上杉謙信、武田信玄を話す日本の歴史小説(SAIONJI GOGOROの空と地、井沢元彦の信濃戦雲録)を読んでいますが.
一番難しいのは, 当時,関東地方の状況を知って読めば, 理解になりそうなので.
いったん質問をすべて整理しましたが返事をお願いします。
1. 鎌倉府 = 京都の足利将軍の同じ血族が京都の足利将軍に代わって 関東地方を実質的に 支配する政府ですか?
2.鎌倉公方 = 鎌倉府のナンバー・ワンですか?
3.関東管領 = 鎌倉府のナンバー・ツーですか?
4.古河公方 = 滅亡した.鎌倉公方の子孫が勝手に鎌倉公方を 自称した 人ですか?
5. 堀越公方 =京都足利 将軍が正式に任命した 鎌倉公方ですが。 ある事情で、鎌倉に入ることができず伊豆に政府を設置した 正統性のある, 鎌倉公方ですか?
6.韓国のWIKI百科には上杉謙信の4次川中島戦闘(ハチマンパラ戦闘)から手取川戦闘以前までは空白であるため、知ることができません。 謙信の八幡バーラ戦闘から手取川戦闘以前までの謙信の歴史を教えてください。これは江戸時代の軍旗もの。
上杉謙信が初めて上洛した折の事
まず、京を支配していた三好長慶の屋敷に挨拶をしに行ったが、長慶は仮病や居留守を使い
けんもほろろと、相手にしなかった。
これに腹を立てた謙信、宿の主人に、長慶とはどういう人間かを聞いた。あれこれ話しているうちに
謙信「三好殿は、普段どちらへお出かけするのか?」
宿の主人「北野神社を信仰されており、毎月参拝されます。明後日もそのためにこの宿の前を通ると思いますよ。」
謙信「ではお出迎えの準備をせねばいかんな」と、家臣に命じ、弓に弦をかけさせ、槍を磨かせ、鉄砲の整備をさせた。
宿の主人はこれに驚き、長慶の屋敷に駆け込んだ。
宿の主人「越後の長尾様のご一行が、大変な準備をしております!」
三好家も驚愕し、急遽家宰の松山新入斎を宿に派遣した。
謙信「やあ、やっと話の出来る奴が来たな」
そこで松山と談合し、将軍への謁見の段取りをつけさせた。有名な永禄4年の、第四時川中島合戦の後の話。
上杉謙信は、武田信玄と和平を結ぼうと、長遠寺の僧に、その仲介役を頼んだ。
謙信「甲斐の家士に、向井與左衛門と言う者がおるか?」
僧「は、いらっしゃいます。」
謙信「その男には、傷跡は無いか?」
僧「…は?そういえば顔に刀の跡があったようですが…」
謙信「うむ。その男である。実は先の川中島合戦の折、その向井は名乗り上げて、後ろからわしを槍で突き通そうとした。
そこでわしは、とっさに振返り、刀で斬り払った。
あの手応えでは、よもや助かる事は無いと思っていたが。そうか、生きながらえておったか。」
そこで謙信、その合戦のときに着ていた、向井の槍跡の残る萌黄の胴肩衣を取り出し、
それに書簡を添えて、
「おぬしの武勇、見事であった」
と、向井與左衛門へ送り届けた。
これを世に『かえり感状』と呼ぶそうである。上杉謙信が武田信玄との合戦の時、謙信は自陣を超えて突出した。ところが、川向うの信玄の備を見て、戦うこと無く引き返した。
その信玄の備は、一の手が若武者によって、二の手が老巧の者達によって作られ、川に向かっていた。
謙信が引き下がったのは、この備の構成が
「一の手の若武者を用いる時は、二の手の老巧の者達に恥を見せぬよう一層尽力する。また二の手の老武者たちも、若者に劣ってはならぬと、互いに競争して働くためである。」
との理由からであった。
(紀伊國物語)
ローマ軍も前列若手→中堅→ベテランの順
ハンニバル軍も傭兵→市民兵→古参の順
前列にベテランを置くと、前列さえ突破すれば、総崩れてしまう為。
朝鮮戦争でも、中国軍は、前列に降伏した国民党兵を突撃させて、共産党兵は後列で督戦隊だったね。かえり感状の逸話は興味深いね。武田家中で大いに羨まれたとか。
湯浅常山は『甲陽軍鑑』に批判的で謙信びいき。『常山紀談』は謙信の逸話が多く収録されている。群馬郡高崎の城主、和田兵衛太夫の弟である和田喜兵衛は、昔の名を小膳といって、若い頃より上杉輝虎に仕えていた。
ある時、彼の兄・兵衛太夫が甲府の武田信玄に内応して、深谷、倉加野、高山などと語らって不意に箕輪を乗っ取ろうと企てていると、密使を以て輝虎の近習で、朋輩でもあった小野伝助に知らせた。
喜兵衛「このような状況であるので、人数を少々向けて頂きたい。あとは自分が手引して、謀反人は追い出します。」と伝えた。
上杉輝虎は小勢で箕輪に向かっていたが、この事を知ると、その足で高崎城へと向かった。
ところがその途中で、これを知らせ、高崎城に居るはずの和田喜兵衛に出会った。
喜兵衛「謀反の事は、自分の聞き違いであり、それで使いを出してしまったが、そのことが露見して城にも居られず逃亡してきました。」
そうして、この鳥川で輝虎に出会ったのだという。この旨を伝えられると、輝虎は以ての外の
怒り様で
謙信「このような未熟な内通で出馬を促すとな何事だ!」
と、同行した小野伝助もろとも、和田喜兵衛を切り捨てた。
輝虎「この上は、聞き間違いであったと言って、厩橋に戻るのも後日の笑い草と成る。火のない所に煙が立つわけでもあるまい。小勢ではあるが、いっそこのまま高崎城を一攻めに攻めてそれから考えることとしよう。」と考え、まっしぐらに高崎城へ向かった。
到着すると、輝虎は自身鑓を取って大手門へ突っ込み、続く直江実継、大関親益、永井尚光といった家来たちも負けじと駆け込んだ。
高崎城の人々は訳が解らずも迎え撃ったが、一つ二つと城門を破られた。城主和田兵衛太夫も剛の者であったから、自ら鑓を取って暴れまわった。
そのうちに輝虎は、「今日のところは無勢でもあり、兵も将も疲れ果てているから」と引き上げを命じた。
さらに輝虎は行きがけの駄賃であると、郭外に放火し、早々と厩橋へ帰っていった。
(関八州古戦録)
内乱が誤報でも、その城を落城寸前まで攻めるラオウ永禄6年、上杉謙信は越中の隠尾城を落とすべく軍を進めていた。
城を守る南部尚吉は徹底抗戦の意志を固めていたが尚吉の娘婿である新開右衛門尉以下主だった者たちは謙信にはとても敵わないと、尚吉に開城を勧める。
右衛門尉は妻を実父に遣わしてまで説得するが、尚吉の決意は変わらなかった為、謙信に内通の使者が送られることになった。
使者が携えていた書状には
「城を取り囲んで3日目の夜に城門の閂を外しておくので粛々と先頭は小勢にて攻め込まれよ」と記してあった。
これを披見した謙信は
「さしたる要害でもないのだから、城を落とすに謀は要らぬ。また【不義の者たちに与するものまた不義である】。しかも、父の尚吉の扱いを如何するか記されていないのは、不審である」
として、使者を追い返そうとした。
しかし近習の者が
「小敵と侮って思いがけぬ戦いになった例は古今数知れず。勝ち易きに勝つを選ぶは軍兵のためでもある」と諌めたところ、謙信も承知した。
しばらくして手筈通りの夜襲によって城は混乱に陥った。尚吉は館に籠って奮戦し、10人ばかり討ち取るも、最期は上杉兵によって討ち取られた。
右衛門尉「今よりここは我が城。本意を遂げたり」
と大笑し、謙信に会うため馬に乗ろうとした。
ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉は、そのまま息を引き取った。
これを知った右衛門尉の妻は悲嘆して自害しようとしたが制止され、後に仏門に入った。
これを聞いた謙信は
「天命ほど恐ろしいものはない。少しでも行いを誤れば、大きな報いを受けることになり、見通すことも難しいものである」と自戒した。
(越中古城並雑書記)永禄八年七月、上杉謙信配下の柿崎和泉、北條丹後は上州下分にて働き毛作を刈り取り、そこから和田へ取り詰め巡見をした所、武田衆が堅く守っていたため早々に引き取った。
この時、青沼新九郎という上杉謙信寵愛の小姓が遠筒(鉄砲の流れ弾)に当たって疵を蒙り、翌日前橋に於いて死去した。
この青沼新九郎は、北條丹後の与力・青沼勘兵衛の三男で、久しく越後へ相詰め、休暇として六月より父の在所に在った。
謙信公は佐渡より御帰城なされ、この新九郎の死を知らされると、彼が御暇を申さず忍んで父の在所へ罷り帰り、剰え多日逗留した事は是非にも及ばぬと激怒された。
そして既に掘り埋めてあった彼の屍を引き出させ、これの首を斬り獄門にかけ、父子兄弟悉く追放された。
(松隣夜話)
越後で待機していなければならないのに、無断で実家に帰って戦争に行き、戦死するまで3ヶ月も自分の役目に戻らなかった。
一族も新九郎を役目に戻るように計らわなかったので、戦死して埋めてた遺体は掘り起こして打ち首獄門。家族も追放処分という話。>>200
『甲陽軍鑑』は江戸時代に勝手に加筆されたりで、載ってたり載って無かったりする逸話がある。
太田三楽が支配する松山城を、北条&武田の連合軍が攻め、三楽は上杉謙信に救援を依頼するが、謙信到着の2日前に、松山城の上杉友貞は降伏してしまう。
謙信「わしの到着前に落城とは何事か!」と、先ず三楽を〇そうとする。
三楽「待って下さい!降参した友貞の子供と弟を人質に取ってあります!」
謙信「それを早く言え!」人質の頭を左手で掴み上げ、右手の刀で真っ二つ。
まだ気の収まらない謙信「この辺に、氏康方の城はないか?」
三楽「三十里ほど先に、山の根要害ってのがあります」
謙信「そうか!」聞くや否や、挑発ついでに北条&武田軍の向かい側をわざわざ通って、要害に直行、そこに篭っていた老若男女3000人を皆〇し!さらに、山の根要害への道案内をしなかったと言う理由で、前橋城主、長尾謙忠を成敗!ついでに、その家来も2000人ほど皆〇し!
そうして、どうやら気の収まった謙信公、越後に帰って行った。この話、「甲陽軍鑑」で褒めた話として載ってる。
しかし
・甲陽軍鑑には上杉友貞って書いてるけど、そんな人物は上杉一族に居ない
・この時の松山城城主は上杉憲勝
・『関八州古戦録』では、この人質を斬らずに助けてる
・上杉憲勝が差し出した人質自体、実は系図にすら載っていない
・長尾謙忠という人物も甲陽軍鑑にしか出てこない架空の人物
・長尾謙忠→厩橋謙忠?の場合は、死因は病死
・北条に厩橋城を奪われ、放浪していた所を謙信に城を奪い返してもらってる
・山の根要害→騎西城
等、この話は、信憑性が低い逸話。ある時、河田豊前守の所に、北條丹後守、同伊豆守、直江山城守(大和守景綱)、甘糟近江、長尾小四郎、本庄清七、以下数人の会食があった。饗膳事終わりの時、直江がこのように申した。
「今日、日本国に於いて主人に仕るという時には、太田三楽と謙信公に如くは無しと、他家もそのように沙汰されるそうだ。
惜しきかな太田三楽は、翻胃という悪病に罹り今日明日を知れぬと承っており非常に無念に存じられ痛ましいことだが、これについて私はこの頃、寝食も快からぬほど思っている事がある。
それは謙信公の御在世が長久有るまじきように了見しているから。
一つには謙信公は去年より御病気にも成られていないのに日を追って体のお肉が落ちてきてる。
二つには御自身が御自世を短く思し召されている。
三つには我が君である謙信公が持たれている善悪を鑑みるに、この一両年、お怒りに成るということが殆ど無く、不祥の者であっても猶以て御恵を加えられる。
信玄が末期の時『信長家康には果報が有る。必ず天下の主と成るためには、法性院(信玄)が先に死んで謙信も死ぬ必要がある。この2人のうち1人残って、あと5年生存すれば、信長家康は滅びるだろう。しかし謙信も5年以内に必ず死ぬだろう』と言っていた。
もしこの意見と違い、そうではないという道理が有るならば、心配を払拭したい」
こう語った所、甘糟近江、河田豊前、長尾小四郎は同音に申した事には
「これは如何なる凶事であろうか、我々も大和守の御所存と相違わず、かねてより考えていたところで危ぶんでおりました。しかし大和守殿も同じご了見であるとは。これについて、丹州、豆州はいかに思し召すか?」
こう問われ、諸将は一言の反論にも及ばず、ただ今にもそのように成るかのように、愁傷されたことこそ不思議である。
(松隣夜話)
※字数が多すぎたので、内容をかなり省略&改編してます。
話が長いけど、
・謙信が急に痩せて、糖尿病を思わせる症状である事。
・謙信の辞世の句『四九年一睡夢 一期栄華一杯酒(意訳:自分の人生は一杯の酒に等しい)』は、47歳の時に作ったと言われてる。余命を感じてたから2年前に既に作ったのかもね。
・謙信のキレる怒りの導火線は家来でも不明。その導火線が最近点火しないので、健康を心配してるという内容。上州佐保と申す侍の娘、若年の女性であったのを上杉謙信公が近年召され常に寝殿より離さなかった。
その彼女がある時、故郷の見廻りのためとして御暇を申し上げ罷り帰った。この時謙信公は取次の女房に「3月20日の前後、日限を違わず故郷より戻り出仕すること」と、堅く申し聞かせた。
彼女はいつも故郷を懐かしみ、また謙信の申し付けを聞かない事があったという。取次の女房はこれを承ると、くどくどしいほど申し付けた上で帰郷させた。
しかし、3月20日が過ぎてもこの娘は出仕せず、4月上旬になっても故郷に逗留していた。取次の女房は気遣いの余り、飛脚を仕立て指し寄こし彼女を呼び出した。
4、5日経て後、謙信公は彼女が戻ったことをお聞きに成ると、御不斷所に召し出し「人や候」と仰せに成ると、御小々姓の荒尾助九郎という者が罷り出た。謙信公は彼にこう仰せになった
「この女、去る仔細あり。只今ここで成敗仕れ。女なる故に、私が直にはせぬ」
荒尾はこれを承ると『少しでも遅々仕るにおいては、我が身が全う出来ない』と思い、御声が下されたと同時に脇差を抜き、彼女が小首を傾ける前に討ち落とした。
総じて謙信公御家中にては、死罪の者は他を十とすると二、三のみであった。
ただし死罪に及んだ者は、事によって侍であれば、半分は御前に召し出され、御坪の内などにて、三十五人衆(謙信に仕えた主な武将の総称)に仰せ付けて処刑させ、稀には自身で遊ばされた。
太田三楽はこの事を後日承ると、北條丹後にこのように語った
「貴方の主人である謙信公は、御武勇の義はさて置き、それ以外の御気質を総じて見奉る所、
十の内八は大賢人、残る二つは大悪人であろう。つまり生まれつき、怒りやすくその感情のまま致す事が多いという癖がある。それ以外は、或いは猛く勇み、無欲清浄にて器量大きく、廉直にして隠すことはなく、明敏にして下を察し士を憐憫して慈しみ、忠諫を好んで容れられる。
このように、末世の現代に於いて有難き名将であり、故に八つは賢人と訓し申したのだ。」
そう談笑して去った。
(松隣夜話)
信長の城でも信長が外出中に、サボった侍女達が処刑された話がある。
>総じて謙信公御家中にては、死罪の者は他を十とすると二、三のみであった。
謙信だからこの程度だが、他家はもっとあった時代だったという事かな。歴史というのは、必ずいくらかはファンタジーが入る。
日本の歴史学者の仕事は、客観的な根拠を探してそれを修正する。
韓国の歴史学者の仕事は、「韓国に愛は無いニカ」「研究者としての良心はあるニカーっ!」と怒鳴ることである。まあ、後年坊主になった奴はそれまではやんちゃが多い
現代のTVで有名な坊主も若いときはやんちゃアバズレえ?なんでこんな古いスレが?って思ったら
火病で誰か暴れてたのかw>>195
>隣の部屋で喧嘩騒ぎされて、イラッとして死者3名。(上杉謙信言行録)
面白いエピソードだが
「実は…」
という、読み手が納得できる深いオチがないと
ただの頭のおかしな難儀な上司ということしか残らない>>213
『上杉謙信言行録』は大正時代に成立してるから実話の可能性は低いけど、
例えば、位の高い人に仕えて何か身近で騒動があった場合、
その報告には“御心を騒ぎ立て奉って~”と前置き謝罪してから、騒動の内容を報告したりするけど、それだけで死刑案件レベルだったかもね。大正時代の人も、そういう心構えに共感する側面があったとか。
謙信の逸話には、自分の手で誅したエピソードが多い。>>213
オマケに信玄エピソード。
甲斐の虎、武田信玄が恐れおののいたものがあった。
その名は芋虫。蝶の幼虫である。
もちろん触ることなど到底できなかった。
この事は家臣にも知られていたらしく、馬場信房も知っていた。
ある日のこと、信房はわざと芋虫を信玄の目の前においた。
動機はわからないが、信玄の芋虫嫌いを克服させようとしたのか、もしくは単なる嫌がらせ。
信玄(げっ、芋虫!)
信房「ニヤニヤ」
信房は皮肉っぽく笑ってみせた。
信玄(わざとやりやがったな!ここで握らなかったら面目が立たねぇ!)
そう思った信玄は勇気を振り絞って、見事芋虫をその手に握りしめた!
しかし信玄の指は、変な色になっていたという。
(甲子夜話)上杉謙信は、讃岐の海賊の家系
上杉謙信が関東管領とは、おかしい
>>217三好長慶が上杉謙信を関東管領にした
上杉謙信は、讃岐の海賊の子孫
>>220
永禄12年6月19日、武田信玄は河鳴島に陣を取り、北条氏康の軍勢と対峙したが、洪水にみまわれて敗走し、よほど狼狽したのか武田重代の八幡大菩薩の旗を取り落として、北条方に拾い取られてしまった。
氏康は蒲原城に善徳寺曲輪という大郭を築き、その他周辺の城群に援兵3万余人を配分して籠め置き、自身は小田原へ帰陣した。
かくて北条方では「流石の信玄も今回はよほど狼狽したと見えて、重代の旗指物を取り落としてしまった!」と嘲った。
これに信玄方では「重代の重器であっても、津波のために流れたものをどうして恥としようか! 津波に流れた兵具を拾い取って、武功手柄のように高言する笑止さよ! 旗が欲しくば、いくらでも製作して授けるぞ!武略の優劣は戦場の勝負にあり。天変を頼みにして物を拾うを武功と思う浅ましさよ!」と誹謗した。
北条方はまたこれを聞いて「信玄が例の巧言曲辞をもって、その過誤を飾るとは片腹痛い! さる永禄6年2月の上野箕輪城攻めで、信玄の家人の大熊備前(朝秀)は自分の指物を敵に取られたことを恥じ、敵中に馳せ入ってその指物を取り返した。その時に信玄は大いに感心して、『無双の高名比類なし』と感状を与え、その時から大熊を取り立てて騎馬30騎・足軽75人を預けたのだと聞いている。
しかしながら、家人が指物を取られたのを恥じて取り返したことを賞美して、その家重代の重宝である八幡大菩薩の旗は敵が取っても恥ならずと言うなら、大熊に授けた感状は今からは反故となる。信玄の虚偽はさらさら証しにはできないな!」と、双方嘲り罵ってやまなかった。
その頃、老練の人々はこれを聞いて、
「信玄が洪水のために重代の重宝を流して敵に拾われたことは、天変であるから信玄の罪にあらず。
『河鳴島が卑湿の地で水害があるだろう』と原隼人(昌胤)が諫めたのを用いずに、その地に駐屯してこの難にあった事こそ、一方ならぬ不覚である」と誹謗したのだという。
(『改正三河後風土記』)
さぁこの話のオチは?
『家来の献策を用いず、水害の危険がある場所に布陣するな』
『水害なら旗を取られても恥じゃない』
『旗を取られた事が恥じゃないなら、敵から取り返した将を称賛したのに矛盾してるだろ』
いちいちオチに拘ってると、頭が固くなって物事を一方向でしか取れなくなるでしょう。>>222
ああ、ハイハイ。そうだったねー>>222上杉謙信、理屈ぽいから嫌い
>>222上杉謙信の祖父は確かに讃岐の海賊、長尾氏、長尾氏は、元々は、鎌倉幕府が、鎌倉氏を難波の地方官に任命して、その子孫が、讃岐国、長尾に土着して、長尾氏と名乗った。その子孫が上杉謙信だ。
>>134長尾氏は、平氏の一統で鎌倉幕府から難波の地方官として派遣された鎌倉氏が、讃岐国長尾に土着して、長尾氏と名乗った。相模とは縁もゆかりも無い。大嘘つき
>>142戦国時代は近世。中世は平安時代、鎌倉時代。
NHKの 大河ドラマを 見れば 大雑把に 把握出来るよ
もう スレ主関係なくなっちゃってるし…
そこまで 細かい説明しても理解出来ないだろうし…
🤭>>142中世は平安時代から応仁の乱までだ。平安遷都から遣唐使、班田収授の廃止までが古代と中世との移行期で、遣唐使、班田収授が廃止され国風文化の時代は100%中世、中世の終わりは足利義満の死から応仁の乱まが中世から近世への移行期で応仁の乱以降は100%近世、
中世権門体制の崩壊が戦国時代で戦国時代は近世。スレから離れていっているが
>>234
いちいち歴史区分に拘ってる理由は、それはお前が自閉症だから。
自閉症だから、既に定められた概念に安心感を持つ。そして、それに執着する。
だからお前は歴史区分に異様な執着をする。
お前は歴史区分は変わる事がない分類基準だと思ってるから。
しかし歴史区分には明確な定義はないし、世界史区分との整合性も曖昧という事は知らない。
お前が歴史好きなのも同じ理由。歴史は変わらない過去だから。
しかし、そんな自閉症のお前が動揺して発狂する事がある。
それは既に定められたと思ってるお前の誤った知識を他人から否定され脅かされた時。
『上杉謙信の祖父は海賊』という認識をここの住民から否定された時。
だから、発狂して狂ったように反応はするが、反論出来る歴史根拠は一切出せない。>>236
立花宗茂は、謙信は8,000人と言ってたけど、自分が手足のように動かせるのは2,000人と言ってる。朝鮮で宗茂が戦った際にも、小田原城攻略で敵前で悠々と酒を飲んでた謙信に倣って、明&朝鮮軍の大軍と対峙した時に、敵前で悠々と飯を食べる話がある。
上杉軍の戦闘戦法は、矢や石を投げて怯ませて、怯んだら槍突撃して、 崩れたら最後に騎馬が突入じゃなかったかな。余り戦闘方法に特色はなかったはず。 部隊の鉄砲装備の比率も織田や武田よりも若干低い。
謙信の軍事力(軍事費)を支えてる上杉家の主な経済力は、金山と青芋の輸出。
※佐渡金山は関ヶ原の戦い意向に開発したので、上杉家の経済力とは関係ない。これを勘違いしてる者は多い。
青芋を海路で京都に売ったり、さらに出雲方面で鉄を購入したりして軍事力を維持していた。
謙信は越後守護代になってから年平均1~2回を関東や富山方面に遠征してるし、それ以外は武田戦と国内の反乱に忙殺されてるので、その軍事費を裏付ける経済力が、上記の産業にあったという事。
戦争を続けるには、相応の経済力の開拓が必要。>>237
そもそも2000人を指揮できる時点で、近代以前としては「規格外」の指揮官だけどな(*´エ`*)
近代以前の指揮官なんて、精々100~160人程度が指揮できる限界。
野戦指揮官としての上杉謙信は、「ばけもの」だよ。
多分、匹敵する指揮官がいるとしても武田信玄、島津義弘くらいではないかな。>>244アホ死ね
上杉謙信を勉強していますが気になることがあります。
246
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