金泰廉의 訪日 事件은 古代 韓日 關係史에 있어서 큰 分岐點이라고 할 수 있다. 金泰廉과 實際 新羅 朝廷의 對日 態度는 서로 判異하여 小野田守의 派遣 以後 羅-日 關係는 크게 惡化되었고, 이는 新羅征討計劃을 實行에 옮기는 契機가 되었다.
韓日 關係史 硏究가 進陟됨에 따라 "新羅王子 金泰廉"의 身分을 否定하는 主張들이 提起되었고, 이는 마침내 通說이 되었다. 『三國史記』 卷第九, 「新羅本紀」 第九 惠恭王과 『三國遺事』 卷第二, 「紀異」 第二 景徳王·忠談師·表訓大徳에 따르면 758年에 태어난 惠恭王이 嫡子이며 그가 태어나기 以前에는 景徳王에게 子息이 없었기 때문에, 752年에 訪日한 "新羅王子 金泰廉"의 存在는 成立할 수 없는 것이다.
따라서 이 金泰廉이라는 人物이 누구인지를 밝혀내는 것이 韓日 史學者들의 課題가 되었다. 金恩淑은 金泰廉이 聖德王의 조카인 金志廉의 兄弟, 卽 景德王과는 四寸關係였을 可能性을 提起했다(「8세기의 新羅와 日本의 關係」 『國史館論叢』 第29輯, 1991). 그러나 筆者는 金泰廉이 惠恭王 4年(768年)에 兄 大恭과 함께 叛亂을 일으킨 大廉과 同一 人物이라고 생각한다. 다음은 『三國史記』 卷第九, 「新羅本紀」 第九 惠恭王 四年 秋七月條 記事다.
一吉飡大恭與弟阿飡大廉叛 集衆 圍王宮三十三日 王軍討平之 誅九族
一吉飡(第7等位) 大恭이 동생인 阿飡(第6等位) 大廉과 叛亂을 일으켜 33日 동안 王宮을 包圍했지만, 王軍에게 討伐당해 九族이 죽임을 당했다는 內容이다. 『三國遺事』에서는 이 所謂 "大恭의 亂"이라는 事件의 顚末에 대해 더 디테일하게 記錄하고 있다. (繼續)角干大恭家梨木上雀集無數. 㨿安國兵法下卷云, 天下兵大乱, 扵是大赦修省. 七月三日大恭角干賊起, 王都及五道州郡并九十六角干相戰大乱. 大恭角干家亡, 輸其家資寳帛于王宫. 新城長倉火燒, 逆黨之寳穀在沙梁·牟梁等里中者亦輸入王宫. 乱㢱三朔乃息, 被賞者頗多誅死者無筭也. 表訓之言國殆是也.
卽 7月 3日에 大恭이 叛亂을 일으키자 王都와 五道州郡에서 96 角干들도 서로 싸워 大亂이 있었고(96名의 角干이 同時에 叛亂을 일으켰다기보다는 諸 族長들 間의 相爭을 가리키는 것으로 보인다(金哲埈,「新羅貴族勢力의 基盤」 『人文科學』 7, 1962)), 이들을 鎭壓하는데 세 달이 걸렸다. 위의 記事에서는 大恭의 官位를 17官等 中 第1等位인 角干이라고 하고 있어, 『三國史記』의 記錄과는 差異를 보이고 있다.
大와 泰는 서로 通字고, 金泰廉의 訪日과 大恭ㆍ大廉 兄弟의 亂 사이의 時間的인 間隔도 16年에 不過하다. 叛亂이 鎭壓된 後 大恭의 財産, 寶物, 緋緞들은 모두 沒收되었는데, 王宮을 한 달 以上 包圍할 程度의 軍事力을 갖추고 이에 應하여 全國 各地에서 叛亂이 일어났음을 통해 大恭ㆍ大廉 兄弟가 상당한 經濟力, 政治力을 保有했음을 어렵지 않게 斟酌할 수 있다. 萬若 金泰廉과 大廉이 同一 人物이라면, 700餘名이라는 前無後無한 新羅 使節團의 規模도 說明되는 것이다. 文獻 上으로 볼때, 大廉이야말로 金泰廉의 實體에 가장 近接한 人物이 아닐까?국한문혼용충 ㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋ
나 너 팬이니까 이런 글 좀 많이 써주셈 사랑해>>1
興味深い。
私は残念ながらこの話題に関して知識が少ないので、意見を述べることができないが。
「古代史の謎について想像すること」は、「優れたミステリー小説の犯人を考えること」と同じような知的な興奮があると思う。>>9
脊髄反射レスやめて>>8
そりゃ金泰廉というか新羅王子の事なんて誰も興味ないし>>12
글쎄올시다.... 國際 情勢에 따라 低姿勢 外交를 취하는 境遇는 많지만, 金泰廉은 必要 以上으로 低姿勢였고, 新羅征討가 計画된 건 金泰廉의 訪日 以後 新羅 朝廷의 對日 態度가 契機였다. 當代 新羅 朝廷이 低姿勢를 취할 만한 狀況도 아니었다. 萬若 兩國 間의 摩擦을 두려워해 일부러 朝貢使를 稱한거라면, 自身의 行動이 新羅 朝廷이 指向하는 對日 外交와 完全히 反對되는 것 또한 알고 있었을 것이다. 그런거라면 泰廉은 앞으로 다가올 "後暴風" 따위는 전혀 念頭에 두지 않았다는 얘기가 된다. 旣存說대로 "貢調"를 稱함으로써 얻는 어드벤테이지를 노렸다는 것이 훨씬 說得力 있지 않을까.新羅の王子金泰廉等が天皇に拝謁し併せて貢物を献上した。
奏して曰く。
新羅国の王が日本に照臨される天皇の朝廷に申し上げます。
新羅国は昔から世世絶えることなく船楫を連ね来てお国に報じています。
今、国王自ら来朝して貢物を献上しようと思いますが、
一日も主無くば国政が乱れます。
これをもって王子の韓阿さん泰廉を王に代わる首として370余人を引き連れて入朝させ
いろいろな貢物を献上させます。
謹んでもって申し開きをいたします。
王の勤誠は朕の嘉する所なり。
爾来当に撫で親しみを加える。
泰廉がまた次のように申し上げた。
普くあめつちの下は王土(天皇の国土)にあらざるは無く、
卒土(=陸地の続くかぎり)の浜は王の臣下にあらざるはなし。
泰廉は幸いにして聖世(=聖人が治められる御世)に来て来朝して
供奉(=仕える)することは歓慶に堪えません。
持参しました国の粗末な貢物ですが謹んで献上します。>>19
新羅王의 立場을 王의 表文이 아닌 口頭로만 傳達하고 있다는 점은 金泰廉이 王子를 詐稱했다는 또 다른 根據로 사용되고 있다.やっぱりこうなっちゃうんだよなぁ…
日本では学術的なレベルにおいて三国史記も三国遺事も歴史史料としての価値は高くない
(特に三国遺事は小説の扱いで、中国における「三国志演義」程度の見方しかない)
ちなみにはっきり言うと日本書紀もさほど高くない。天皇側の権威を高めるために相応の誇張はあるだろうというのが歴史学会の一般的なコンセンサスだ。
それを前提として、記述内容のうちどの部分が史跡や史料と一致するか、他国の一次資料との整合性はどうかということを調べながら、相応に確からしいことをひとまずは歴史としている。
現在に残っている客観的な史料からすれば、新羅が倭国に朝貢していた可能性はかなり高い。
(可能性が高いだけで確実ではない)
それだけの話だろう。>>24
답이 없구나. 너는.
>>25
現在に残っている客観的な史料からすれば、新羅が倭国に朝貢していた可能性はかなり高い。
<- 일단 이 部分은 論外로 하고,
『三國史記』가 疑心받는 건 初期 記錄 限定이다. 『三國史記』 自體의 史料的 가치를 否定하는 學者는 없다. 『三國遺事』는 野史의 性格이 강하지만, 儒敎的 史觀에 의해 編纂된 『三國史記』에서 言及만 하고 일부러 忌避하던 古記들을 積極的으로 引用함으로서, 正史를 補完하는 가치를 지닌 것이다.
그리고 그렇다고 해서 『日本書紀』에 引用된 傳承이나 韓半島系 記錄들의 歷史性까지 否定되는 건 아니다. 『日本書紀』의 史料로서의 正確性의 不在를 勘案해도 日本 古代史 뿐만 아니라, 韓國 古代史의 空白들을 채워 주는데 지대한 役割을 하고 있는 것이다.
저 ID:A5MzIyODM의 論理의 核心은 "引用된 史料가 現傳하지 않으므로 信憑性이 없다"라는 거잖아. 이건 古代史 史料의 共通되는 特性을 완전히 無視하는 넌센스다. 난 여기에 反論하고 있는 거야.>>28
誠意없는 거 알고 있지만, http://kaikai.ch/board/8461/ 여기에 筆者가 "席次爭長事件"의 事實性에 關聯해서 적은 코멘트를 參考해주길 바란다. 席次爭長은 大伴古麻呂가 捏造했거나 부풀렸을 可能性이 높다. 『三國史記』 卷第九 新羅本紀 第九 景德王 12年 秋8月條에는 "日本國使至 慢而無禮 王不見之 乃廻"라고 하여, 日本 使臣을 冷待한 이유가 使臣의 無禮한 態度 때문이었다고 밝히고 있다. 이는 金泰廉의 訪日 以後 自信感을 얻은 日本側에서 新羅를 蕃國으로 대하려하자, 新羅側에서 反撥한 것으로 보인다.
渤海가 新羅 征討 計劃을 提案했다고 하기에는 너무 消極的이었다고 생각. 760年을 前後해서 武官이 아닌 文官을 使臣으로 派遣한 건 反對하는 意見을 暗默的으로 表示한 것이 아니었을까.
그럼 난 저녘에 시간이 되면 다시 오겠습니다.席次争いの考察は面白かった。
752年の朝貢の件は続日本書紀に嘘を書く理由がないし、日本での出来事だから明かな嘘を書いたらまずいと思う。
金泰廉は日本の蘇我氏みたいに権力争いに負けて新羅の歴史から消されたという解釈でOKかな?
実際に金泰廉は王子レベルに権力があり、本人も次期国王になるつもりだったかもね。朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ古墳として、10数基の存在が知られる。これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期から後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、日本列島から朝鮮半島への勢力伸長・文化移入を表すものとして注目される
>>29
>>32
席次争いが捏造である可能性があるとは、興味深いです。
ただ、760年から渤海史が武官でなく文官だったとありますが…私は、あまり関係がないと思います。文武両官の役割に着目するところなど、朝鮮王朝史を学んだ方の発想だと思いますが、渤海という国の実態がまったくわかっていない現在、この判断は性急ではないでしょうか?
私が、新羅征討計画が渤海からの提案だと思う理由には、渤海大使である紫綬大夫・王新福による唐の内乱(安史の乱)の報告があるからです(「続日本紀」)。唐の内乱の詳細を伝える=新羅を討つ計画…と考えられます。ちなみに王新福は、日本朝廷から正三位(正三品)を受けています。
また、渤海についての記述は、たいてい「新唐書」に基づくもので実際は実態のわからない国です。ゆえに渤海国は、関係史的に考察しなければなりません。渤海国と新羅が敵対していて、日本が渤海と同盟関係にあったこと。そして、唐の力が強い時期には、渤海が黙るという構図が伺えます。新羅王朝にはどれ程の規模と多様性をもった王侯貴族がいたのかってのが分からないし
日本側の地方の有力者も大和王朝成立後は衰退してしまって畿内以外は何をしていたのかがサッパリ>>33
>>34
納得할 수 있는 解釋이다. 762年에 新羅가 北境 地域에 6城을 쌓은 건 아마도 渤海를 意識한 것이라고 봐야겠지.
다만 渤海가 갑자기 文官을 使臣으로 派遣하게 된 背景은, 唐, 新羅와의 關係 變化에서 把握할 必要가 있다. 安史의 亂 當時 渤海는 唐으로부터 "郡王"에서 "國王"으로 昇格되어 新羅와 同等해지게 되었고, 亂 以後 세 나라의 關係는 점차 改善되기 시작했다. 이런 狀況에서 日本의 軍事的인 움직임에 同調하는 行爲는 渤海의 立場에선 三國 間에 겨우 造成된 平和的인 雰圍氣를 깨뜨리는, 리스크가 너무 컸던 것이다. 渤海가 國王에 冊封된 것이 762年이고, 同年 10月에 文官인 王新福을 派遣했다는 事實에 注目해야 한다. 征討 計劃은 애초에 惠美押勝의 政治的 意圖가 多分했고, 同時期에 蝦夷와도 葛藤을 겪고 있었기 때문에 實現性이 높았다고 생각하지 않는다.
"金泰廉"의 實體에 대해서
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