九州からの勢力が畿内まで勢力を拡張したのか
畿内の勢力が九州まで勢力を拡張したのか
俺は畿内の勢力が九州に勢力を拡張したんだと思ってる
みなさんはどうですか?日本では弥生時代から上長下短の長弓が使用されており、遊牧系民族特有の短弓は最後まで使われていない。
古墳時代に主に使われた短甲も基本的には歩兵向けの鎧で、弥生時代から同様の形態をした木甲が出土しており日本列島内に起源をもつものである。
短甲は一部で桂甲が使われ出した後も継続して使用されている。
短甲は全羅道や慶尚道の半島南部でも出土する。
なお、古墳からは馬具が副葬品として出土するものの、加羅などで出土する馬甲は出土しない。
日本国内ではそもそも重装騎兵が役に立たなかったのであろう。このての「起源」とか「ルーツ」が絡む歴史の議論では「われわれの物語」の確認と、それを脅かす言説への排撃に陥りがちだ。恣意的な資料解釈と選択によって、自国の歴史の固有性と独自性を「証明」してみせる営為。そのような民族原初論は歴史学を学問としての客観的論理性から遠ざけ、政治の侍女に押し留める19世紀的発想でしかない。民族的自尊心が精神の安寧となっている人間にとっては、ヤマト王権や天皇が朝鮮半島由来となっては、実存の危機となるらしい。私はヤマト王権や天皇がどこの由来でも何も困らないけどな。ただ、思考実験として「どういう物語が史実に近似しているのか?」考古学、形質人類学、歴史資料を総合的に俯瞰していくと、騎馬民族征服説的な全体像がみえてくるわけ。騎馬民族征服説的なストーリーは紀記神話の天孫降臨、神武東征ともぴったりと合致する。
新嘗祭や大嘗祭は農耕民族由来の神事だよ。今の天皇家が騎馬民族由来の神事をやってるなんて聞いたこと無いな。流鏑馬や鷹狩、競馬でもやってれば再考の余地はあるだろうけど。天皇家が大陸由来だったらなんなのよ、人類はアフリカ由来だから何にも問題ないじゃん。中国人も朝鮮人アフリカ由来だよ。
俺も騎馬民族うんぬんについては違うと思うな
天孫降臨、それはつまり山頂降臨の神話だがそれを事実の反映とするのもズレていると思う
ありふれた山頂降臨の神話を外国の勢力が来たとの根拠にするのならば
山頂降臨の伝承は北方アジアに多いってのを根拠にするべきではないか?
まぁ日本神話において山頂降臨以外は北方系少ないと思うがね。>>123
そもそも倭に歴史を記述する習慣がなかったのだから数百年前のことを明確には出来ないだろう
金印にしても返還、あるいは埋葬している可能性その他諸々すぎてなんとも言えない
志賀の金印は状況が特異過ぎて一般論に当て嵌められん>>123
朝貢した記録や記憶をなくしたんじゃなくて、「中国に朝貢してた」とは書けないだけ。
魏志に記事があるのは神功紀で触れられてるだろ。>>127
書が無いという話ではなく史書として「編纂」する習慣が無かったという話なんだが
漢字は当然理解されていたのだから書そのものはあったろう
あんたの理屈なら史記ですら記述に誤りが多いから偽書って事になる、考証学が出来るのは清代だぞ>>127
偽書と言うのは明らかに言い過ぎ。天武帝の政治的立場によるバイアスがかかっていることは否定しがたいけど、それをもって偽書呼ばわりするならば、史記以下のすべての中国の史書、朝鮮の三国史記などもすべて偽書ということになる。ウエツフミやホツマツタエ、なんだったら竹内文書や東日流外三郡史が偽書というのであれば賛成するけれど。偽書ってのは古田武彦がソースにした和田家文書みたいな、そもそも出自自体が怪しい代物の事だしな
>>100
討論板だからだろ日本書紀を偽書と言ってしまったら、世界中の通史や正史は、まさにすべて偽書だろうw そもそも、中国の正史はフォーマットとして、易姓革命を中心に置いているから、前の王朝の皇帝は徳がなかったから、天に見放された。だから、より徳ののある私が天に選ばれて新たな皇帝になって清王朝を建てた!ってのが定型だからね。 殷の紂王に代表されるような。
『明史日本伝』の秀吉について書かれた箇所。
「日本は古来より王がおり、臣下では関白という者が最も尊いとされ
山城州の頭目、信長がこれになっていた。」
「ある日信長が猟に出ると木の下で眠る者がおり、跳ね起きて衝突しそうになった。
何者かと問い詰めると、名を平秀吉と言い
薩摩州の奴隷で、雄健ですばしっこく口が上手かった。
信長はこれを悦び、馬の管理をさせ、木下人と名づけた。」
「後に重用され、信長のために策を尽くし、二十余州を切り取り、摂津州鎮守大将となった。
参謀に阿奇支(アキチ)なる者がおり、罪を得て、信長は秀吉にこれを討たせた。
にわかに信長は部下明智に殺される所となり
秀吉は阿奇支をまさに滅した時に変を聞き
部将行長らと共に勝ちに乗じて兵を還し、明智を誅したので威名は益々振るった。」
明智が二人もいるよね(笑)地理も滅茶苦茶。
中国史家の日本に対する関心なんてこの程度なんだから、その記述を史実に当てはめる努力は徒労なんじゃないの。>>133
朝貢してる時と断絶期では当たり前だが情報の精度が変わってくるに決まってるだろう
まあ執筆した清代でも日本に対する認識は至極薄いのでそういう精度になるのだろうが
第一つの情報で歴史全てを判断するわけでもないあくまで資料の一つにすぎない魏志倭人伝はわざわざ倭国まで出向いてるわけで
なんとか見たまま記述しようとは思っただろうが
真実ではない部分があるから訳わかんないことになってるんだろうな
邪馬台国の場所を特定したかったら親魏倭王の金印を見つけるしかないべ
それにしても奴国の漢委奴国王の金印はよく見つかったな>>135
出向いたと言っても、本人ではないですし。東夷伝全体に公文書に残った記録の取りまとめですからね。
せめて裴注みたいに出典を明示していてくれると助かるんですが、それもないですから。
行程がやたら詳しいのは、今で言う復命書みたいなのが残っていたのかもしれないけれど、逆に朝貢してきた使者等からの不正確な聞き取りをそのまま残した書があってそれを引き写したのかもしれない。>>11
少なくとも天皇陵を初めとする宮内庁管理古墳は、調査を認められたい。北九州から南朝鮮にあたる地域に大きな勢力が
あったこととは否定できないが、その勢力の中心は
魏志倭人伝に書かれた伊都国=委都国=倭都国
だろう。
しかし魏志倭人伝には、そこには邪馬台国から施政官が置かれ、王は形式的で謁見さえしていない。
つまりすでに征服された後の様子しか記述されていない。- 139名無し2022/07/04(Mon) 00:10:36(1/1)
このレスは削除されています
邪馬台→ヤマトと読むんだよ
邪馬台国の王都は「飛鳥」場所は不明邪馬台国と機内のヤマト王権は別物だ。
そもそも時代が百年ほど違っている。
邪馬台国の女王・卑弥呼が初めて魏に朝貢したのは西暦238年だ。
機内の有力豪族としてヤマト王権が台頭し始めたのは4世紀初頭だ。
古事記が完成したのは西暦712年、日本書紀が完成したのは720年であり、記述した日本の役人たちは三国志の魏志倭人伝の邪馬台国の記述を知っていた。
しかしヤマト王権には卑弥呼に関する伝承がなかった。
日本書紀の神功皇后の記述のところに、「魏志倭人伝の卑弥呼は神功皇后のことであろうか」という記述がある。
しかし卑弥呼は生涯独身の女王であるのに対し、神功皇后は仲哀天皇の皇后であり且つ応神天皇の母親である。
卑弥呼と神功皇后は別人だ。
邪馬台国は九州に存在した地方豪族の連合国だったのだろう。
そして邪馬台国の時代から百年後ほどの時代に、機内の奈良盆地の一豪族が勢力を拡大し始めたのがヤマト王権だろう。
古事記、日本書紀では初代天皇の神武天皇が即位したのは紀元前660年とされているが、実際はヤマト王権が機内で勢力を持ち始めたのは4世紀初頭くらいのことだっただろう。というか、魏志倭人伝の位置って、多分歪曲されてると思うぞ。
恐らく邪馬台国は畿内で正しくて、あの位置関係にしているのって「呉」の後背に「魏」の友好国があるっていうことにしたかったからで、それをそのまま元々「蜀」の人物だった陳寿が事実を把握できずに記載した結果だと思う。>>1
明確に定まっていない為、捏造ではない。韓国人じゃあるまいし。
だが日本国内に存在していたことは確かである。>>1
通説はともかく、文献史料からの考察は、そもそも司馬氏の王朝であった晋の時代に書かれた魏志では、東方大都督だった司馬懿の実績がライバルだった曹氏の西方大都督曹真の西域宣撫に対抗して誇張されているのであてにならない。
考古学で解明するしかないと思う。
山のように少数説が成立しうる歴史ロマンだとは思うけどw>>1九州説こそ、アイヌ協会の捏造
>>1
邪馬台国の所在地については畿内説、九州説、関東説、四国説、奄美大島説、出雲説、架空説など様々みたいです!>>148
洛陽を起点に、ほぼ同じくらいの行程を西へ向かえば…?
それを考えると、旅程の説明はだいたいつくんだよね☺️そんな昔の事は分からん
そもそも情報を得る事が大変な昔の書物自体バイアス全開で書かれた物ばかりだw考古学者の多くは畿内説を支持している。
邪馬台国から大和朝廷へと連続性があり、妥当な見解だろう。邪馬台国は、無かったかも、建国神話には、そのような記事が無いから
>>1だからあくまで説なんよ。確定ではないから‼️
>>1
諸説あるだけで明確ではないのでそれはう~んというところです。>>155
では明確に区別してみて
宜しく- 158名無し2023/02/26(Sun) 12:42:10(1/1)
このレスは削除されています
>>1
韓半島から来た渡来人が作った国だから九州北部にあったと考えるのが妥当だろうな。>>152
邪馬台国はあった。
九州にあった女酋長の国だった。
邪馬台国は九州に存在していて、近畿の大和王権とは別物だ。
魏志倭人伝では卑弥呼は対立して争っていた狗奴国(くなこく)との戦いの最中に亡くなったような印象の記述がされている。
古事記、日本書紀には卑弥呼にあたるような人物や事績の記述はない。
昔から古事記、日本書紀から無理やり倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)や神功皇后(じんぐうこうごう)が卑弥呼じゃないかと言う人いたが、それは無理があり過ぎる。倭国大乱の後、有力豪族により女性の王が共立され創られた国家である。
畿内が正しいだろう。
箸墓が比定されているが、何しろ陵墓の調査が全く出来ない以上、ずっと諸説飛び交うままだ。邪馬台国は北九州にあり、日向の国から神武天皇が滅ぼし東征に向かうのが自然な流れだね。
- 163名無し2023/02/26(Sun) 13:33:04(1/1)
魏志倭人伝には亡くなった卑弥呼の墓について「径百歩の墓」を造ったと記述されている。
「径百歩の墓」という記述から、直径30~50㍍程度の円墳が想像される。
箸墓古墳の規模は前方後円墳であり、
調査では、
墳長およそ278メートル、
後円部は径約150メートルで高さ約30メートル、
前方部は前面幅約130メートルで高さ約16メートルだ。
実際にはもっと大きかった可能性がある。
箸墓古墳が造られた時期は3世紀後半とされ、卑弥呼が亡くなった時期と一致しているが、「径百歩の墓」と表現された卑弥呼の墓に比べて箸墓古墳は巨大すぎる。文献史料からの議論はされ尽くされた感じがするなあ。
新たな考古学的発見を待つ。>>163
言って置くけど
百済が建国されたのは4世紀半ばのことであり、
百済本紀で第13代の王とされている近肖古王が実際は百済を建国したした初代の王だ。
紀元前108年から西暦313年まで漢四郡によって朝鮮半島の北部と中部は植民地支配されていて、朝鮮半島の南部はゆるく支配されていた。
満州にあった高句麗が西暦313年に朝鮮半島に侵入して漢四郡を遼東まで追い出すまで、朝鮮半島に百済や新羅などという国が建国できるハズがなかったのだ。>>163名前間違えるのはアホなんやな
>>154アイヌは先住民ではない
邪馬台国畿内説は日本の歴史の捏造だと思う
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