ちらっと聞いたことはあったような気がします
参考リンク
http://gigazine.net/news/20150806-evidence-japan-build-atom-bomb/スレが立ったみたいなので良かったです。
このような話題はどうかと思いましたが、
科学カテゴリの話題が寂しいので依頼して見ました。
具体的な原爆開発の話に入る前に、旧理化学研究所という
今ではこんな施設は考えられないほど、いい意味でトンデモでした。1917年(大正6年)に財団法人「理化学研究所」が設立された。
※(現在の理化学研究所とはまったく違うものと思ってください)
著しい特徴は何から何まで科学者でするのが肝ですね。日本人の99%は知らない内容だと思う。
俺も詳しい内容は知らないw원폭 개발은 전 세계가 도전하고 있지 않았을까?
あれを朝鮮に射って絶滅すべきだったな
マッチ箱サイズの爆弾ですか
原子爆弾が作れること自体は世界レベルの物理学者がいた
日本でも知られてはいたし研究はしていたが
理化学研究所が遠心分離機でウラニウムの分離を試していた段階で
終戦になるまでに実用になるほどのウランが製造できていなかった。
(広島と同じガンバレル型で高濃度ウラン50kgが必要)
広島で原爆が落ちた段階で日本の物理学者はそれが原子爆弾であることと
アメリカが原子爆弾の実用化に成功したことを理解して日記などに残しているし。当時の理化学研究所というのは研究施設なのですが、
これに関連していろいろな会社が設立されて、
そのすべてが理化学研究所を支えるためにある。
理化学研究所は基礎科学の拠点なのだが、
当時、ビタミンの研究をしていてビタミンAの分離に成功して
ビタミンAの錠剤化をする(当時は死亡原因の第一位の結核予防に役立った)
ふつうは企業に依頼して作るが、理研自身でそれすらもしてしまうというトンデモさを
持っていた。そのような研究開発して発明が出てそれを売り、そして研究費をそれを突っ込んでいく。>>7
当時は自国領で反乱も無く、日本全体でも一番安定していた地域に撃つ必要は無いんだよなぁ・・>>6
全世界は無理ですよ、
当時の先進国であれば、実際に開発を視野にして動いていましたよ。
当時の最先端科学の原子物理学の分野ですから。使ったと思うぞ。
そういう時代だ。
それしか勝てない敵だった。ノーベル賞受賞者の湯川秀樹や朝永振一郎も
理化学研究所の仁科研究室に一時期居たからね。
原爆開発自体は仁科芳雄率いる仁科研究室で始まり、二号研究と呼ばれていた。>>13
開発に成功しても、その時には制空権が抑えられているので
使用するにはハードルが高い、脅し程度しか出来ない。1940년 육군항공기술연구소 소장 야스다 타케오는 스즈키 타츠사부로에게 원자폭탄에 관하여 조사하라는 지시를 내린다. 스즈키는 원자폭탄 생산이 이루어질 수 있으며, 원자폭탄에 필요한 우라늄 광석이 일본 내에 매장되어있을 수 있다는 보고를 한다. 이에 야스다 타케오는 1941년 6월에 이화학연구소 소장으로 있던 오코치 마사토시에게 정식으로 원자폭탄 연구를 의뢰한다.
오코치는 이 프로젝트를 일본을 대표하는 물리학자 니시나 요시오에게 위임하고 니시나 연구실에서 원폭 개발을 위한 준비에 들어갔다. 참고로 니시나 연구실은 질적으로도 양적으로도 일본 내에서 최첨단이었다.100명이 넘는 연구원이 참여한 니시나 연구실은 우주선반, 사이클로트론 원자핵반, 이론반, 방사성이 생물에 영향을 주는 영향 연구반으로 구성되어있었다. 특히 이론반은 핵분열이 발견되었을 때부터 핵분열에 높은 관심을 보였다.
1942년 12월 니시나 요시오는 다케우치 마사에게 U^235^ 와 U^238^ 의 분리 연구를 지시한다. 이후 1943년 1월에는 니시나 요시오, 다케우치 마사, 야자키 이이츠, 다마키 히데히코 등이 모여 연쇄반응에 관한 확산식과 같은 이론적 취급에 대한 강의를 하였으며, 같은 해 2월 28일 다케우치 마사는 우라늄 농축도와 임계값에 관한 계산 결과를 내놓는다.
3월 17일에는 열확산법을 이용한 우라늄 농축방법을 검토, 3월 19일에는 직접 실험을 진행할 것을 결정한다.面白いのは、当時の陸軍が大学に原子爆弾開発を依頼しないで
理化学研究所に依頼してきた事だな、ふつうだと大学の研究室だろうし。
原子爆弾を作るにしても、最大の問題は、天然ウランに含まれるわずか
0.07%のウラン235をどのようにして分離するか?
方法的には、以下の4つのものがある。
1.電磁法と呼ばれる方法
2.超遠心分離法と呼ばれる方法
3.気体拡散法と呼ばれる方法
4.熱拡散法と呼ばれる方法
日本は4の方法を採用した(アメリカのマンハッタン計画と同じ方法)야스다 타케오는 스즈키를 통해 원폭개발이 이루어질 수 있다는 니시나 연구실의 토의 결과를 받자, 니시나 연구실에 원폭개발을 지시한다. 이 때의 야스다 타케오는 항공총감 및 본부장이었는데, 니고연구와 원폭개발 계획은 항공본부 직할 연구 및 군사작전과 비슷한 최고기밀로 취급되었다.
그러나 야마자키 마사카츠를 비롯한 학자들은 니시나 요시오가 보고한 내용을 토대로 니시나 연구실에서 수행한 핵분열의 연쇄반응 계산을 재현한 결과, 이는 원자로 폭주형과 같은 것이었으며 원폭개발로는 충분하지 않은 것이었다라는 결론을 내렸다.
보고서의 결론과 모순되는 계산 결과에 대해 야마자키는 니시나 연구소측에서 연구 인력과 연구 수준을 보장하기 위한 구실로 이 연구를 이용하였을 가능성이 있다고 지적하였다. 니고연구에 참여한 타마키 히데히코가 스스로 이 계산의 결과가 신빙성이 없다고 밝힌 것은 이 지적을 뒷받침하는 근거 중 하나.
그럼에도 불구하고 원폭개발 연구는 진행되었다. 1943년 6월 다케우치 마사를 중심으로 본격적으로 우라늄 농축을 위한 열확산탑 건설에 착수하였고, 7월에는 실험에 들어갔으며, 11월에는 분리 결과를 분석하였다. 결과는 물론 실패로 끝났다. 그러나 이후에도 우라늄 농축을 위한 실험이 진행되었다.위의 내용을 보면, 방사성 원소의 이용, 다시 말해 원자폭탄을 개발하는 것은 이화학연구소의 몇 명밖에 참여하지 않았는데, 이는 이 계획이 비밀리에 추진되어야할 필요가 있었기 때문이다. 그러나 10만명을 동원한 맨하튼 프로젝트에 비하여 터무늬 없이 적은 인원으로 구성되어있는데, 이는 니시나 연구소에서 추진한 원폭개발이 실현가능성이 없는 계획임을 잘 보여주는 것이다.
1944년 기고시 쿠니히코가 우라늄235를 농축분리하기 위한 6불화우라늄 제조에는 성공하긴 하였으나, 정작 중요한 우라늄 농축은 실패하였으며 1945년 3월 니고연구는 중지되었다. 이후 1945년 4월의 공습으로 인해 열확산탑이 소실됨에 따라 개량과 보완을 하려는 시도 역시 수포로 돌아갔다.>>16
湯川秀樹は、確か朝鮮半島に使えるウラン鉱石があるか調べに来てた程度で
原爆開発に本格的には関わっていないと思う。
ウラン濃縮の前に使える原材料のウラン鉱石の入手が困難な状況でした。
ドイツにウラン鉱石を分けてもらう事になった、Uボートが撃沈されてしまった。>>21
原爆開発は仁科研究室の人間だけでなく、陸軍の人間も参加していて
陸軍の人間は独自に分離筒を制作して稼働させてた。
勿論、使用できる程度にならないが。原爆開発に入ったのは1943年(昭和18年)で
早くも資材の入手に困る。モーター自体が手に入らないし
配給申請して、バラバラの部品を集めて作ったりと
大変だな。当時の日本のインフラだと、圧倒的に電気が足りないよね…。
교토 대학 이화학 연구소가지고 있던 사이클로트론은 결국 미군이 해체했다고 알고 있는데...
왜 부셨던걸까.こういう後世で発覚する開発秘話とかロマンあるよな・・・
個人的には、電子レンジの強力なやつを兵器として本気で開発してたのが面白かった。그래서? 패전국 주제에
サイクロトロンは電磁石で作った円形の軌道で電気を帯びた粒子を加速し、
実験試料にぶつけて核分裂を起こしたり、放射性同位体を作ったりできる。
当時の核物理学の最先端装置だった。
理研には大小2台のサイクロトロンがあった。小型は仁科芳雄博士が昭和12年に世界で2番目、
国内で初めて製作したものだ。大型は当時の世界最大級で、重さは磁石だけで200トンもあり、
6年かけて昭和18年末に完成した。
仁科が日本陸軍から依頼された原爆開発の「ニ号研究」では、小型を使ってウラン濃縮の成否を確認し、
大型の開発計画も盛り込まれたが、いずれも原爆を製造する装置ではなかった。それで 理研は 被曝対策に 増えるワカメちゃん を作ってるのね
「開発」は言い過ぎで、せいぜい「研究」レベルですね。
理論的に原爆と言うものが可能であることは、当時のトップレベルの学者なら判っていた事。
理論をどう実現するかと言うハードルが高かったわけで。
原爆にはウラン型(広島型)とプルトニウム型(長崎型)があるけど、プルトニウム製造が難しい長崎型は最初から棄権。
ウラン型にしても、熱拡散法と言うウラニウム濃縮技術の基礎研究レベルだった。
それすらも完成できずに終わったけど。
ちなみに当時のドイツでは熱拡散法によるウラン濃縮は不可能という研究結果が出ていた。
もちろん、高純度&大量のウランとか、爆縮技術などの研究は未着手でした。
と言うか、帝国陸軍と理研が目指していた原爆は、今では爆発どころか臨界もしないと判っている。
つまり、そのまま研究を進めても失敗作ができただけでした。
原子炉を運転してプルトニウムを生成&分離し、爆縮型の原爆を作り、飛行機に載せられる程コンパクト化したって、アメリカは凄い国だった。
大日本帝国の原爆開発について
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