メダルさえ取れれば拍手される文化は日本から来た。正確には、日本女子バレーの大松博文監督が広めた。

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    • 1名無し2021/06/19(Sat) 12:05:24ID:AzMTM1NTk(1/2)NG報告

       ユニクロを着てトヨタ車に乗ったら極悪な「土着倭寇(わこう)」のレッテルを貼られてしまう世の中だが、スポーツは依然として親日的だ。根性と軍紀を叫んで「やればできる」と選手を追い立て、メダルさえ取れれば拍手される文化。これは日本から来た。正確には、日本女子バレーの大松博文監督が広めた。

       大松監督は1964年の東京オリンピック女子バレー決勝で、当時最強のソ連を抑えて日本に金メダルをもたらした。勝利の秘訣は、監督自ら編み出した新技術「回転レシーブ」と「時間差攻撃」。機織力で勝ち進んだ日本女子バレーは「東洋の魔女」と呼ばれた。実情は、魔女と言うより獣に近かった。

      大松監督は1954年、日紡のバレーボールチームを率いることになり、大阪工場の女工の中から、特に田舎で農業に従事していた女性を好んで選んだが、その理由は、監督の言葉に絶対服従すると思ったからだ。
      選手は毎日工場で働き、退勤後に体育館で翌日の明け方まで練習した。睡眠はたったの4時間。大松は「俺についてこい」と駆り立て、ミスをしたら罵声や殴打を浴びせた。休日もなく、反抗したらすぐに追い出した。そんな日紡は日本国内の大会を平定して日本代表になり、62年モスクワ世界選手権と東京オリンピック制覇までやってのけた。練習場に参観に来た人はいずれも「ここは地獄」と絶句したが、成績がいいので「名将」と仰がれた。(76年モントリオール五輪で銅メダルを取った韓国女子バレーも大松の特別指導を受けた)

      大松の人生観は戦争が変えた。1941年、帝国陸軍に召集された。インパールの戦いで、大松は生き残った。生き地獄から脱出した大松は「いかなる肉体的困難も精神力で克服する」「歴史は勝者のもの」「汗に血を加えろ」「勝つことが一番」と叫んだ。彼にとってはスポーツが、敗戦の恨みを晴らす手段だった。

      大松は「いかなる肉体的困難も精神力で克服する」「歴史は勝者のもの」「汗に血を加えろ」「勝つことが一番」と叫んだ。彼にとってはスポーツが、敗戦の恨みを晴らす手段だった。ソ連と試合をするとなったら「奪われた北方領土を思い出して敵を倒せ」と激しく追い立てた。こんな金メダルの方程式が韓国にも渡ってきて、体育の現場を青あざだらけにした。朝鮮日報 日本語版 6月19日

      読んでいて、虚しくなった・・・・・!

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