日本でも韓国でも誰もが生きていく上で仕事をします。
行動力のある人は会社を立ち上げる事もあるでしょう。
そんな行動力のある起業家たちを紹介していくスレです。몇년 전 대학생일때 삼성 공사 현장에서 아르바이트 했었는데
세금을 납부하고 월급 400만원을 받았던 기억이 있군요おっ。立ってる
・田中久重(Tanaka Hisashige)
西暦1799年生まれ。九州の鼈甲細工師の家に生まれる。
幼年の頃から器用であり8歳の頃には最初の発明(開かずの硯箱)を作った。
15歳で「絵絣」と呼ばれる織物への染色技法を考案した。
この頃には家業の鼈甲細工に興味を失っており、からくり人形(Automata)の製作に没頭する。
お祭りのときには神社の境内で自分の製作したからくり人形を披露し、
とても精巧で細密な動きをしていたため評判となった。
このからくり人形を用いて日本各地で興行を行い「からくり義衛門」との異名を持つ。
動画は田中久重が作ったからくり人形である「弓曳童子」。
からくり人形の最高傑作と名高い。
YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=cNFHztcvyZo無尽灯の発明以後、今度は京都に移り住みます。
暦や天文学の研究を家業としていた公家である土御門家で天文学を学ぶためです。
この頃の年齢は40代後半。人間の寿命が50年と言われた時代にあっては、
彼にとっても人生の終盤が見えてきた時だったでしょう。
しかし彼がこれから作る、人生の集大成ともいえる製品には。どうしても天体の運行に関する知識が必要だったのです。
昼は仕事を行い夜は家から8㎞ある土御門家まで毎日歩いて通い天体を学びました。
またオランダの学問に通じていた廣瀨元恭が営む時習堂に入門し西洋の技術を吸収しました。
睡眠時間は一日2時間から3時間。こうした日々を続けて3年ほど掛けて、
和時計の最高傑作と言われる「万年自鳴鐘」と呼ばれる開発しました。この時久重は51歳です。この「万年自鳴鐘」は7種類の機能を持っています。
・現代でもなじみ深い時計で定時法の時刻を表示をする洋時計
・1年で移り変わる日の出と日の入りの間を等分する時刻である不定時法の時刻を表示する和時計
・二十四節気の表示
・毎日の干支を表示する干支紀日法の表示
・二十四節気の表示
・月の満ち欠けを表す月齢の表示
・1年間で移り変わる京都から見た太陽と月の動きの表示
これらがすべて連動して動く上に、ぜんまいを一度巻いたら1年間動き続けるという驚異的な性能を持っています。
内部構造が複雑であることは言うまでもなく1000点以上の部品で構成されており、
これらの部品はほぼすべて田中久重が手作業で作っています。
回転運動を往復運動に変換する独創的なクランク機構、
力が弱まっていくゼンマイから一定のトルクを得るためのCVTのような機構が内部に組み込まれています。
外観は外部の職人が手がけましたが煌びやかで繊細な装飾が施されており見目も非常に見事な作品です。
当時の支配階級である大名もこの時計をこぞって手に入れようとしましたが久重は売らなかったそうです。
万年自鳴鐘を作り上げたことを誇りにした久重は以後「万年自鳴鐘師」(万年自鳴鐘を作った男)を名乗ります。さて、この頃の日本は鎖国政策を行っていましたが西洋列強の圧力が高まっていた時期でした。
外国の軍事力に対抗するために各地で西洋の軍事技術を吸収する動きが生まれます。
そんな中、55歳になった久重もその技術力が評価されて佐賀藩に招聘され様々な西洋技術の国産化に務めることになります。
佐賀藩で久重は反射炉の改良、アームストロング砲(大砲)の製造など成果を挙げていきます。
また書籍と伝聞という曖昧な情報のみで蒸気機関を理解し小型の蒸気機関車の開発に成功します。
西洋の技術者を招かずに蒸気機関を製造したというのは当時としてはほとんど例のない事でした。
この後、日本で初めての実用的な蒸気船となる「凌風丸」を造船しています。
画像は久重が作った蒸気機関車の模型明治維新が起こり封建制が終わってからは東京に転居し電気製品の分野に活躍の場を広げます。
当時は世界的にも電気製品の黎明期であり
最先端の技術を追い求める久重が電気に関心を持ったのは自然な事とも思えます。
もっともこの時久重は70歳を超えていましたが。
この年齢になっても機械に対する興味は尽きなかったのでしょう。
東京で始めた彼の製造所の玄関にはこんな言葉が掲げられていました。
「万般の機械考案の依頼に応ず」(あらゆる機械の開発に応えます)
面白半分で訪れる客を弟子が追い返すこともあったようですが、
久重は依頼の内容が面白そうだとみると追い返した客を追いかけて依頼を勝手に受けてしまうという事もあったようです。
この行動に彼の神髄が現れているように思えます。
商売の事だけ考えていればこのような事はしなかったでしょう。
先に紹介した万年自鳴鐘も高値で売り払っていたはずです。
しかし彼はそうしませんでした。
彼は機械を設計し製造し開発する事が純粋に楽しかったのでしょう。
彼が70歳を超えてから開業した田中製造所はタバコ刻みから製氷機、電話機まであらゆるものを開発しました。田中久重は82歳でこの世を去りますが彼が残した田中製造所は芝浦製作所に社名を変更し、現在では東芝(TOSHIBA CORPORATION)となりました。
彼が作り上げたからくり人形、万年自鳴鐘は150年以上後にも傑作として語り継がれ、彼が創業した会社も大企業として現代に残り続けています。
また田中製造所に出入りしていた弟子たちは沖電気(Oki Electric Industry)、モリタ宮田工業(MORITA MIYATA CORPORATION)
、池貝(Ikegai Corp.)、アンリツ(Anritsu Corporation)などの創業者となります。
一人の男が好きで始めた事は脈々と受け継がれているのです。
「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」
by 田中久重こんな感じで韓国側の起業家、創業者も紹介していただければ幸いです。
厳密にいえば起業家ではないかもしれないけど、
三井不動産の江戸英雄さん。
三井財閥じたいは大昔からあったわけで、それを作ったわけではないんですが、
戦後の財閥解体で三井財閥が事実上潰された時に、当時は『口入』と呼ばれてヤクザがやる日陰仕事だから当局から目をつけられにくい被差別職業の不動産業なら残せるだろう、とのことで、三井不動産を実質的に立ち上げて一からここまで大きくした名経営者です。
当時の不動産業はヤクザが絡む被差別職業だったので、総会屋まがいのことをしてくるヤクザ右翼などと話をつけるために児玉誉士夫とも会って話をつけたりしています。
娘が小澤征爾に騙された時も、小澤征爾に多額の援助をしてパトロンとしても支援してあげるような懐の深い人柄の良さもありました。>>11
似たようなタイプだと、もう一人。
野村証券の奥村綱雄さん。
野村グループじたいは大昔からあったわけで、奥村さんが作ったわけではないんですが、やはり当時は『株屋』と呼ばれて、ヤクザのやる被差別職業だったのでカタギの日本人は参入していなかった証券会社をこんにちのように大きくした野村証券中興の祖と呼ばれる名経営者です。
被差別職業のイメージを完全に変えてしまった点は三井不動産の江戸英雄さんとほとんど同じだと思う。
今では信じられませんが
三井不動産や野村証券の江戸英雄さんや奥村綱雄さんが当時の金融機関などに融資にお願いに行っても、当時の金融機関が設定していた貸付先信用度のランクが不動産業と証券会社は甲乙丙の丙なので、融資どころか話も聞いてくれなかったそうです。
今ではとても考えられませんが。
日韓の起業家を紹介するスレ
12
ツイートLINEお気に入り
111