東周の前半の
春秋戦国時代(BC770年~BC403年)
戦国時代(BC403年~BC221年)
周王朝滅亡→周辺諸侯の台頭して覇権争いの激化→戦国の七雄(燕・斉・韓・魏・趙・楚・秦)が誕生
このような時代の中で、古い秩序が崩れ、新しい思想や秩序が必要になり、
諸侯も有能な人材を求め、それが多くの思想家や学者が現れ各々の思想を展開した。儒家(孔子・孟子・荀子)
道家(老子・荘子)
法家(商央・韓非・李斯)
兵家(孫子・呉子)
墨家(墨子)
縦横家(楚秦・張儀)
陰陽家(騶衍)
名家(公孫竜)
農家(許行)중학교때 간략하게 배운다. 막상 진짜 철학책은 보지 못했다.
ilbe에선 쇼펜하우어가 인기있다.
>>3
だからさ、全部漢字にすると中国語と認識して意味不明になるってばよ。중고등학교 시절 도덕 시간 때 배운 이후 딱히 관련 책을 찾아서 읽진 않았네요.
그리스 철학이나 서양 철학보다 훨씬 재밌었다.>>8
잘 번역됩니다.>>8
大丈夫みたいですね。
孔子は、「仁」と「礼」の重要性を力説した。
仁は内面のあり方、礼は仁が外に現れたものである。
仁と礼は親子兄弟の愛情(孝悌)から始まる。
そして、孔子は「忠恕」という考えを強調した。
忠恕は誠実さと思いやりで、人は忠恕を持って生きなければならないとする。
孝は、親を想い孝行する事である。
悌は、兄や年長者を敬う事である。
忠は、誠実である事である。
恕は、他人を思いやる事である。묵가가 짱이지. 천하의 스승이란 묵자를 두고 하는말.
孔子は、国の治め方にも言及し、それが「仁」による政治、つまり徳治主義である。
君子は自分の仁によって民衆を感化し、道徳的な政治を行うべきという考え方。
孔子は、周などの古代中国を理想的な国と考えていた。
封建制度、内容的には、君子と諸侯が国を所有。
礼楽は、内容的には、「礼」(正しい行動)を重視。
敬天は、内容的には、この世には「天」が存在し、天の意志(天命)に従うのが理想。
敬天とは、天を敬う事。
君子とは、天命を受けて統治者になる者。
よって、君子=天子。
孔子は現実主義者である。(実際は現実が見えていないと個人的には思う)
非現実的な問題など不要。仁や礼の概念は良いが、2mもある大男の孔子が、
儒教を創めたにせよ、その対象者から奴隷は当然外された。
当時は王侯貴族と庶人がその対象者であり、
奴隷は「商品」「所有物」として扱われた。
諸子百家は斉の国の臨淄の北門に集められたが、
それらの「先生・教授」連中を纏めたのが、
奴隷から出世した淳于 髠(じゅんう こん)だった事は痛快である。儒家でなく法家が漢以降も採用されてたら、
今頃、中国&韓国人はまともな思考と民度だったろう。>>14
それが出来なかったのは、漢以降の王朝は儒学の形式的儀礼のみを重宝し、権威を綺羅を飾り荘厳さを纏って、身分制度を固定する事に腐心したからでしょうね。
始皇帝ほどの有能さは無く、システムとしての国家運営を退嬰させた。
尤も、その時代に受け入れられる空気があったかは疑問です。
秦帝国の法治への怨嗟は激しく、中央集権は出来ずその後は封建領主である各地の王が分立し、清帝国まで続いてしまうのですからね。
秦の苛烈すぎる法が、余程大陸にはトラウマとなったのでしょう。
ただ、法も皇帝の意思の前では無力でしたし、
その後幾つかの王朝が法家を用いても、民衆レベルが変わるとは言い切れないと思いますね。
民族的思考と言うものは、論理を超えたところにありますからね。
中国は五胡十六国以降、北方民族の幾多の流入があったので、変わった可能性もありますが、
朝鮮の場合高句麗以後、民族的変化はほぼないですから、無理でしょうね。諸子百家の中では、兵家の孫子・呉子が好きだな。
>>15
中国のおかしな主張の1つが中華思想でしょう。何処までが中華なのかその特定地域の実体すら曖昧な定義。
これ、元々は中原辺りを指してた言葉らしいですが、
秦という田舎国の王が全土支配してしまった為に、秦は田舎者だとバカにされないように、秦の領域までを中華と定義してしまった事が起源みたいですね。
つまり“自分が住んでる地域までが中華だ”と。
これにより中国人が進出した地域までが中華と呼ぶようになり、現在の中国政府が言う“核心的利益”とやらにも繋がってる。>>1
ためになります
諸子百家について
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