なぜ今でも全羅道差別があるのか、日本側からみての見解

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    • 1キティホーク2020/07/20(Mon) 07:44:15ID:U3NjAwODA(1/3)NG報告

       現代のいわゆる「韓人」が元々住んでいたのは朝鮮半島の南部地域で、その中でも韓人が最も純粋に血を残しているのではないか、と言われる地域がで、そこには百済が存在していた。
      全羅道が現在でも地域差別されているのはなぜか?
      それは10~14世紀高麗の建国者の「王建」がいる。
       王建は当時の中国(宗・元)との海上貿易で富を築き、彼に付き従った人は満州人なので、彼も現在の中国人だった可能性が高い。その財力、満州人の味方によって朝鮮を統一したのが10世紀で、彼らが全羅道出身者を冷遇する、ことを最初に始めた。王建が書いた「訓要十条」にはこう書かれている。

      1.仏教を崇尚する。
      2.道先大師の風水地理説によってだけ、寺を作るようにする。
      3.王位継承は特別な場合ではなければ長子を先にする。
      4.中国の風習にむやみに従おうとせず、契丹は蛮族なので遠ざける。
      5.西京(現在の平壌)は我が国の支脈の根本であるから、王は年に100日以上ここにとどまる。
      6.仏に仕える燃燈会と、山河の神に仕える八関会をよく行う。
      7.臣下と民に対する賞罰を公平にする。
      8.車嶺山脈以南(湖南地域、百済の故地に相当)の人々は、あまり登用しない。
      9.臣下と軍人の給料はむやみに増減せず、平安な時であればあるほど脆弱さを忘れない。
      10.王はいつも自らを磨き上げることに力を尽くす。

       前に、後三国時代(892年~936年)がありました。
      満州人の高麗に対して、後百済の韓人の勢力が激しく抵抗したため、また、いつ反乱を起こすかもしれないので、この家訓は高麗の時代のみならず、李氏朝鮮までずっと引き継がれることになった。

       しかし近所にあった新羅(慶尚道)は差別をされなかった。財閥も大統領もここの出身者が多い。
      これは新羅があっさりと王建に降伏、王位を王建に譲った。
       新羅はかつての統一王朝で、文明文化が非常に栄えていたので、王建たちも(新羅)には一目を置いていた。しかし後百済にはずっと敵対していた。それで差別的な感情が足かせとなって、ずっと続いてきた。

       そして1980年の「光州事件」、なぜこのような反乱が光州で起きたのか、と言う事も、こういう反体制的な遺伝と言うのか、文化的習慣と言うものがずっと続いており、韓国政府に対してこういう事件を起こしたとも言える。
       複雑な朝鮮半島の歴史を自分なりに勉強しました^^

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