倭徳山 「案内文」
この墓は朝鮮宣祖30年(1597)丁酉再乱(慶長の役)鳴梁大捷の闘いの時
ウルトルモク(珍島大橋の下を流れる海峡)で戦死した日本水軍の死体を
埋葬したと伝えられている墓である。死体を見つけた内洞里の住民は、
敵軍でありながらも、死んだ霊魂に温情を施し手厚く葬い
その後、倭人に徳を施したの意味で倭徳山と呼ばれるようになった。
この場所は鳴梁大捷での教訓を私たちに伝えている。
別の記事から抜粋
今から420年前、この鳴梁海峡で激しい戦が起こりました。慶長2年(1597)、秀吉の朝鮮出兵の際、村上水軍の一族である来島(くるしま)通総が総大将として戦った場所、それが現在の珍島大橋の下を流れる海峡なのです。対する韓国側の大将は、英雄・李舜臣(イ・スンシン)。37才の通総は5本の矢を受け、海に落ちたところを李舜臣の船に引き上げられ、命を絶たれました。その時、日本水軍は130隻、韓国はわずか12隻、鳴戸の激しい潮流を知る通総を先頭に立てて臨んだ戦でしたが、大将の死によって日本水軍の士気は一気に崩れ、その多くは亡くなりました。日本水軍の大部分は、四国の来島水軍の他は海戦に慣れない半農半海の若い人達でした。その死体は沿岸のほうに流れる渦巻きに吸い込まれました。数えきれないほどの日本水軍の死体だったといいます。
왜군이 묻혀 있는 진도 왜덕산(倭德山)
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