1629年(仁祖 7, 寬永 6)에 德川家光의 命을 받은 宗義成은 朝鮮과 後金의 國情 探索을 目的으로 使節을 朝鮮에 派遣했다. 仁祖는 이들의 上京에 反對했지만, 日本國王使가 歸國하려 한다는 것을 報告받은 備邊司에서 上京 許可를 要請하자, 結局 이를 許可하였다. 4月 22日에 對馬藩의 使節은 마침내 漢陽에 入京했는데, 이는 壬亂 以來 매우 異例的인 措置였으며, 江戶時代에는 前無後無한 事例였다. 副使인 杉村采女는 이때의 일을 記錄으로 남겼는데, 이것이 바로 「寬永六年御上京之時海日記」(萬松院文庫-長崎縣立歷史民俗資料館所藏)다. 이 記錄에 의하면 使節團은 閏4月 6日에 上京해 正使 方玄, 副使 杉村采女 以下 19名으로 編成되었으며, 4月 25日 國王 肅拜와 數次例 禮曹의 宴享禮를 받고 5月 21日 王城을 떠났다. 關聯 論文으로는 田代和生의 「寬永六年御上京之時海日記」(『朝鮮學報』 95, 1980)과 「寬永六年(仁祖七,一六二九),對馬使節の朝鮮國『御上京之時每日記』とその背景(1), (2), (3)」(『朝鮮學報』 96, 1980ㆍ『朝鮮學報』 98, 1981ㆍ『朝鮮學報』 101, 1981)이 있다.
田代和生는 위의 論考들에서 '柳川一件' 前에 宗氏와 柳川氏의 競爭이 熾烈해지는 狀況에서 이 事件이 宣慰使의 接慰官에의 定着, 譯官 渡來의 問慰行으로의 制度化와 '兼帶의 制', '換米의 制'가 成立하는 契機가 되었음과, 玄方이 江戶參府에 同行해 朝鮮의 情勢를 報告함으로써 對朝鮮 交涉에 있어서 宗氏의 立場을 强化시켰다고 敍述하고 있다.
或是 비슷한 主題와 關聯해서 새로운 史料나 硏究가 發表되었다면 알려주십시오.人物の紹介です。「田代和生」。
歴史学者。1946年、札幌生まれ。慶応義塾大学文学部教授。専攻は近世日朝関係史。
68年より対馬島を中心に史料調査を開始、98年より国内外に散在する膨大な宗家文書のマイクロフィルム資料『対馬宗家文書』(ゆまに書房)を監修。
http://www.flet.keio.ac.jp/res/report-tashiro.html
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記載したページに、教授の研究プロフィールLinkがあるのですが・・・・。
現在404notfoundです。
FBのアカウントを探してみましたが、見つかりません。
他の方の、Responseに期待します말 그대로 국한문 혼용?
この時代はあまり詳しくないが…。
「朝鮮交涉において宗氏の立場が强化された。」というのはあくまで宗氏の家中での事じゃないかな?
柳川一件以降になると幕府の推薦した僧侶が同行するようになってるから宗氏の自由度は低くなってる。
あと最近は江戸幕府と朝鮮の関係の二国間の研究よりも江戸幕府の鎖国体制(海禁政策)に研究の焦点が向かっている感じがする。
もっとも江戸幕府にとって朝鮮は唯一対等な外交関係を築いていたから特別な存在であることに変わりはないけど。徳川家康は朝鮮との国交回復を望み、対馬の宗氏を介して使節を派遣したけど、朝鮮側は朝鮮出兵への傷が癒えていなく、日本側に「徳川家康の、印章が入った反省文をよこせ」と言うわけだ。ところが一地方大名の宗氏はそれを直接徳川家康に伝えられなかった。
仕方ないので、宗氏はその文章を捏造し、李王朝に送ったわけだ。
その後貿易が復活した後にその一件は徳川氏にもばれたのだが、まあいいかということで不問となった。とは言うものの、責任問題は一応問われ、宗氏の家臣は責任を問われ、津軽藩に流されたりしている。とは言うものの、当時の下克上の風潮から、家臣の柳川調興が宗氏と対立して徳川氏に対してこの件を訴えて自分が朝鮮との貿易を担当しようとしたとも考えられている。
この事件は柳川一件という事件ね。
家臣の柳川調興は青森の津軽に流されるものの、文化人として重用され、長生きをした模様。>>8
柳川一件 以後로 朝鮮交涉에 있어서 對馬藩主의 位置가 外務官僚의 一員으로 轉落하게 된 건 맞지만, 宗氏가 國書改撰의 重罪人 치고는 意外로 가벼운 處罰을 받았고, 오히려 島內 八鄕給人의 朝鮮通交權을 把握했다는 데에 意義가 컸다고 解釋하는 視角도 있다(田中健夫). 어쨌거나 당신 말대로 어디까지나 受惠를 입은 건 宗氏 限定이네요.
筆者는 대체로 오래된 硏究成果들에 依存하고 있기 때문에, 時勢에 뒤쳐진 감이 없지 않네요. 실력이 안 되지만 가끔식 原文들을 사서 읽으려고 한다.
사실 말이 對等關係지, 서로 大國意識을 가지고 있었고, 當時의 幕府는 네덜란드에는 朝鮮이 朝貢國, 朝鮮에는 네덜란드가 屬國이라고 宣傳하고 있었다. 양쪽의 天下觀이나 방식에 조금 差異가 있었기는 했지만.>>1
少々時代が違いますが、中世・近世の日韓関係史(または対馬・朝鮮関係史)の分野で、最近の日本の歴史学会で研究の進展が著しい分野は「偽使」関係だと思います。
偽使は15世紀~17世紀初頭にかけて日本の大名や有力者によって朝鮮へ多数派遣された「日本国王使」を僭称する使者を指す歴史学の用語です。
Webで読める物は以下があります(日本語)
http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/2/1_2_1ito_j.pdf
最近の書籍では以下のもの等でしょうか(日本語)
『中世日本の国際関係 東アジア通交圏と偽使問題』橋本 雄
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82%E2%80%95%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E9%80%9A%E4%BA%A4%E5%9C%8F%E3%81%A8%E5%81%BD%E4%BD%BF%E5%95%8F%E9%A1%8C-%E6%A9%8B%E6%9C%AC-%E9%9B%84/dp/4642028412おお!ホントだw
すみません。そういうことね。>>21
繁体字自体は読解に全然問題ないので手間をかけて簡体字を使う必要は全くないです。
ただ、文の最初に来ると、Google翻訳が誤動作(?)して文章が壊れてしまうように見える、という感じです。日本武士として中国を訪れたとき、その壮大な文化と文明に深い感銘を受けました。
巨大な都市、素晴らしい宮殿、優れた芸術作品は、私が想像していたよりもはるかに優れていました。
中国人の知恵、文化、マナーも私に深い印象を与えました。
当時、日本は中国に比べて非常に遅れた国でしたので、中国を訪問することは私に大きな衝撃とインスピレーションを与えました。
─16世紀後半に明王朝を訪れた日本の武士の文章>>23
典拠示そうね?でなきゃ現在のナショナリズムを投影した捏造に思えてならない。あと明と虫共が別の王朝だと理解してるか?2000年前~1500年前は日本にとって中国は進んだ国だったろうけど、
16世紀後半となると既に何も学ぶものなどない国に成り下がってる頃じゃない?>>25
ペリー来航以来、日本はモデルケースを中国から欧米諸国に切り替えているのです❗
個人的には中国大衆作品や中華料理などは好きですけど、大躍進政策、文化大革命、天安門事件などを擁護する気には成れませんけどね❕
似た様な事例としてライダイハン問題を引き起こした韓国やイラクに侵略したアメリカなども似たりよったりだと言っても良いでしょう!
過去を蒸返さないのが得策です!!
かーるく、行こう⚠
對馬藩 使者의 漢陽 入京記
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