>>51
反対して何か自分達にメリットがあったり何か世の中がほんの少しでも変わったりするんでしょかねえ?
どうやって生活してるのかが最大の謎ですが。。일본의 왕은 그렇게 배척의 대상인가?
>>55
万引きは3冊か6冊が問題じゃないんだよ。
万引気が犯罪ないんだよ。
万引しないように仕付けてね。일본의 다양성을 위해서
제약은 없어야 한다.
획일적 가치관은 지양되어야 한다.>>57
日本の多様性の為に万引きぐらいグタグタ言うなー( TДT)
お前、自分の政府に言ってこい。自称「日本の王」が反天連の信奉者(関係者・本人かもしれないが)と認めたなら転載しよう。
私が発言した事ではなく、本人が自供した事の転載だ。他人を落としめる為の工作なんて、よくあること、
いちいち気にしてたらやってられない
タブレットのキーパッドが日本語を変換しなくなった
変感候補が出てこない(泣)
仕方なくスマホで見てるこんなクソスレあったのかw
>>61
天才なのに、気づくのが遅かったな。日本の王となのるな!
- 64名無し2019/07/08(Mon) 06:05:54(1/1)
このレスは削除されています
- 65名無し2019/07/23(Tue) 09:06:44(1/1)
このレスは削除されています
個人攻撃は止めろ、第三者だ、
なんだ、その日本の王は?
最近全然見ないけど、死んだのか?
ワンちゃんはTJのなりすましなのか?
ワイは葬儀済ませたで
ま、バイトなんだろうなぁ
定期的に煽って消えていく有名人って荒らし頑迷、西にも荒らしが
>>68
先日見かけぞ
6月まで休暇らしいので、また書き込むと思うよ
俺は嫌いだったけど、いないと寂しい
奴は奴なりの存在価値がある個人攻撃は止めろ、日本の王、JTが何者か知らないが、言論の自由への攻撃だ
中島慎三郎さんは、大東亜戦争時に多くの国を転戦し、上等兵として終戦した
戦後は福田赳夫元首相の通訳として活躍し、東南アジア問題に精通し東南アジア全般に広い人脈を持っておられた。
昭和54年の事、自民党の大物議員がインドネシアを訪問した時に案内したのが中島さんだ。
この議員はインドネシアの政治家を前にしてこのように言った。
「先の大戦において我が国は貴国を占領して被害をもたらし、ご迷惑をおかけしたことを心からお詫び致します」。
中島さんはこれをそのまま通訳したらインドネシア人から笑われると思った。
なぜなら、インドネシアの政治家達は戦争中に日本軍によって訓練や教育を受けた方達で、戦後のインドネシア独立戦争に勝利した勇者達でした。
結局、中島さんはこのように通訳した。
「過去の大戦において我が国は敗れ、貴国の期待に応えることが出来ず申し訳ありません。心からお詫び致します」。
しかし、インドネシアの政治家達は日本兵に日本語を教わり、知っていた。
日本語のわかる彼らは笑って「ナカジマは苦労するね」と中島さんの肩を叩いた。昭和48年4月、戦争中にインドネシアの情報将校であったムルトポ将軍に同行した中島さんは、ASEAN諸国を中心にした国際会議に出席した。
この時、韓国代表がこう言った。
「日本帝国主義が三十数年間も韓国を侵略したために、韓国は防衛体制が確立できなかった。その責任は日本にある」
ムルトポ将軍は韓国代表にこう言った。
「朝鮮人は自ら戦わなかったのに責任を日本に押し付けている。もしアジアに日本という国がなかったと仮定してみよう。
1899年の義和団事件以来、ロシアは満州に大軍を駐留させ朝鮮を狙っていた。朝鮮が戦わないから日本が戦った。これが日露戦争だ。
朝鮮は日本が敗けると思って裏ではロシアと繋がっていた。
もし日本が戦わなかったら朝鮮はロシア領になっていたことは間違いない。ロシア領になっていたのは朝鮮だけではない。
中国も北半分はロシアが支配し、揚子江以南はイギリスとフランスが支配しただろう。
遅れて登場したアメリカはどうやって支那大陸に食い込むか企んでいた。そもそもアジア植民地化の原因は中国にある。
中国はアヘン戦争でイギリスの不当な要求に屈して簡単に降伏してしまった。その時中国はなぜ徹底抗戦しなかったのか。
イギリス・フランスを味方にして蒋介石のように戦えば勝てたかもしれない。
中国が不甲斐なく敗けたから日本が戦わざるを得なくなったのではないか。この責任は中国にある。
アジアで戦ったのは日本だけではないか。
もし日本という国がなかったらアジアは半永久的に欧米植民地勢力の支配下に置かれていたはずである」
真実を言われた韓国代表は何も言えなくなった。土地調査事業によって、全国の土地の40%が総督府の所有地として収奪された、と韓国の中・高等学校の韓国史教科書は教えてきた。しかし、この数字はまったくの虚妄であり、解放後に「自分の土地を返せ」という騒動や請願は一件もなかった。
1982年にあるソウル大名誉教授が『朝鮮土地調査事業研究』という本を書き、日帝の土地収奪が具体的に証明されたと韓国の学会・メディアは歓喜して迎えたが、何の裏付けもなかった。
巻末の久保田るり子・産経新聞編集委員の解説によると、李栄薫氏は、90年代に韓国中部、忠清南道七郡の膨大なデータベースを作り調べたところ、収奪されて日本人のものとなった土地がほとんどないことを明らかにした。土地調査事業とは土地行政のための所有権確定作業だったのだ。これらの成果を発表すると、韓国の歴史学者から「親日派」と呼ばれ、批判されてきたそうだ。シャーマニズムの世界には善と悪を審判する絶対者、神は存在しません。シャーマニズムの現実は丸裸の物質主義と肉体主義です。シャーマニズムの集団は種族や部族です。種族は隣人を悪の種族とみなします。
韓国の民族はそれ自体で一つの集団であり、一つの権威であり、一つの身分です。そのため、むしろ種族と言ったほうが適切です。
大河小説『アリラン』は、350万部の大ベストセラーだが、総督府による朝鮮土地調査事業に際して、警察による即決銃殺が4000件もあったとし、虐殺の場面を何度も描いているが、あり得ないことだった。李栄薫氏は実在の歴史を、幻想の歴史、つまり虐殺と強奪の狂気にすり替えました。休眠レスはここにもあるようだなw
唐突に脈絡のない内容レスでも始めるか…wwwある程度見てて、ようやくわかってきてる。
韓国人というカテゴリーはあるけど、その前に人間だから、個体によって考え方はバラバラ。
韓国の教育の縛りの前に、自分の意見を貫く事を表面上してはいけない雰囲気がある。
日本人の表と裏より、韓国人の表と裏の方がはるかにひどい事を知ることになる。
常に自分に対して何か嘘をついていないと社会的に浮いてしまうのが韓国社会のように見えている。ここに問題があるのだろうな。
自分に対して嘘をついてる人だらけだから、ストレスの溜まる社会になっている。ストレスを吐き出すときに、やり過ぎちゃってる人は多い。カイカイでストレス吐き出してる韓国人、結構居るよね。東日本大震災で韓国は支援をしてくれていない
というのは本当だろうか。
「日本人は東日本大震災の時、韓国が色々と支援したのに、捏造してそれをなかったことにしている奴らだ」と言っている人が何人も見られる。
そういえば、韓国は東日本大震災の募金を竹島関連の自国の資金に転用したりしていたという記事があった記憶と、台湾からの支援が大きかったというのは、すごく印象に残っているのだが、そのほかの国の支援というのはあまり知らない。
韓国政府は3月中に支援物資としてレトルト焼飯3万食、チョコバー14万4000個、羊羹11万2000個、チョコパイ12万袋、ラーメン12万9024 袋、スープ4万8600袋、乾パン3600袋、レトルト御飯約10万食、韓国のり225キロ、飲料水580トン、ペットボトルお茶1万4000本、移動式 発電機4台、長靴4000足、ゴム手袋1万2000個、毛布6000枚を提供した。4月5日、マスク2万個、石けん2万個、作業用手袋3500セット、レトルト炊き込み御飯2800食、計約2400万円相当を岩手県に輸送した。
韓国からは大韓赤十字社を通じて、日本赤十字社に義援金2億1千557万9,474円と海外救援金29億7千7百10万1,031円の約32億円が届けられている。とWikipediaには書いてある。なかなか大きな支援だ。
しかし、教科書検定問題などで、竹島への日本の対応などが韓国内で問題視されたのと時期的にバッティングした事もあり、それに対する反発から「ソウル市衿川区のようにわずかな支援募金の8割を全く関係のない『独島守護活動』支援に転用した例もある。」というような行動がネット上では大きく取り上げられて、韓国の支援はわずかだった、というような印象を形成したと思われる。朝鮮日報の「東日本大震災で韓国人ほど心からの慰めと激励を送った国民はない。なのに歴史歪曲を繰り返す日本」というメディアの姿勢も、日本人から反発を買ったのではないかと思われる。韓国は、このような時、歴史問題を持ち出して嘘を言う印象が強い。あと、自画自賛をするから日本の美意識とは合わない。だからダメだ、というわけではないが、変だと思う人は多いだろう。フル引用
1980年代の中盤から、日本には韓国に学ぶべきだと主張する人々がいた。人脈としては途切れているが、今も新型コロナウイルスに関連して日本は韓国の防疫に学ぶべきだと叫ぶ人々がいる。
日本のあるテレビ局は「むやみに新型コロナウイルスのPCR検査数を増やすべきではない」と述べた医師のコメントを、“編集詐術”により、「韓国のようにしろ」と主張したかのように放映した。そこまでして韓国上げに狂奔する理由はなんなのか。
韓国の駐日大使館の予算に対日世論工作予算費という名目があり、2020年は前年の3・3倍にも急増した。これと無縁だろうか。
韓国では海外に自慢すべき事物に「K」を付けた英語で呼ぶ。初めは「Kポップ」やがてKビューティー、Kフード、Kメディカル…。そして、文在寅は「K防疫」を高らかに自慢した。
K防疫とは、感染者の動線をスマホの位置情報、カード支払いの記録、防犯カメラの映像から割り出し、疑わしき者には検査を強制し、陽性者は強制入院か強制隔離する措置をいう。
日本でそんな措置をしたら、マイナンバーにすら文句を言っている“人権派”が猛反対するのは必至だと思われがちだが、「日本もK防疫を」と叫ぶテレビのコメンテーターは、“人権派”と重複するのです。サンフランシスコ講和条約において、日本は「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」を放棄しました。この中に、竹島は含まれていません。李承晩はこれに抗議し、日本の放棄地に竹島を含めるようアメリカに要請しました。しかしアメリカ政府は、いわゆる「ラスク書簡」で「独島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある」と記すなどして、その要請を却下しています。
日本は第二次世界大戦で敗戦した時に、欧米諸国から日清戦争や日露戦争で得た領土を還すように言われます。朝鮮の独立や権利についても手放すように言われました。
その時に韓国は竹島は韓国のものだから還せと主張します。ここから竹島問題が始まります。
ところが竹島は江戸時代より日本に主権があり、1905年に島根県に編入されている歴史がありましたので、アメリカからの韓国への回答は、「竹島は元々日本の領土である。その主張は認められない」というものでした。
これに対して韓国は1952年1月18日に「大韓民国隣接海洋の主権に関する大統領の宣言」という宣言を行いますが、これは大韓民国だけの独断による主張でした。この主張は世界に対しては認められていませんが、大韓民国では「平和線」という名前で呼ばれています。この「平和線」ですが、ここから韓国による日本人の拉致が始まります。
1965年の日韓基本条約の発効までに韓国海軍及び、内務部海洋警察隊により拿捕された日本国の漁船は327隻に及び、うち3隻は連行中に沈没し、182隻は没収されたままとなっている。また乗組員は3911人が抑留された。船舶拿捕の直接被害の他に、拿捕による経営の困難や、働き手を抑留された家族の苦痛など、有形無形の損害は大きなものでした。
日本の巡視船は、韓国警備挺の動きを監視し、韓国警備挺が出動すると、付近で操業中の日本漁船に警報を鳴らし避難させた。韓国警備挺が日本漁船を追跡した時は、韓国警備挺と日本漁船の間に入り、日本漁船を横抱きにしたり、日本漁船員を日本の巡視船に移乗させて漁船を曳航したり、可能な限りの方法で、韓国の日本人拉致に抵抗した。韓国警備挺に追跡された日本漁船は、34年以来でも196隻にのぼるが、この中には日本の巡視船の果敢な行動により、拉致を免れたものが少なくない。韓国警備挺の乗員は、時には日本の巡視船が曳航中の日本漁船に移乗し、ロープを切断して拉致していく事もあった。あるいは拉致を免れようとする日本漁船に対して銃撃をした事もたくさん有り、保護に向かった日本の巡視船にも銃撃をしてきた。
このような韓国警備挺の不法行為に対して、日本の巡視船は日韓の国交の正常化を期待して我慢をし、韓国警備挺から砲撃を受けて、日本の巡視船の乗組員が危険に晒されても、韓国警備挺に砲撃する事なく、あくまで韓国警備挺との紛争を避けながら、日本漁船を脱出させる事に努めてきた。また不幸にして日本漁船が拉致された時には、韓国警備挺に対してその不法を訴え、釈放を要求し、事態の平和解決に向けて努力してきた。1922年からの韓国による日本人の拿捕が始まった、
当時、連合国の占領下にあった日本は、連合国の設定したマッカーサーラインを越えて日本漁船が操業する事は禁止されていた。
当時の韓国による日本漁船の拿捕は、マッカーサーラインの越境を理由に行われた。22年から26年までの間に韓国に拿捕された日本漁船は94隻。そのうち9隻が、まだ返されていない。
26年には朝鮮戦争の発生に伴い、韓国の警備が強化された為に一年間に45隻という多数の日本漁船が拿捕されている。サンフランシスコ平和条約の発効に伴って、それまで日本漁船の操業区域を制限していたマッカーサーラインの撤廃が予測されると、韓国の李承晩大統領は、27年1月18日「海洋主権宣言」いわゆる「李ライン」を一方的に宣言し、このライン内で操業する日本漁船を李ライン侵犯を理由に、一方的に拉致し始めた。
この為、27年以降、韓国による日本人拉致事件の発生が続き、日本漁船の乗組員が銃撃されて死亡するというような不幸な事件も8件起こった。
27年以降40年まで、拉致された日本漁船は233隻あったが、返されたものは49隻で、27年以降は、26年以前の拿捕とは違うものになっている。>>87
昭和22年からの韓国による日本人の拿捕が始まった、
当時、連合国の占領下にあった日本は、連合国の設定したマッカーサーラインを越えて日本漁船が操業する事は禁止されていた。
当時の韓国による日本漁船の拿捕は、マッカーサーラインの越境を理由に行われた。22年から26年までの間に韓国に拿捕された日本漁船は94隻。そのうち9隻が、まだ返されていない。
26年には朝鮮戦争の発生に伴い、韓国の警備が強化された為に一年間に45隻という多数の日本漁船が拿捕されている。サンフランシスコ平和条約の発効に伴って、それまで日本漁船の操業区域を制限していたマッカーサーラインの撤廃が予測されると、韓国の李承晩大統領は、27年1月18日「海洋主権宣言」いわゆる「李ライン」を一方的に宣言し、このライン内で操業する日本漁船を李ライン侵犯を理由に、一方的に拉致し始めた。
この為、27年以降、韓国による日本人拉致事件の発生が続き、日本漁船の乗組員が銃撃されて死亡するというような不幸な事件も8件起こった。
27年以降40年まで、拉致された日本漁船は233隻あったが、返されたものは49隻で、27年以降は、26年以前の拿捕とは違うものになっている。紀元前2200年程度に、人工の鉄を扱う民族があったというのが見つかってはいるが、確実なところでは、ヒッタイトの紀元前1200年のものが確実なところだろう。
それより少し遅れて黄河文明にも鉄がもたらされる。紀元前1000年あたりには鉄を使っていたようだ。
日本と朝鮮に鉄が伝わり作り始めるのは西暦300年前後である。当然の様に鉄の武器も作られる様になる。
日本では、西暦1150年位までは中国、朝鮮と同じタイプの直刀。剣が作られていた。
しかし、騎馬で戦うのに便利にするために、直刀を根本から曲げ、斜めに刃を滑らせて切る事が可能な剣を作り出す。
これが日本刀の始まりで、今までの直刀は、点で打撃を与えたのに対し、この湾曲刀は線で打撃を与える構造になっていた。手首を返したりしなくても引いて切るのと同じ効果があった。
1274年、モンゴル帝国は当時支配していた朝鮮半島から軍を出させ、モンゴル朝鮮連合軍で日本を攻略にくる。当時の朝鮮半島の国の名前は高麗だった。
連合軍の船は、戦艦のほか上陸用舟艇、補給船などからなり、日本近海は巨大なマストがたなびく、おびただしい数の軍船で埋め尽くされていた。
日本も高麗へ送り込んだスパイから間もなく攻めてくることを察知し、上陸が予想される九州北部の日本海沿岸に兵を配置するも、まずは数で圧倒されることになる。
10月5日、対馬の小茂田浜に上陸した元・高麗連合軍により、島を守る対馬守護代、宗資(助)国ら80人の兵や島民はことごとく殺害される。
壱岐でも惨殺を繰り返し九州沿岸に迫ってきた連合軍に16、17の両日、肥前・松浦や平戸島、鷹島などが次々に攻められ、討たれた兵の数は数百にのぼったともいわれている。対馬、壱岐での敗戦の報に接した御家人らはただちに九州の拠点・大宰府へ向かい、その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行の3男、景を総大将に集まった兵は約1万人。
元・高麗連合軍の動きは速く、20日に主力部隊が博多に上陸する。3方から上陸する兵力は2万人で、日本側の数はその半分に満たなかった。
当時の武士は戦いで手柄をあげては、恩賞として新しい土地をもらうことを格好良いとしていた。このため、真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことが良い戦い方だった。
武士からすれば後鳥羽上皇と戦った承久の乱以来、久々に訪れた所領拡大のビッグチャンス。当然、博多でも敵陣に突っ込んでいく。
対する元・高麗連合軍は組織ごとに動く集団戦法だったので、先に突撃した武士らが取り囲まれては討ちとられるといった事が繰り返され。
さらに突然、けたたましい音とともに破裂する物体に終始、悩まされる。未知の兵器「鉄炮」である。
直径20センチ、重量4キロの球体が破裂してその破片が約50平方メートルに飛び散る仕組みで、殺傷能力は低かったようだが、強烈な爆音と爆風は武士達も腰が抜けるほどだった。
コンパクトな短弓も驚異で、射程圏は約30メートルと日本の長弓に比べて6割程度だったが、その分、連射が効き、矢の先に毒が塗ってあったために殺傷能力は高かった。
日本側の視点で当時の戦いの様子を描いた「蒙古襲来絵詞」では、武士らに目がけて投げられた鉄炮が爆発し、短弓の矢が人だけでなく馬にも向けられていた様子がわかる。
それでも立ち向かっていったため「勇敢にして死ぬ事を怖がらず」とする元側の書物もみられる。九州・博多から侵略する2万人のモンゴル・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮という新兵器、集団戦法などを駆使し、日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺し、赤子を股から引き裂き、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、日本の攻撃から船を守る盾にしたほか、拉致した子供を高麗国王が奴隷した。朝鮮半島の人々はベトナム戦争でも当時の日本でも同じ事をしていたという事です。
1274年10月20日、船で博多湾に集まったモンゴル・高麗連合軍の兵は早朝上陸を始めた。日本側は鎌倉・北条時宗と京都へ敵襲来の知らせと援軍を求める使者送ると、大宰府に本拠地を置き、至急集まった周辺の武士が総勢5千数百人で待ち構えた。
最初に戦闘状態に入ったのは午前10時ごろ。場所は上陸地点のひとつ、百道原をさらに進んだ麁原。相手はキム・バンギョン率いる高麗軍約4500人で、迎え撃つ日本側は約1300人。
前日に元軍のホン・ダク率いる先遣隊が占拠した小高い「麁原山」周辺をめぐる攻防戦とみられるが、数で劣るのに単独で突っ込んでいく日本に対し、鉄炮などの新兵器と集団戦を展開する高麗に不利な状態になる。
ここで菊池武房らは約3キロ東の赤坂に撤退することを決め、途中に湿地帯が広がる鳥飼潟へ高麗軍を誘い込む。すると、術中にはまった高麗軍はぬかるみに足をとられて思うように進むことができず、戦闘は膠着状態になる。
一方、元・高麗連合軍約5400人に上陸された箱崎には島津氏、少弐氏、大友氏などから1000人しか集まらず、いきなり劣勢に立たされる。
日本側の大将・少弐景資の放った矢が、元軍に2人いた副司令官のうち1人を射抜き、負傷させる戦果もあったが、博多の息浜まで攻め込まれる。
この戦いで箱崎神社が焼失する。博多の中心部でもモンゴルや高麗の兵による殺害や略奪、放火などで地は血だらけになり、空は炎で真っ赤になったといわれている。こんな行為は博多の前の戦場だった対馬と壱岐でも同じで、高麗の歴史書には、キム・バンギョンの高麗軍が対馬で島民を皆殺しにしたとする記録が見られる。
日蓮宗の宗祖・日蓮が当時、関係者から聞いた出来事をまとめた文書にも同様のことが書かれている。
生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に並べられたという記述がある。
奴隷の手に穴を開ける行為は高麗以前から朝鮮半島にはあったとして、日蓮はこれを高麗の仕業と断定しているが、伝聞をもとにした記述のため、異論も出ている。
山に逃れた島民をしつこく捜す元と高麗の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにした話は沢山出てくる。
壱岐でも同様の行為があり、元・高麗連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人だったともいわれている。
さらに、元の総司令官が帰還後、日本から連行した少年・少女200人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上するといった拉致行為が高麗側の記録で確認されている。竹島の時も同じ事をしているのである。未知の兵器「鉄炮」である。
直径20センチ、重量4キロの球体が破裂してその破片が約50平方メートルに飛び散る仕組みで、殺傷能力は低かったようだが、強烈な爆音と爆風は武士達も腰が抜けるほどだった。
少しでかい手榴弾みたいな感じか
これって引火して破裂させるの?中国韓国も、それを軽量化させたらこうなるよねってモノがある。それが爆竹なんじゃないかと。
>>94
調べてみたら中にまきびしの様なものが入ってて炸裂するので、破片が飛び散り殺傷能力があったみたい。
鎧を貫通出来たとか。
手榴弾ですね。斑点蓮の王のイメージ
YouTubehttps://youtu.be/C9RmATBBWf4誰?日本の王とは
じゃあ、朝鮮の王さんもいるのか?
誰なのか
誰、日本の王
足利義満、日本国王、国内では、使わなかったらしいです。
NG推奨 日本の王
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