。
そして、『隋書』には「倭国は大国で珍しいものが多いので新羅や百済はかしこみ敬い、使いを派遣している」とある。一方的に文化が流れたのではなく、相互に伝えられたのだ。そもそも百済を侵略した新羅が現在の韓国であり、百済からは多くの帰化人が日本にやってきた。韓国が百済の継承国家として恩を売ること自体、無理がある。>>356
漢字を生み出した中国が日本に感謝しろとは言わない。
ゼロの概念を作ったインドが日本に感謝しろとは言わない。
天然痘の予防法を生み出したジェンナーの国イギリスが日本に感謝しろとは言わない。
電球を発明したエジソンの国アメリカが日本に感謝しろとは言わない。
なぜ、韓国は日本に文化を伝えたことを感謝しろと言うのか? または、そのような優位性をほのめかすのか?
称賛や感謝は自発的だからこそ美しく、誇らしくないか? それとも、日本が韓国に感謝しろと言い始めたのだろうか。確かに、ここに来る日本人は面白おかしくからかう人が多い。やりすぎはよくないだろう。
学校でどのように教えられているかは、この際忘れよう。恩着せがましい発言は、公の場でもブログ討論でも美しくない。仏教伝来は、538年(日本書紀では552年)で、百済の聖明王の使いで訪れた使者が、欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したのが渡来のときとされています。
朝鮮半島の百済から献上され、渡来したのは事実です。
ところがこの頃の百済(くだら)は、日本の属国です。
国王の世継ぎの王子を日本に人質に出してもいました。
このことは、日本書紀だけでなく、朝鮮半島の史書である三国史記にも繰り返し出て来ます。
世継ぎを人質に出していたということは、どうみても、平等な関係ではありません。
なぜこのようなことになっていたかというと、百済は対立する新羅や高句麗から常に軍事的脅威にさらされていました。
ですから日本に常に、政治的、軍事的、経済的な庇護を求め、むしろ積極的に属国になっていたのです。
百済王は、そのための証に、我が子を人質として差し出していたわけです。
本来、庇護を受けるだけなら、謝礼として、自国の文物や特産品などを献上すれば良いのです。
ところが百済には、産業もなければ産物も特産品もない。
だから、そこで百済王が日本に差し出したのが、自分の息子だったし、支那で流行していた異国の仏教の教典や仏像だったわけです。
ということは、538年に百済が日本に「金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上した」という事実が物語るのは、当時の百済には、異国の仏像や教典、仏具以外に、献上できるだけの物産が「なにもなかった」ということです。
それを、「俺たちが日本に教えてやった」とは、おこがましいにもほどがあります。- 359名無し2021/10/14(Thu) 11:46:25(1/1)
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漢字や紙、筆、墨、硯(すずり)にしても、韓国が日本に「教えてやった」というけれど、彼らが言う「教えてやった」という時代は6世紀です。
ところが日本には、「漢委奴國王」の金印があります。
この金印は、後漢書の「卷八五 列傳卷七五東夷傳」に記述があり、後漢の光武帝が西暦57年に奴国からの朝賀使へ金印を贈ったとされています。
西暦57年といえば1世紀です。
印鑑というものは、行政書類に押印するために使われるものです。
文字が使用されていなければ、印は不要です。
金印が証明していることは、すでにこの時代に日本では、文字も漢字も使われていたということです。
ちなみに、支那の歴代王朝は、日本には「金印」を贈っていますが、朝鮮半島の王朝に対しては「銅印」(泥印ともいいます)しか渡していません。
金銀銅の順番は、現代オリンピックの勝者の順番だけでなく、古代においてもまったく同じです。
それだけ支那は日本に重きをおき、逆に朝鮮に対しては露骨に見下していたわけです。
それだけの国力しかなかったからです。
また、片部遺跡から出土した墨書土器は、4世紀前半のものですが、そこにはくっきりと墨痕鮮やかに「虫」という文字が墨書されています。
土器に墨で筆で書かれているのです。
悪いけれど、百済が成立したのが西暦346年で4世紀の中頃ですから、百済成立よりも以前に、日本では墨で書いた文字が出土しているわけです。
さらにいえば、種子島の広田遺跡から出土した貝札は、これは2世紀頃のものとされているのだけれど、そこにも鮮やかに「山」という字が刻まれています。
つまり、346年という4世紀どころか、それよりもはるかに古い2世紀には、日本に漢字は入って来ていて、しかもそれが使われていたということです。そしてそういう教養と文化の下地があったからこそ、支那でヒンズー語を漢字に翻訳した仏教教典の値打ちを日本人は理解したし、遠く離れた内陸部の異国の文化を、喜んで迎え入れたわけです。
つまり、何を言いたいかというと、冷静に考えれば、「日本が百済に漢字を教えてあげたことはあったとしても、その逆はあり得ない」ということです。そもそも朝鮮から日本が教わったことって、何があるのでしょうか。韓国人は、日本列島と中国大陸が直接交流していた事を絶対に認めない。
韓国と百済は関係ないw
百済人
「韓国は侵略に対し謝罪と賠償が必要」
韓国人
「…」百済が潰れた後
王を擁立してやったのに
結局自滅した
真正のアホでんな>>24
韓国では人口に関する評価が進んでいないようだけど、食料生産の規模から推定されている人口は、
高句麗40万人、百済30万人、新羅30万人、日本400万人ほどらしい。推定時期は白村江の戦いの前後。
ただし、日本は半島と直接関係を持たなかった東日本の太平洋側も含めての話。
人口は水田稲作の普及と共に増えていったから、九州と西日本の方が多かった。
当然九州から朝鮮半島へも、水田稲作は伝えられたが、気候(寒さ)と水運(灌漑用水路の欠如)のために根付かなかった。
東日本の縄文人は、水田稲作を知らなかったのではなくて、故意に取り入れることを拒んだようだ。
実際に、水田稲作が入ってきて(およそ3000年前)まもなく、関東から九州へ船で渡った形跡が残っている。
水田稲作は、富の蓄積を推進して、貧富の差を拡大させるから、水田稲作が普及して変質してしまった社会を見て、縄文の社会構造を壊すから取り入れるべきでない、と判断したのかもしれない。
結果的に、関東周辺まで水田稲作が普及するのに400年ほどかかっている。
その間、東日本への移住はあまり進まなかったが、船を使っての交易はしている。
関東よりも、先に青森で水田稲作が根付いたのは、縄文交易圏が日本海沿岸の海運を中心に発達していたせいだろう。その交易圏に朝鮮半島の南部も含まれていた。それが3000年前から2500年ほど前の話。>>360
大陸文化の流入路は、半島南部から半島西部を通って、その先は海路。
遼河河口へも黄河河口へも、縄文人は船で到達していた。
5000~6000年前ならば、およそ7000年前に朝鮮半島に渡った縄文人が、周辺の地理をかなり把握し始めていた頃。
中国最古の王朝である夏王朝は、首都が洛陽で黄河の中流域。黄河文明に対してのアクセスは、縄文人にとっては必然とも言える。
一方、朝鮮民族の祖先は、まだ朝鮮半島に入ってきていない。
つまり、中華古代王朝文化は、日本に対しては、縄文人および後から合流した倭人から直接もたらされた、と考えていい。
大雑把に言えば、大陸先進文化は、縄文人・倭人を通して、半島東部に移り住んできた朝鮮民族の祖先に伝えられた、と考えるのが妥当。
百済は元々、縄文人の住む地域だったところに、西方の大陸文化を持った古代中国人が移り住んできて、混血した地域。だから、言語は古代日本語がベースになっていて、語彙の多くが内陸中華文化の語彙に置き換わったような言語になっていたはずだ。
百済人と日本人の間に通訳を立てなくても意思の疎通ができた、というのは、知らない語彙を覚えるだけで良かったからではないか。
一方、新羅人とは通訳を通さないと意思の疎通ができなかった。新羅も倭人の混血地域ではあったが、倭人の割合が少ないために、言語が北方民族の言語がベースになったのだろう。そのため倭人にとっては覚えるのが簡単ではなかったはず。多分、発音の仕方もかなり違っていたのだろう。
韓国人には酷なことだが、近代以降だけでなく、古代においても日本人から文化が伝えられた、というのが合理的な考え方。それは、3000~2000年前くらいの人骨を詳しく調べれば容易に確認できるはずだが、勿論韓国の学会がそれを許すはずもない。百済と新羅の時代に朝鮮半島に住んでいた日本人が文明人として他の民族から尊敬されていたこと
百済と新羅から帰化した人からの朝鮮語の伝搬が見られないことから、帰化人とは朝鮮半島に住んでいた日本人であったこと(帰化人を渡来人というのは誤り。文字通り帰ってきた人達。朝鮮半島からの帰化人は引き揚げ者)
昔から今まで常に日本列島が朝鮮半島よりも文明文化が進んでいたこと
済州島にはKoreanとは別の言語・風習を持っていた、朝鮮とは別の民族が住んでいたにもかかわらず、済州島を併合してしまったこと
1948年に、済州島の民族を大虐殺したこと
済州島の民族の言語とアイヌ語に共通な語があって、済州島には日本列島と同じ民族が住んでいたこと
元寇の兵の大半は高麗人(Korean)だったこと(韓国では元寇を元の「日本征伐」としていて、高麗人が元寇の主力兵だったことを教えていない)>>366
なぜ百済の書物が何も残っていないか、と言えば、それは百済を征服した民族にとって価値の無いものと見なされたからだ。つまり、新羅が百済を征服した時期において、漢文を読めるものが殆どいなかった。ごく一部には、居たかもしれないがその数は僅かでしかなく、内陸から移り住んだ帰化人であったろう。
現存する朝鮮半島最古の文書(その内容が遺されているもの)は「三国史記」だが、1143年から1145年にかけて書かれたものであり、その頃までに漸く新羅にも漢文を読める人たちが増えていた。
日本書紀の完成が720年とされることを考えると、漢字の支配層に対する普及には約400年の開きがある。国家レベルで漢字の重要性に気が付くまでに数百年を要した、ということだ。
しかも、その内容を見れば、その当時の漢文文書からの寄せ集めとそれに足し加えた創作であり、それまで新羅および高麗にはまとまった文書が殆ど無かったと考えられる。つまり、手元にあったのは、中華文化で遺された膨大な文書のうちの一部の写本だけだった。
これはつまり、漢字文化が新羅には根付いていなかった、ということを意味する。多分一部の僧侶が写本を行っているレベルでその波及効果があまり無かったのではないか。
日本人ならば、文字の書いてあるものには貴重な情報が込められていると考え、読めなくてもそれを遺していずれ読めるようにしよう、と考えるものだが、古代日本人と新羅人では全く価値観が異なっていたようだ。それは取りも直さず、彼らが文字の無い地域からやってきたことを意味する。>>369
日本では、百済人の貴族階級の亡命者の多くが大和朝廷に役人として雇われたが、それは彼らが漢文を読みこなしていたからだ。だが渡来人として扱われた彼らは、中々高位の身分を得ることができなかった。
それでも渡来人系の氏族からなる文書を司る役職である「史(ふひと)」は、当時の中華系言語にも日本語にも通じている者として、渡来人の中では高位となる扱いを受けた。韓国では『百済や新羅が日本を作った』というのが定説となっています。日本統治時代の朝鮮の歴史家、申采浩は『カタカナなどの日本文化はすべて百済人が作った』と主張した人物で、古代朝鮮による中国支配説も唱えました。
一方、同時期の歴史家、崔南善も日韓古代史に言及し、『百済も高句麗も新羅も日本に多くの植民地を持っていた』と書いています。韓国の学者が主張する古代史の主張のほとんどは、この二人の影響を受けたもので、古代史観の“源流”とも言える。実証的な研究をほとんどせず、先人が構築した仮説を鵜呑みにし誤った歴史認識を拡散させているのです」
『魏志』には倭人伝の前に韓伝があります。それによると、百済は朝鮮半島に50ほどある国のひとつだった。一方、当時の日本には卑弥呼が統一した国がありました。そのような状況でどうやって百済が日本を支配するのでしょうか。
また、韓伝には『(韓は)東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する』との記述もある。つまり、朝鮮半島南部が倭人の地であったことを中国の史書が示しているのです」百済人と朝鮮人は別々の人種なのですか? よくわからないので教えてください。
ベストアンサー
百済国の出自構成は複雑で未だ明確でないようですが支配層は満洲系扶余人,民衆は韓族と考えられています.
それに中華からの移住者が加わります.倭人は彼等をまとめて百済人と呼びました.
次に平壌を中心とする鴨緑江の東方一帯を中華側が朝鮮と呼んでいました.したがって古代においては半島南部に居住する
韓族と北部の朝鮮族は本来別のものでした.
やがて韓族の新羅が半島をほぼ統一した頃は新羅人,後高句麗改め高麗が統一した頃は高麗人と呼びました.そして李成桂が朝鮮を建国してからの500年間は朝鮮人と呼びました.
大韓帝国として自立したものの13年間の短命で日韓併合後も公式には韓国としながらも民衆に対しては朝鮮人と呼ぶことが少なくない.なお北朝鮮は朝鮮の本元なので現在公式国名に
していますが.結局,振り返れば旧石器時代からいた人達を祖先とする韓族,
朝鮮族,ワイ族が居る所へ,古代,北方から扶余人,扶余系の高句麗人が侵入し更に中華人移住者が加わって混然一体化した半島全体の民衆が現在の朝鮮人または大韓人となります.
(付)人種的には日本人も含め全てモンゴロイド,言語系統も文法構造の同じアルタイ語系で主語+目的語+動詞,助詞も発達していて遠い昔は大陸の同じような所にいたことが伺われます.
なお百済の首都“漢山”は現在のソウル付近にあり韓人の多い半島南部よりかなり北に位置します,これは強敵高句麗の支配域に接するにも拘わらず中国との連絡が取りやすい場所です.進んだ中国文化を積極的に取り入れ,倭人に漢字漢文を教えたり
倭国から中国皇帝に朝貢する際の通訳もしてくれたようで,仏教を伝える他,古代の日本に多くの文化的貢献をしています.
やがて大唐帝国と新羅の挟み撃ちにあい滅亡しますが大挙(一説に数万人規模)日本へ亡命をしています.
現在教科書や博物館などでは,百済,高麗,韓国,朝鮮がごっちゃに使われていますがケースバイケース厳格に区分して用いるべきです.特に百済人≡韓国人ではありません.百済は、親日国だったよ
「日本書紀」推古天皇31年の記述
この年、新羅が任那を討ち、任那は新羅に属した。
そこで天皇は新羅を討とうとされ、大臣に謀り群卿にも問われた。
~中略~
田中臣が言った。
百済は度々豹変し裏切りの多い国である。
道を行くあいだでさえも嘘を吐く。
およそその言うところは皆信じられない。
百済に任那を付けたりすべきではない。
そして新羅を討つことをやめた。仲良しだろう
>>373
百済人はそんなに多く来てないと思います。白村江の戦いで敗れ多くは殺され、奴隷にされ、唐に多くは送られた。その時、日本に来た百済人は3000人程度で倭人の船で渡って来た。船もないのに数万人も渡って来れない。9世紀の新撰姓氏録には近畿地方の百済人の官人が106氏載っている。当時の日本の人口700万人、百済人が渡って来たのはせいぜい数千人だろう。朝鮮半島の南西部の馬韓と呼ばれた地域には小国家群があった。
小国家群の中のひとつが成長拡大したのが百済だ。
高句麗は満州から朝鮮半島に侵入して来て朝鮮半島の北半分を領土に加え、ソウル付近で百済と戦闘となった。
すると百済はまぐれで戦闘中に高句麗王の殺害に成功した。
そして百済は現在のソウル付近に都を置いて高句麗と対峙した。
朝鮮半島の南部には倭国の各地域の豪族が古代から進出していたが、当時は倭の五王の時代でヤマト王権が倭国を統一しかけていた。
百済は成長拡大したが、倭国の各地域のひとつの豪族とそれほど変わらない国力しかなかった。
百済以外の馬韓地域の小国家群は、成長拡大した百済に従う国々と倭国に従う国々に分かれていた。
倭国に従っていた国々の首長たちは自らの墓を日本固有の墳墓形態の前方後円墳とした。
後には倭国に従った国々は百済に併合されてしまう。
百済が倭国に軍事支援を求めて朝貢し人質を差し出したのは、併合されて百済人となった以前倭国に従った国々の人たちが百済と倭国の仲を取り持ったのだろう。백제가 삼국을 통일했으면
역사가 달라졌겠지
지금 신라의 후계가 고려, 조선이니.>>379
高麗は新羅王族を吸収したが、
李氏朝鮮は、高麗の王族を船で沈めてるので、
後継として断絶している。韓国人の言う百済とは古代の超大国で、世界4大文明の源流は百済にあると言われる。
すなわち、エジプト百済、メソポタミア百済、インダス百済、黄河百済。
エジプト百済は地中海百済に発展し、ギリシャ百済、イタリアではローマ百済が生まれた。
ローマ百済はさらに発展し、神聖ローマ百済を建国し、ヨーロッパ全域に百済の影響力を広げる。
よって、ヨーロッパ百済は全て韓国人のおかげと言え、イギリス人のみならず、全てのヨーロッパ人は韓国人の子孫と言える。
また、アメリカ大陸でも、マヤ百済、アステカ百済が独自に発展したのは、世界最高民族韓国人が密かに海を渡り、百済文明を広めたからだと言われる。
日本の奈良百済は古代の超大国百済の影響力の微々たるものに過ぎない。
これが韓国百済学の超最先端学説である。まあ、主にですが...
当時の日本と中華の交流に関する、手軽な媒体の一つが百済かと。
日本と百済の関係について
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