最近全教組が親日作家が書いた校歌廃止を主張している。これに対してした論説委員が「校歌が何罪な」と、その愚かさを指摘した(朝鮮日報2019年2月27日、「万物相」)。筆者は全教組ではないが、教授たちの「全教組」に該当する「教授労組」の創立メンバーである。しかしながら、全教組が校歌に是非をかけるのは頂けないと思う。
数日前の卒業生数学たドイツ人独文学者の友人とこの問題に電子メールを交わした。彼はこのように書いた。「そのような論理ならゲーテ・シーラー・レーシングの作品も、もはや読まならない。彼らの作品は、徹底的に家父長的な観点から、女性を無視、あるいは抑圧する観点から、使われた。今の時代精神に合致していない。もう一つ!没落した東ドイツの国家歌詞(「廃墟からの復活により、/未来に進むなんて〜」で始まる)は、西ドイツの国よりも立派である。しかし、今呼ばない。なぜなら、敗者であるからである。これも勝者の論理を強要する間違っている" 作家・作品・読者との関係については、いくつかの意見があることができる。ただし、親日派の作家によって使われたという理由だけで校歌を断罪されるのは誤りである。「国家の不幸が詩人に幸運になることができるよう(國家不幸詩家幸) "、詩人の不幸が時の幸せになることもあることである。
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2019/03/22/2019032201569.htmlレディー・ガガとかマーティ・フリードマンとかもだよな。
ゴッホなんかも親日かな?ベートーヴェンの第九が韓国で演奏される時は、「交響曲第9番合唱抜き」である
>>1
韓国国名の事なら、なんでも<丶`∀´>/ \(´∀` \(´∀` ) どうぞどうぞ だよ。
日本人や外国は、関係ないからね。>>3
それは面白い!
ソースを教えてくれ。
親日派のゲーテとシラーの作品を韓国から駆逐しなければならない
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