「韓国への愛」という言葉がなぜか我々日本人たちの頭にこびりついている。
なぜか。一言で言うと、気持ち悪過ぎるからだ。
そもそもこの言葉が流行った原因は日韓歴史共同研究に起因する。2002年から2010年に日韓が共同で開いた研究会だ。
古代、中近世、近現代、両国の歴史教科書の記述について検証し、おのおのの教科書制度の枠内で努力するものであったが…まあ、土台無理な話だった。
韓国側には失礼だが、韓国における日本研究は、日本における韓国研究に比し、ほぼ半世紀にわたる差があった。つまり、日韓併合から朝鮮戦争終了までの間、韓国の歴史研究は事実上の空白時代があるわけだ。
研究委員会に参加した古田博司は、日韓の意見が対立した時に、日本側が「資料をご覧になってください」と言うと、韓国側は立ち上がって「韓国に対する愛情はないのかーっ!」と怒鳴ったという。
日本側はそれを見て冷たく「資料を見てください」と言い返すと、「資料はそうだけれど」とブツブツ呟き、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と怒鳴るという。
古田は、「民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなので、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる」、「要するに『自分が正しい』というところからすべてが始まっており、その本質は何かといえば『自己絶対正義』にほかならず、したがって何をやろうと彼らの『正義』は揺らがない」と評した。
「彼らの正義は揺るがない」のだ。
韓国は歴史学にも自らの信じる愛や正義を求めるようだが、学問は事実を重んじなければいけない。
愛だの、正義だのは、主観的感情だ。日本は事実を求める。
このカイカイでの日韓の言い争いを見ていても日韓共同研究会から全く進化していない。
しかし「歴史は事実考証を是とした学問である」という観点から見て、進歩しなければいけないのはどちらだろうか?
日本人には時々「あんなに韓国が言うなら譲歩が必要かもしれない」という人がいるが、正直冗談ではないと思う。
相手の感情的な駄々に折れては事実への冒涜だ。そうすることがねつ造の始まりだと気付くべきだ。これはネトウヨでもなんでもなく、日韓共同研究会における学者の意見だ。
日韓の違いは「事実」と「正義」の差だ。
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