上杉謙信を勉強していますが気になることがあります。

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  • 1오리소금구이(鴨肉焼き)2017/04/17(Mon) 21:24:30ID:I5NDE2NjY通報

    上杉謙信、武田信玄を話す日本の歴史小説(SAIONJI GOGOROの空と地、井沢元彦の信濃戦雲録)を読んでいますが.

    一番難しいのは, 当時,関東地方の状況を知って読めば, 理解になりそうなので.

    いったん質問をすべて整理しましたが返事をお願いします。

    1. 鎌倉府 = 京都の足利将軍の同じ血族が京都の足利将軍に代わって 関東地方を実質的に 支配する政府ですか?

    2.鎌倉公方 = 鎌倉府のナンバー・ワンですか?

    3.関東管領 = 鎌倉府のナンバー・ツーですか?

    4.古河公方 = 滅亡した.鎌倉公方の子孫が勝手に鎌倉公方を 自称した 人ですか?

    5. 堀越公方 =京都足利 将軍が正式に任命した 鎌倉公方ですが。 ある事情で、鎌倉に入ることができず伊豆に政府を設置した 正統性のある, 鎌倉公方ですか?

    6.韓国のWIKI百科には上杉謙信の4次川中島戦闘(ハチマンパラ戦闘)から手取川戦闘以前までは空白であるため、知ることができません。 謙信の八幡バーラ戦闘から手取川戦闘以前までの謙信の歴史を教えてください。

  • 75名無し2017/04/18(Tue) 03:06:47ID:MxNzQ3NTI(1/2)NG通報

    >>1

    その認識で正しいです。

    ・鎌倉府
    室町幕府の関東、東北地方の出先機関。

    ・鎌倉公方
    鎌倉府の長官で、関東における征夷大将軍の名代。鎌倉に本拠を置いていたので鎌倉公方。
    公方=天皇や将軍などを意味する言葉。

    ・関東管領
    鎌倉公方を補佐する職。任免権は室町幕府が持っている。
    通常は鎌倉公方が決めた人物を室町幕府が追認する。

    ・古河公方
    第5代鎌倉公方の足利成氏(Ashikaga Nariuji)が、関東の内紛によって鎌倉府の本拠を古河に移してから呼ばれるようになる。つまり、第5代鎌倉公方=初代古河公方。
    古河公方は、呼び名が変わっても鎌倉府の実権を握っており、室町幕府滅亡後も権威だけは保持し続けた。

    ・堀越公方
    関東の内紛で、室町幕府と対立を深めた足利成氏を、室町幕府への敵対者と見なした室町幕府が、足利成氏を討伐する為に、新たな関東公方として足利政知を派遣したが、足利成氏の抵抗に遭い、伊豆の堀越に留まり、そこを本拠としたので堀越公方と呼ばれるようになるが、息子茶々丸の代で今川氏によって滅亡させられる。

    あとは、日本語版のwikipediaを見た方が早いかと。google翻訳で十分意味は分かると思います。

  • 76名無し2017/04/18(Tue) 03:17:08ID:QxMDY0ODA(6/11)NG通報

    当時、足利家は皇帝のような存在で、足利一族のことを「御所」「公方」などと呼んだ。

    鎌倉公方の他にも、篠川公方・小弓公方・平島公方など各地にいた。

  • 77名無し2017/04/18(Tue) 03:33:52ID:QxMDY0ODA(7/11)NG通報

    >>68
    鎌倉は元々鎌倉幕府があったところで、将軍が政権を取ることに対する正当性をずっと意識していた。
    足利将軍が結局京にとどまったのは、ある種気まぐれともいえる。(征夷大将軍は東国を制する役職なので)
    だから「鎌倉公方」というのは特別な名前になる。
    それを"全国の将軍ではない"と明確化するために"関東公方"としているだけで、あまり決まりはないと思う。

    鎌倉は関東の都でした。

  • 78名無し2017/04/18(Tue) 03:42:45ID:QxMDY0ODA(8/11)NG通報

    室町幕府は体制が結構いい加減で説明が大変だ。

  • 79오리소금구이(鴨肉焼き)2017/04/18(Tue) 04:37:20ID:Q2NjQxNjQ(23/25)NG通報

    >>75 一つも欠かさず全部理解しました。 親切で詳しい説明心からありがとうございます。 パチ!もう一つ最後の質問です。 これだけ答えてくれたらこれ以上迷惑をかけません。 単なる日本語の質問です。 "鎌倉府の長官"という単語の中で"長官"は、1等、一人者、ナンバーワンという意味ですか?

  • 80名無し2017/04/18(Tue) 05:09:49ID:A2OTk4NzQ(8/11)NG通報

    長官(かみ)
    令制の官司の第1位の官職。
    長官は官司の職務を統括し,その下に次官 (すけ) ,判官 (じょう) ,主典 (さかん) があって
    四等官を構成した。
    https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%AE%98-46602

  • 81名無し2017/04/18(Tue) 06:08:31ID:MxNzQ3NTI(2/2)NG通報

    >>79

    その通りです。TOPの意味ですね。

    但し、鎌倉府の「長官」という表現は、役所のトップという、現代で使われる表現で、室町時代にそう呼ばれていたわけではありません。例えば「金融庁長官」みたいなのと同じ使い方です。

    >>80が説明してくれている「長官」は朝廷の官職(律令制)の序列の事なので、鎌倉府の長官の意味の説明としては間違いです。

    鎌倉府の序列は、上から、鎌倉公方-関東管領-評定衆-引付衆-外様となります。
    室町幕府の序列も将軍-管領-評定衆-政所-侍所という幕府内部の役職と、将軍の下に全国の守護職や、探題職というものがあり、守護職と幕府内部や鎌倉府の役職を兼ねている場合もあります。

    ちょっとややこしいので、Wikipediaの室町幕府の項目などの組織図を見ると理解しやすいと思います。

  • 82名無し2017/04/18(Tue) 08:28:34ID:AzNjk1MTI(1/1)NG通報

    >>5
    東は、口は悪い嫌韓が多いけど、
    知識豊富な人が圧倒的に多いからね。
    正しい知識を求めるなら、東が適正でしょう。

  • 83名無し2017/04/18(Tue) 08:46:20ID:AyNjk5Mzg(1/2)NG通報

    >>4 上杉重房を祖としています。本貫は丹波。藤原氏。鎌倉幕府の宮家将軍 宗尊親王にしたがって関東(当時は坂東)にきたようです。
     室町幕府を開いた足利尊氏のお母さんは、上杉家からきています。
     関東公方は10か国の支配を幕府より認められていました。管領とは戦前の総理大臣のようなもの。鎌倉幕府の執権よりも弱い立場です。関東管領家は代々上杉家からでていました。
    上杉憲実が一番有名です。足利幕府では、細川頼之が有名です。
    上杉謙信は長尾家の出身です。当時長尾家は上杉家の家裁をしており、有力者でした。所領は
    扇谷上杉の2倍ぐらい有りました。山之内上杉は最も有力で所領は13か国にまたがってありました。上杉憲実は越後上杉から来て山之内上杉の統領となり、関東管領にもなりました。
    15世紀後半の関東は、戦にあけくれていました。古河公方は今川家に鎌倉より追い出されたかたちです。太田道灌や長尾景春はこの時代のヒーローです。
     この時代の関東の歴史は、殆どの日本人には、理解できていません。また理解するのには
    かなりの時間が必要です。おおざっぱに見たほうがよいです。

  • 84名無し2017/04/18(Tue) 09:33:44ID:MzNjg4MzI(1/1)NG通報

    >>51
    あなたがいい人だって ほめているんだよ。
    それに あなたのコミュニケーション能力も立派なものだ。

  • 85名無し2017/04/18(Tue) 16:57:13ID:IwMDg1MDQ(1/8)NG通報

    >>1
    凄く簡単に説明すると

    1.鎌倉府=京都の室町幕府が関東を支配する為に設置した役所。

    2.鎌倉公方=鎌倉府の長。世襲となり、関東武士の支配権を持っていた独自の権限が強く、時に幕府と対立した。

    3.関東管領=鎌倉公方の補佐役。任命権は鎌倉公方でなく京都の将軍家にあったため、時に鎌倉公方と対立した。

    4.古河公方=謀反のかどで幕府に討伐された鎌倉公方。古河に逃げ、その後も鎌倉公方を自称し続けた。
    5. 堀越公方=古河公方に変わって幕府に正式任命された鎌倉公方。独自の軍事力が無く古河公方を討伐できず、本来の任地である鎌倉にも行けなかった。

    6.第四次川中島以降、上杉の主な戦場は信濃から北条家が勢力を強める関東に変わる。野戦では上杉の戦力が優勢だが、越後と関東の間には山脈があり、雪が無い間しか関東には出陣できないため、夏の間に取った領土を冬に奪還されの繰り返しとなり疲弊して、結局は関東に地歩を固める事は出来なかった。

  • 86名無し2017/04/18(Tue) 18:08:43ID:I2OTcxMTA(3/5)NG通報

    >>29

    やはり4、は回答が分かれてますね。
    やはり注釈を簡単につけます。

    古河公方自体、当初本拠地を幕府と争い、古河に勝手に移した事により成立しているため、勝手に名乗ったという認識で間違いありませんがその後30年位(ごめんなさい正確に覚えてません)後、幕府と和解し、その後は正式なものとしてこちらも認められている筈です。

    当初の私の回答で「間違いではない」と言う多少曖昧な回答になったのは上記のような理由からです。

  • 87名無し2017/04/18(Tue) 18:13:43ID:I2OTcxMTA(4/5)NG通報

    >>29

    上記回答の文章修正

    本拠地を幕府と争った訳ではありません。
    幕府と争った結果、本拠地を~
    が正しい書き方です。

    急いで書いている為、分かりづらくすみません。

  • 88名無し2017/04/18(Tue) 19:12:46ID:c4ODk4NDg(1/1)NG通報

    まあ、正直・・・
    スレ主は俺よりもすでに日本の歴史に詳しい!w
    歴史に興味がない日本のアホな若者よりも立派だ!
    誠実で勉強家な人は、日本人は人種を問わずに尊敬する。

  • 89名無し2017/04/18(Tue) 20:00:31ID:A2OTk4NzQ(9/11)NG通報

    いやいや、Google先生を使えば俺のほうが詳しい
    こういうダメな日本人もいます・・・俺の事だけど

  • 90오리소금구이2017/04/18(Tue) 22:20:23ID:Q2NjQxNjQ(24/25)NG通報

    >>85 30年程度対立?ですか? それとも30年間、和解の意味ですか?

  • 91名無し2017/04/18(Tue) 22:28:51ID:IzOTkzMDQ(1/1)NG通報

    >>90
    30年ぐらい対立。

    関東武士達が、古河公方を認めていたので、その地位を安堵(保証)するしかなかった。

    関東武士達は、領地争い等があった時の仲裁役として、『鎌倉公方』が必要だったので、家柄が申し分ない古河公方を認めていた

  • 92名無し2017/04/19(Wed) 00:49:59ID:Y2ODYxMzI(2/8)NG通報

    幕府は古河公方を討伐する軍勢を派遣する余裕が無くなり
    現地で古河公方と戦っている堀越公方・関東管領側でも内乱が起きて戦いを継続できなくなり、和平を結ぶしか無くなったんだね。

  • 93名無し2017/04/19(Wed) 01:01:20ID:U3OTY1MDU(5/5)NG通報

    >>90

    古河公方に関しては皆さんが答えてくれたとおりです。

  • 94名無し2017/04/19(Wed) 09:30:25ID:k3OTQ1Nzk(2/2)NG通報

    >>90 30年間の対立です。それもかなり複雑です。発端は、足利成氏が関東公方になり、上杉憲忠が管領になったこと。成氏は持氏の息子。憲忠は憲実の息子。永享の乱で憲実は、持氏を死においつめた。将軍足利義教が許さなかったからだ。成氏は憲忠を殺害。今川範忠が鎌倉へ進軍。そこで狼藉をはたらき、以後鎌倉は、歴史からきえる。成氏は相模に与党が少なかったために、鎌倉を出て古河に本拠を移す。享徳の乱の始まりである。38年間続く。
    上杉勢は五十子に陣を構える。山之内上杉の家宰職をめぐって長尾景春が主君に反乱。景春の与党は強力であった。それを扇谷上杉の家宰であった太田道灌が、つぶしてゆく。数十の戦闘に殆ど勝利するも、大きくなりすぎたため粕谷で主君上杉定正に風呂場で殺される。
    また山之内・扇谷両上杉も途中から不和となり、戦闘をひらく。三つ巴、四つどもえとなり、敵味方が錯綜する。有力大名たちもその過程で、お家騒動をおこし2派にわかれ、古河方についたり、上杉がたについたりする。応仁の乱と全く状況が、似ている。
     この辺りの事は非常に複雑で、理解しにくい。だからざつと覚えるのがよい。
    持氏関東管領になる。→上杉禅秀の乱→永享の乱→結城合戦→嘉吉の変→享徳の乱→長尾景春の乱(応仁の乱同時進行)→明応の政変これにより戦国時代突入 etc。

  • 95名無し2017/04/20(Thu) 09:50:57ID:QzMjYxMjA(1/1)NG通報

    鴨さんはエライよなあ
    その辺の日本人よりよっぽど勉強してるわ
    日本人は尊敬すべき人は人種を問わず尊敬します

    ざっくり言って朝鮮人を差別してますがw
    それは故なく差別してるわけではありません
    尊敬すべきであれば朝鮮人だろうが鴨だろうがネギだろうが尊敬します

  • 96うろつき童子2017/04/20(Thu) 19:21:02ID:EwMTM4NjA(1/5)NG通報
  • 97名無し2017/04/20(Thu) 21:17:39ID:cyMTM5ODA(1/1)NG通報

    鴨ちゃんに、鴨南蛮蕎麦を奢ってあげたい(∩´∀`∩)

  • 98오리소금구이(鴨肉焼き)2017/04/25(Tue) 18:08:21ID:Y3MjE2NTA(25/25)NG通報

    >>97감사합니다

  • 99名無し2017/04/25(Tue) 19:25:46ID:UzODcwMjU(10/11)NG通報

    >>98
    建てた各スレの総括をしておいてね

  • 100名無し2017/04/25(Tue) 20:22:21ID:kyMDMwMDA(9/11)NG通報

    >>94
    なかなか頑張ったがやはりさっぱりわからんストーリーになってるな。
    安心しろ。俺でもそれよりマシな纏めはできん。
    室町関東の大河ストーリーをまとめるのに、こんな小さい箱では無理なのだ。
    悲劇と狂気の公方成氏を主人公にして一年間NHKでやらねばとても無理。
    なんとか上杉憲実から関東越後永正の乱あたりまでは繋げたいものだ。

  • 101名無し2017/04/25(Tue) 20:47:07ID:k3NjU4MjU(1/4)NG通報

    >>100 読んでくれてありがとう。15世紀の室町幕府の実態をざっと分かるようになるまで10年はかかったよ。関連本は200冊以上読んだと思う。なかなか各大名家の被官の名前を覚えられなかった。つい最近は、太田道灌と享徳の乱、足利義稙をよんだ。
    足利義稙の人生は非常に波乱万丈で、いろいろ考えさせられました。
    室町時代は日本史のエアーポケット。殆どの歴史小説家が嫌がる分野。
    スレ主が読んだ井沢元彦氏は、独特な歴史観を持たれて面白い。細川政元と上杉謙信は、愛宕権現等に帰依し、一生不犯を誓ったと書いてあった。細川政元が風呂場で殺される時
    天狗の修行を行う最中だったという。これを他の本で確認した時「あっ」と思った。
    いろいろ書きたいが、バックグランドがあなたのように理解できていないと、空回りになってしまう。

  • 102名無し2017/04/25(Tue) 21:15:10ID:kyMDMwMDA(10/11)NG通報

    名君上杉憲実は持氏が京の元号を無視して独自元号を作るなどするために注進。
    しかしこれが主君の怒りを買い抗争となる。
    関東管領は京幕府の信任機関であるため幕府軍とともに鎌倉公方を討伐。

    憲実は鎌倉公方を追放したあと主君への不義を悔いて出家する。
    息子には「くれぐれも管領家を継いではならぬ」と言い残し旅に出る。

    十数年のあいだ関東は家宰(家老)クラスが仕切っていた。
    だがやはり殿様が必要となり管領職を憲実の息子憲忠に依頼。憲忠は受けてしまう。
    にわかに暗雲立ち込める鎌倉。

    そんなとき持氏の遺児が信濃で匿われ成人していたという報せを受ける。
    国人衆は公方職の再興を要請。
    憲実の不安は的中してしまう。憎悪の半生を持つ主君とその仇である家臣の邂逅。

    これんいより30年戦争の火蓋が切られることとなる。

  • 103名無し2017/04/25(Tue) 21:18:37ID:kyMDMwMDA(11/11)NG通報

    >>101
    というようなことが『鎌倉大草紙』に書いてあるようですね。
    太平記の続編と言われるらしいけど。
    昔の歴史物語は講談などの語り口でドラマチックに書かれているから、
    ある種小説のようなものですね。

  • 104名無し2017/04/25(Tue) 22:50:13ID:k3NjU4MjU(2/4)NG通報

    >>103そうですね。その太平記もいろいろな人によって書き綴られ、足利直義がこれは嘘ばかりではないかと言ったそうです。太平記のなかのバサラ大名では、土岐頼遠が好きです。今川了俊の難太平記も読んでみたいです。

  • 105うろつき童子2017/05/05(Fri) 17:49:02ID:c1MjQxNjU(2/5)NG通報

    YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=dgao7T4Gkkw
    「オン・ベイ・シラ・マンダヤ・ソワカ」
    ・・「毘沙門天」真言です。・・南無・・。

  • 106오리소금구이(鴨肉焼き)2017/05/05(Fri) 18:44:04ID:M3ODYxMTU(1/1)NG通報

    >>105 MIHATA TATENASHI! GO SHOW RAN A RE!

    1.日本戦国時代のASHIGARUらのyariの戦いは、実は刺してKOROSUのではなく、降りて打ってKOROSUと聞きました。 しかし、刺してしまうのではなく、降りて打って殴ることに敵軍をKOROSUことができますか。

    2.、中世欧州の騎士のように戦国時代も騎兵だけで行われた部隊が敵陣に向かって騎兵だけで突進して敵の戦列を崩壊させる部隊がありますか? 甲陽軍鑑では武田軍も皆、馬から降りて戦った。と書かれているが、日本のインターネットでは甲陽軍鑑の言葉もある程度認めます。それでも中世欧州の大規模な騎兵突撃ほどではないが、少しは騎兵部隊があったと言う人もいます。 誰の言葉が真実ですか?

  • 107名無し2017/05/05(Fri) 19:39:26ID:EyNjQ2NjU(1/1)NG通報

    なんか日本人にとっても勉強になるスレだな・・・
    上杉か北条でノブヤボ始めたくなってきたぞ。

  • 108名無し2017/05/05(Fri) 20:04:38ID:k1MTc1ODA(1/1)NG通報

    >>106

    1.最近になって戦国時代の戦い方も細かく検証されているが、槍を正確に突いて鎧を纏った敵を仕留めるのは難しいので、槍のしなりを使って殴って相手を倒して止めを刀をなどでするというのが主な戦い方だったようだ。
    短い槍を持った騎馬兵ならまた違う戦い方があるのですべて同じ戦いしたとは言えないが、実際の戦は泥臭かっただろう。

    2.日本の馬は西洋の馬より小さかったので本格的な騎馬兵部隊は成り立たなかった説はあります。
    しかし、長篠の戦いの記述や念入りに作った馬防柵などの対策を見れば、それなりの騎馬部隊は存在したようです。
    小さくとも人間よりは体重もあり、突進力もあるので脅威だったのは間違いないでしょう。

  • 109名無し2017/05/05(Fri) 20:36:18ID:kyNTczODU(1/2)NG通報

    >>106
    足軽っていうのは実際は素人の農民。韓国でいうなら今の徴兵された人達と同じ。職業軍人じゃないから訓練がどれだけできたかわからない。中には槍を使いこなした人も居たかも知れないが叩き合いっ感じだったんじゃないかな。面白い話があって、豊臣秀吉(うろ覚えだけど)が誰かと長い槍と短い槍(刀だったかな)どちらが強いかって話になって秀吉は長い方が強いって言ったんだ。じゃあ、試してみようと言うことでお互い素人に長い槍のチームと短い槍のチームを作り対決することに…。試合開始の前に秀吉は「形なんか気にしなくて良いから長さを生かして叩きのめせ」と指示を出した。結果は秀吉のチームの圧勝。やっぱり叩き合いでも槍の先は刃物だから恐怖を与えられるし殺傷能力は有るからね。

  • 110名無し2017/05/05(Fri) 20:44:42ID:kyNTczODU(2/2)NG通報

    >>106
    まあ日本の時代劇や大河ドラマの戦闘シーンに出てくるサラブレッドやアラブみたいなデカイ馬は居なかったよ。数の問題やなんやでサラブレッドやアラブを使ってるだけだろうけど。何より今の日本人と昔の日本人は体格が全然違うから在来種の馬じゃ今の日本人は乗れない。

  • 111名無し2017/05/06(Sat) 02:52:49ID:k2MjQwNTg(11/11)NG通報

    >>106
    室町時代から足軽が登場し、戦国時代には足軽の集団戦法が中心になった
    武器は槍から鉄砲へと進化している
    織田軍の記録によれば、武田の騎馬隊は実在していた
    騎馬の突撃に備えるよう、信長が指示を出している
    全体として足軽歩兵が主力で、指揮をとる一部の武士が馬に乗っていた
    しかし、小規模な騎馬の集団運用はあったようだ

  • 112うろつき童子2017/05/06(Sat) 19:40:47ID:c5NTM2OTg(3/5)NG通報

    >>106

    1.他の人も書いているけど織田を除いては百姓兵の多かった当時の歩兵は槍を武将並に使える人など
    まずいなかったと考えて良いと思う。四六時中、槍の練習するよりも畑や田んぼにいることの方が多かっただろうしね。相手を突いて槍先が抜けなくなったら自分もやられる。その為にも「叩く」方が簡単で直ぐに出来る戦い方だったのでは?

    2.これも他の人が書いているけど日露戦争の頃までは日本の時代劇や大河ドラマにみられるような「サラブレッド」の馬なんかいなくてかなり疑問視されているね。今よりも体格の劣る馬に重量級の鎧を着た侍が乗っているわけだから実際の光景はポニーに侍が乗っている感じで「颯爽」という印象はほど遠かったと思うな。

    では「武田騎馬隊は嘘?」と思うかもしれないけれど居たことは居たらしい。
    馬の役目は武者を乗せて突撃する格好の良い場面を想像しがちだけど荷駄を引いたり兵糧を運んだりも大事な役目。人が運ぶよりも多くを運べるからね。「歴史群像シリーズ」だっけかな?武田の場合、確かに他の大名の軍勢よりも馬の占める割合は多かったがこの兵馬による輸送手段が重要視されていたので軍勢の移動が他の軍勢よりも早く、その為に「疾きこと風の如く」という評判になった・・という記事を読んだことが有った。確かにその方が真実味が有るような気もする。
    あんな何十㎏もある鎧を着た武者を乗せて全力疾走なんかしたら馬も直ぐに疲れると思う。映画の画面的にはサラブレッドにまたがった鎧武者の突撃は確かに見栄えがするけどね。時代考証を重視する余り、「身長150㎝くらいの役者」に甲冑を着せて「ポニー」に乗らせて突撃・・コメディみたいだよ。

  • 113名無し2017/05/06(Sat) 23:39:52ID:M2Mzk3Njg(3/8)NG通報

    >>112
    戦国時代の軍馬の体高は約130㎝程度。
    今のサラブレッドと比べると小さいが、猛威を振るったモンゴル騎兵の馬と大差なく、スウェーデン騎兵より若干大きいくらいで、騎兵馬としては問題の無いサイズだった。

    流鏑馬に使われている映像を見れば、十分に素早く、的もさほど大きく無いので実用的なのが分かるよね。
    サラブレッドのように大型の馬を使っていれば的も大きく小回りは効かず使い辛い。
    YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=nFX9j10wcfc

  • 114名無し2017/05/07(Sun) 00:12:32ID:gzMTczOTY(4/8)NG通報

    ちなみに武将級の馬は体高140~150cmであって
    サラブレッドの原種であるアラブ馬並の大きさだから
    現代との身長差を考えればそれほど見栄えは悪くなかったと思うよ。

  • 115famicomおじさん◆dFWti3p/..2017/05/07(Sun) 00:27:53ID:c0MTg3MjM(1/1)NG通報

    >>112
    1.
    密集陣形だから槍を突く持ち方が難しい。
    咄嗟の回頭時に横の人にぶつからないよう槍は立てて持つ。
    結果的に振り下ろす形になる。

    2.
    木曾馬は可愛くて強いんだぜ。
    ポニーだからって弱いとは限らないのよ。

  • 116名無し2017/05/07(Sun) 02:07:33ID:gzMTczOTY(5/8)NG通報

    >>112
    あと、武田騎馬隊について荷駄の事だという異説を信じているようだけど
    長篠の戦いで織田軍は大規模な馬防柵を作っているし
    「信長公記」など織田側の史料には馬を防ぐための柵だとハッキリ記されている。

    武田軍が騎馬隊を組織し、騎乗突撃を多用していたのは疑う余地がないよ。

  • 117名無し2017/05/07(Sun) 17:26:32ID:k4NzM0NDM(3/4)NG通報

    騎馬隊の突撃はほとんどなかった。当日はつゆの間の晴れ間である。れんご川沿いに馬防柵を築いたが、前面は畑や田んぼでぬかるんでおり、馬の機動力は全くつかえない。
    馬に乗って歩兵と戦うことは、自殺行為である。槍で馬の腹をつつけば、馬は跳ね上がり
    乗っている侍は落馬する。そしてすぐに首を取られる。指揮官が馬上で指揮をするのである。馬上なので少し高く、兵隊たちへの命令がしやすい。騎馬隊の突撃は、陣形が乱れたときにそこに素早くいくためにするのである。真正面からの突撃は、映画やドラマのお話。当時の槍は、竹でできており、しなるため叩くのが定法。マケドニアのテリッサのような頑丈な長槍ではない。

  • 118うろつき童子2017/05/07(Sun) 19:05:20ID:gzODMyMzE(4/5)NG通報

    >>116
    >あと、武田騎馬隊について荷駄の事だという異説を信じているようだけど
    長篠の戦いで織田軍は大規模な馬防柵を作っているし

    御説、ごもっとも。ご指摘有り難うございます。設楽原の戦いの屏風にも描かれているからね。
    でも、勝頼VS信長と信玄VS謙信の時代では微妙に違うし(弓矢と鉄砲とか兵器にも違いが見られるし)
    単純には比較できないのでは?年月的には数十年の違いだけどね。兵器の進歩で戦術は変わるわけだし。
    無論、僕が信じていた「武田騎馬隊=荷駄論」も今から見ると30年近く前の「古い説」な訳だけどね。
    新しい説が出てくるのは当然のことで、別に嫌じゃないな。

  • 119名無し2017/05/07(Sun) 19:19:13ID:gzMTczOTY(6/8)NG通報

    >>117
    基本認識がおかしい。
    戦史の基礎だが、当時の戦場において騎兵による正面突撃は極めて有効な戦術だった。

    戦国時代と同時期でいえば、欧州ではポーランド騎兵フサリアが猛威を振るっていた。
    密集体形の重騎兵による突撃で、銃兵や槍兵の陣形を突き崩し、ほとんど損害も出さないという一方的な戦闘を繰り返していた。
    ナポレオンの戦史を見ると、騎兵による正面突撃というのが頻繁に、それも決定的な役割として使用されている。
    銃砲の発展した19世紀まで多用された戦術だったんだよね。

  • 120名無し2017/05/07(Sun) 19:33:13ID:gzMTczOTY(7/8)NG通報

    >>118
    信玄と謙信が戦っていた頃と長篠の戦いまでは十数年の差しかないよ。
    織田・徳川が騎馬突撃を警戒したということは、それまでの武田軍が騎馬戦術で実績を上げていたからこそ脅威と認識されるわけで。

  • 121名無し2017/05/07(Sun) 20:07:25ID:E1NDA5NDU(1/1)NG通報

    江戸時代の軍制では騎馬武者はどういう扱いになってるんだろ

  • 122名無し2017/05/07(Sun) 20:28:41ID:k4NzM0NDM(4/4)NG通報

    >>119 騎兵の突撃は、土地が乾いたところでのみ有効。長篠の戦いでは、ぬかるんでいたため騎兵がうごくことはできない。それに多数の鉄砲の音で、馬は暴走してしまう。
    日本では、騎兵戦がほとんど行われないのは、天候と地形のせいである。年間降雨量は1800ミリ。世界平均の2倍。関ケ原の戦いをみても、あれだけ広い空間で、ぬかるんでもいないのに騎兵の突撃(正面攻撃)はひとつもなかった。騎兵戦のあるところは、広大な土地と乾いた土がある。カンナエの戦いをみても分かるように、まずお互いの騎兵同士が戦う。蒙古やサラセンのように騎馬で世界を席巻した国は、おおよそ雨の少ない広大な土地を有している。

  • 123うろつき童子2017/05/07(Sun) 22:28:02ID:gzODMyMzE(5/5)NG通報

    >>120
    それにしても「兵法家」で知られる信玄入道が「キツツキ戦法」で謙信を追い立てて「八幡原」で迎撃するのに川中島に「馬防柵」が有ったとは、余り聞きませんね?・・・たった十数年の差なのに・・。「・・それは、霧の中の遭遇戦だから仕方なかった・・」気もするけど、「用意周到」な信玄入道にしては些か手配りが薄かったのでは?
    「・・・それは、武田騎馬隊が他家の大名よりも優勢だったから、自ら手配する必要も無かったんですよ!」という考え方も勿論有ります。しかし、この戦闘で死んでしまう「名軍師」の「山本勘助」もまだこの時間は生きていたでしょうし、妻女山から降りてくるはずの越後勢に「防備」をしておくのも「軍師」としての「策」では?当然有った献策と思いますけど。「車懸り」に対して「馬防柵」くらい考えられない「軍師」でもなかったと思いますけど。
    ・・まぁ、「結果論」ですけどね。

  • 124名無し2017/05/08(Mon) 08:11:15ID:I5OTUwMjQ(8/8)NG通報

    >>123
    織田勢の馬防柵ってのは大規模な野戦築城なんだよ。
    木材だけでも大変な輸送量であって、兵站に相当の余力がないといけない。
    準備して待ち構えている所に敵がしかけてきてくれるとも限らない。
    防戦ならば砦に籠るほうが効果的。いつでも使えるようなものではない。

    川中島の戦いというのは城に籠る武田勢を、5分の条件の野戦に誘い出して撃破するのが上杉の目的だった。
    武田が堅陣に籠って動かなければ、それまでの例通り決戦には至らず、両軍睨み合うだけで終わっていた。
    武田としては上杉を追い返せば勝ちなんで、よほどの勝算が無い限り、城を出て5分の野戦に打って出る必要は無い。
    つまり仮に上杉が野戦築城できたとしても武田はわざわざそこを攻撃しないし
    武田が城を出れば上杉も動くから、野戦築城している時間的余裕もない。
    長篠とは全く条件が違う。