英国で最も権威のある首都ロンドンの国立軍事博物館「帝国戦争博物館」で行われている「紛争下の性暴力」に関する特別展で、いわゆる慰安婦問題に関して「若い女性が日本軍に強制的に性奴隷にさせられた」と断定するなど事実に反する内容の展示が含まれていることが分かった。日本政府は関係者に対して「強い懸念」を表明し「適切な対応」をとるよう求めた。
特別展は5月23日~11月2日の期間限定で、博物館が英国内外の民間団体や有識者の協力を得て企画した。協力団体には韓国最大の慰安婦関連団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」が名を連ねている。
会場の展示案内では、第一次世界大戦下のドイツ兵による占領地での女性への暴行や、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)による少数派ヤジディ教徒への迫害の紹介に加え、旧日本軍が先の大戦で「慰安婦部隊を創設した」とする、事実と異なる記述があった。
同じ案内では「太平洋全域で何千人もの女性がだまされ強制され、売られて国家公認の性奴隷に仕立てられた」と書かれていた。
しかし、これまで日本政府が発見した資料からは、軍や官憲が女性らを慰安婦にするため強制連行した記述は見つかっていない。
「性奴隷」という表現については、日本政府は「事実に反するので使用すべきでない」と国連などの場で繰り返し強調している。その点は「慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決」を打ち出した2015年12月の日韓合意でも韓国政府と確認したとの立場だ。
アジア女性基金がフィリピンや韓国などの元慰安婦285人に1人当たり200万円の「償い金」を支給するなどの活動を展開したことや、歴代首相4人が自筆の署名を付した「おわびと反省の手紙」を元慰安婦に直接送った事実などはほぼ無視された格好だ。
慰安婦の総数については現在では特定が困難なのにもかかわらず、展示は慰安婦団体が主張する「(最大)20万人」との具体的根拠のない数字を掲げている
その他の展示では「私は日本軍の慰安婦だった」と主張する活動家、金福童(キム・ボクドン)氏(19年死去)による証言の英訳や、各国での慰安婦像設置の取り組みを紹介したパネル、慰安婦像の模型などが並べられている。
https://www.sankei.com/article/20250705-VMMTDXMT7NLZJCUPON6M4L7Q7A/>>107
イランがテロ組織を支援してるのと全く同じだねww>>113
お前、慰安婦は自発的な応募だったと書いてなかったか?>>113
韓国政府が提訴しても勝てないと敗北を認めたからか w
なるほどね w>>107
北朝鮮の思惑通りの朝鮮人が出来上がってるww>>114
東京裁判に証拠として提出
1946年5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷しました。東条英機や梅津美治郎、板垣征四郎ら28人の被告は、「平和に対する罪」(A級戦争犯罪)、と「通例の戦争犯罪」(B級戦争犯罪)で裁かれました。
東京裁判には、日本軍が「慰安婦」を強制したことを示す証拠書類が各国の検察団から提出されました。そこには、日本軍による強制徴集や強制収容、「慰安婦」の強要などの実態が記されています。日本軍「慰安婦」制度そのものは訴因とされていないことや、日本の植民地だった朝鮮半島や台湾から慰安所に送り込まれた膨大な数の女性たちの被害が取り上げられていないなど、きちんと裁かれたとはいえませんが、各国の検察官たちは「慰安婦」を強制したことが戦争犯罪であると認識していたことがわかります。
オランダの検察団は、インドネシアのマゲラン(ジャワ島)、モア島、ポンティアナック(ボルネオ島)、ポルトガル領ティモールの証拠を提出しました。オランダ人女性を「慰安婦」にしたマゲランの慰安所以外は、地元の女性たちが「慰安婦」にされました。ティモールでは、地域の有力者に命じて女性を提供させたことが記されています。
フランス検察団は、ベトナム人女性をランソンの慰安所に強制的に連行し、「慰安婦」にした証拠を提出しました。ベトナム人女性の口述書には、フランス兵といっしょに生活していたベトナム人女性数人が、先安(ティエンイエン)に設けられた性売買施設へ行くよう強制されたことが書かれています。
中国の検察団は、桂林で女工の名目で女性を集め、強制的に「慰安婦」にしたことを示す証拠を提出しました。東京裁判の判決では、その事実が認定されています(『極東国際軍事裁判速記録』判決速記録p.186)。>>120
[ハンギョレ21 2011.11.28第887号] 大韓民国政府が抱え主だった
登録:2011-11-26 12:05
https://japan.hani.co.kr/arti/h21/9837.html
表紙の話] 性売買を取り締まるフリをして女性を外貨稼ぎ手段と考えた韓国政府…韓国戦争時に慰安所を設置し、独裁政権は駐韓米軍・日本人対象の性売買を助長した
大韓民国で性売買は不法だが不法でない。歓楽街の一画に派出所が共存する奇怪な風景は我が国で事新しくもない。こういう乖離はどうして生じたのだろうか?
答えるためには先ず国家の二重的性売買政策を見る必要がある。パク・ジョンミ漢陽大HK研究教授(社会学)が今年書いた論文‘韓国性売買政策に関する研究’は性売買に対する国家の意図的沈黙と統制過程を暴いた。400ページを越える分厚い論文の中で大韓民国政府は性売買に一方では不法化の烙印を捺しながら、他方では放任したり時には積極的に‘抱え主’の役割までした。
国連軍のための慰安所運営
性売買を巡る国家の二重的態度は1946年の米軍政期まで遡る。日本帝国主義を追い出した米軍政はそれまでの植民統治との差別性を打ち出す必要があった。1946年5月17日に宣言された‘婦女子売買または、既売買契約の禁止令’はそのような背景から出された。公娼制を維持した日帝とは明確に一線を画する措置と見えた。新生国家の市民たちはこれを歓迎した。1946年5月28日付<東亜日報>は「朝鮮が解放された以上…遊郭の女性たちが解放されなければならないのは当然のこと」と報道した。
実際の米軍政の意図は違った。ロチュィ軍政長官は「(禁止令が)公娼の廃止ではないのはもちろん私娼には何の関係もない。 …自分自身が自発的に結んだ契約下で従事することは関係ない」と明らかにした。すなわち個人が他意によって性売買をすることになるのは不法だが、自発的に性売買をするならば公娼であれ私娼であれ関係ないという言葉だった。米軍は反対に日本強制占領期間から維持されてきた接客女性を対象とした登録・検診関連規定をそのまま維持した。米軍政の関心は韓国の性売買女性と接触した米軍人の間で広がる恐れがある性病を統制することに限定された。>>115
チョーセン人の特徴じゃねぇかwwwだいたい、韓国人も今の慰安婦団体は偽物だってわかって来てるからこのスレに韓国人は近寄らない w
在日が頑張るしかない。
ワンちゃんドンマイ w>>122
それって在日朝鮮人が日本人女性を集団レイプしてコンクリート詰めにした事件のこと?>>120>>121
公娼制度を公式に廃止した側は新生国家の立法府であった。南朝鮮過渡立法議員は1947年8月‘公娼制など廃止令’を通過させた。'性売買禁止主義’を法として明らかにした最初の事例であった。 ところが法の力は微小だった。 1948年1月<京郷新聞>は "予算は皆無状態で、中央庁に対し国庫補助を要請したがこれが見込みがなく慨嘆ばかりしている" と報道した。
1960~80年代、キーセン観光は韓国の羞恥であり金脈だった。1970年代外国人観光接待女性を対象に登録証を発給し人権侵害論争が起きた。1980年代キーセン観光に反対するデモが起きた一方で、政府は米国雑誌記者によるキーセン観光業者取材に協力した。 <東亜日報>記事
戦争を経て国家は自ら法を破った。政府の1956年資料を見れば、陸軍本部はソウルと江陵(カンヌン)など4ヶ所で慰安所を運営していた。 資料で確認された‘慰安婦’ 数は79人だった。1952年この女性たちを訪ねた男性は延べ人数が20万4560人だった。 陸軍本部は "(兵士たちが)異性に対する憧憬から引き起こされる生理作用による性格変化などでうつ病およびその他の支障を招くことを予防するために" と趣旨を説明した。 チェ・ミョンシン将軍も回顧録<死線を越えて又越えて>で「当時我が国の陸軍は志気高揚のために60人余りを1個中隊とする慰安婦隊を三,四ヶ運用した」と書いた。
政府は国軍だけでなく、国連連合軍のための‘慰安所’も運営した。<釜山日報> 1950年9月の記事によれば、馬山市(マサンシ)が "数日内で市内に連合軍の労苦に報いる連合軍‘慰安所’ 5ヶ所を新・旧馬山に設置することになり、これの許可証をすでに発行した" 。当時政府保健婦防疫局で出した‘清掃および接客営業衛生事務取り扱い要領’資料にも連合軍慰安所と慰安婦に対する指示事項が含まれている。 政府が性売買を斡旋した‘抱え主’の役割を引き受けたと証言する文書は悲しいことに多数溢れていた。>>120>>121 >>128
米軍の代わりをした日本人‘キーセン観光’
1960年代に登場したパク・チョンヒ政権は‘革命公約’で性売買取り締まりを強化すると公言した。 1961年に制定された‘性売買行為等防止法’は新しい政権の意志を示した。21条からなる性売買行為防止法は国家の性売買禁止原則を再確認したものだった。しかし翌年6月、保健社会部は全国104ヶ所に性売買を許容する‘特定地域’を設置し、その内 9ヶ所をソウルに割り当てたと発表した。一つの口から二つの話は簡単に出てきた。
国家はなぜ性売買禁止原則を守れなかったのだろうか? 1961年交通部企画調整官室が出した公文書を見ればそこに答がある。公文書は「現在、我が国で最も容易に誘致できる観光客は駐韓国連軍」として"外国人相手ホステス"を対象に教養講習を推進するという内容が含まれている。当時、米軍兵士は主に日本や香港に休暇に出かけていた。1961年3月13日<東亜日報>は“我が国により多くの外貨を落とすようにするという見地からはすべての消耗品を国産で充当することが理想的かもしれないが…酒も外国酒で、裸になった女の子も外国のお嬢さん、その上外貨まで使うとは…”と嘆いた。国家の先決課題は‘裸になった女の子’を‘国産’に代えるということだった。 1962年4月25日付<ソウル新聞>はソウル市警が“4千人に及ぶ観光接客営業所(ダンスホール・キャバレーなど)のサービス ガールたちに対する接客業務教育を実施”したとし、その理由が“外国人により効果的なサービス”を提供するためのものだったと報道した。
1966年<新東亜>の記事はもっと率直だった。“洋公主(欧米人相手の接待婦)が持つ巨大な力がある。日陰に咲いている彼女たちはアイロニカルにも我が国の国家政策の至上課題となった感のある外貨獲得の一つの担い手になっている。” <新東亜>は当時全国190ヶ所の国連軍専用ホールから出てくる外貨が1年に1千万ドルに達すると推定した。 1966年当時、我が国が貿易で稼ぐ外貨は2億5千万ドルであった。>>120>>121 >>128 >>131
1970~71年駐韓米軍の規模が1万8千人減った。 政府では非常事態になった。 1971年8月、内務長官が各警察に送った公文書で“保健当局と協力し慰安婦の性病予防策を講じ…教養を強化”しろと指示した。 ところが去りゆく米軍を捉えることはできない定めだった。米軍の空席は‘キーセン観光’をしに来た日本人が満たした。 1965年韓-日修交が契機であった。 キーセン観光が絶頂に達した1977年に韓国を訪れた日本人の96.8%は男性だった。 経済成長に没頭した政府は観光収入と観光客目標値を提示した。 一線旅行斡旋業者にも‘割当量’がくだされた。目標を達成できなければ各種恩恵が消えたり、甚だしい場合には許可が取り消された。 1979年<新東亜>は“脱線観光がきわめて当然に当局の黙認の下に成り立つ。 …妓生パーティーはほとんどすべての日本人観光客らに提供された”と報道した。 もちろん政府も継続的に一役買った。 1972年ソウル市の資料を見れば、基地村接客営業所女性512人、観光料亭接客営業所女性1795人を対象に教育した記録が残っている。
国家の先決課題は‘裸になった女の子’を‘国産’に代えることだった。<ソウル新聞> 1962年4月25日付にはソウル市警が“4千人に及ぶ観光接客営業所(ダンスホール・キャバレーなど)のサービス ガールらに対する接客業務教育を実施”したとし、その理由が“外国人らにより効果的なサービス”を提供するためのものだったと報道した。
今日も変わらない国家の原罪
1980年代、国内経済が成長しながら内国人性売買‘顧客’の比重は増えた。1982年に夜間通行禁止が解除され、1984年には奢侈性遊興業所に対する規制を緩和した。性売買業者が育ちうる土壌はより一層肥沃になった。米国スポーツ週刊誌<ザ・スポーティング ニュース>は1985年10月ソウル オリンピック特別号で韓国料理を紹介し、あるホテルのレストランで開かれた‘妓生パーティー’の写真を載せた。 当時取材過程で政府が便宜を提供した事実が明らかになり波紋が生じもした。 キーセン観光を通じて観光客を誘致しようとする‘政策’は当時までも維持されていた訳だ。>>134
何がダブスタなのかね?
猿の言いがかりか?>>140
質問する前に証拠もってこいよ嘘つき猿w>>144
在日朝鮮人だよね
天皇陛下へのテロ予告してるし>>69
ガザとかにしても今に始まったことでは勿論なく当初より問題になっていたろ。ヨーロッパ的にはユダヤ虐待の問題が大きくて逆に批判が働いていない側面があるよね。アフリカにおけるドイツのナミビア問題を始めとしてアパルトヘイトだの帝国主義による直接的な問題もあるし、ルワンダ虐殺やアジアでもインドやパキスタン、ロヒンギャだの東ティモールだの境界線を引いたり民族により分割した事による影響も未だにある
慰安婦問題なんて戦後40年くらい経つまで問題化していなかったし、それまでは洋公主がメインだったわけだ。知っている人が多かった時代は朝鮮戦争でも利用していた事も日本軍のものを真似たことも知っていたろ。当時は同じ人が参加していたのだから。だから韓国の最高裁も売春婦という呼称を違法とは言えないという判決をしている訳でね>>144
1968年 ― 何百人もの女性を苦しめた年
https://www.bbc.co.uk/news/extra/lhrjrs9z9a/vietnam-1968
トラン・ティ・ンガイがレイプされたとき、彼女は正義は得られず、同情さえも得られなかった。
彼女は刑務所行きとなった。男は醤油を買いに来た。トラン・ティ・ンガイは助産師兼看護師として働いていたが、その朝は両親が留守の間、南ベトナムにある両親の店の番をしていた。男は防具に手榴弾をぶら下げ、ベルトには銃を装備していた。1967年の夏、ベトナム戦争 ― 南ベトナム軍、アメリカとその同盟国と北ベトナムの共産党が対立する戦争 ― は激化の一途を辿っていた。
男はカウンターに近づき、お金を差し出した。トランがお金を受け取ろうと手を伸ばした時、男は彼女の腕をつかみ、髪を掴んで店の奥の部屋へと引きずり込んだ。そこで彼は彼女をレイプした。
「まるで人生が終わったような気がしました」とトランは語る。彼女にできることは、これまで以上に精力を注ぎ込むことだけだった。お腹が張っているのに気づいた時、彼女はただ太っているだけだと思っていた。しかしある日、蹴られるような感覚があり、妊娠していることに気づいた。両親は、彼女が未婚で妊娠していることに愕然とした。これは大きなタブーだった。当時の社会規範は儒教の影響を強く受けており、女性は結婚するまで処女を守ることが求められていた。「両親は私を『未婚妊娠』と呼び、ひどく殴りました。「もう生きたくありませんでした。心が完全に死んでしまったように感じました。」
彼女は何度も自殺を図りましたが、生き延びました。「まるで胎児が私のために戦ってくれているようでした」。両親が彼女を殴るのをやめたのは、1968年2月に彼女が出産してからでした。彼女は生まれたばかりの娘の美しさに圧倒されましたが、すぐに不安に襲われました。
「子供の成長が心配で、お金の心配で、どうやって仕事に戻って生計を立てられるかと心配していました。」
彼女は赤ん坊をオアンと名付けた。理解しがたいことだったが、彼女は何とかして赤ん坊の父親を認識しておきたかった。ミドルネームはキム。それは兵士の姓だった。彼女をレイプした犯人はベトナム人でもアメリカ人でもなかった。韓国人だった。>>153
河野談話以前に河野は親韓親中派。
両国よりの政治的な談話だよね。>>153
さっきから言い訳ばかりしてるねw>>138
「A級戦犯の処遇は国際条約の元に定められた」
は?、お前頭大丈夫か日本の戦争犯罪人は「極東国際軍事裁判」で裁かれたものでこれはポツダム宣言第10項を法的根拠とし、連合国軍最高司令官総司令部が作成し最高司令官ダグラス・マッカーサーの名で布告された「極東国際軍事裁判所条例」を拠り所にした軍事裁判!で条約なんて関係無い。
ほんと、何も考えずにでかい声て他者を威嚇し貶めるだけの朝鮮人しか遣らない「声闘」や国際条約だの国立博物館だの本質も知らずに“名の持つ権威”を暈に無為な主張を正当化する行為って惨めな歴史の中で身に着けた”朝鮮人の性”、それを厚顔無恥にも振りかざすお前は朝鮮戦争が怖くて日本に密入国してきた朝鮮人の子孫だろうフフフフフ。>>153
日本の王はヒールなんだからもっと悪人らしく開き直れよ。
悪人が正義ヅラするからあれこれ矛盾が出てくるんだよw>>153
毎日毎日、慰安婦ガ~いあんふガ~
どうしたいの朝鮮人>>154
証拠もってこい嘘つき猿
慰安婦「強制的に性奴隷」英国立軍事博物館が事実反する展示 日本政府が懸念表明
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